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近況 2007年9月


防災ハンドブックの6頁目

9月1日、防災の日。関東大震災を忘れないための日です。横浜市緑区が「あなたは家族を守れますか? 地震に備える四つの力」という防災ハンドブックを発行しました。これへは私の写真も提供しています。前にも書きましたように横浜市は防災に熱心な都市です。しかし切実な状況であるにも関わらず、市民の方が何らの対応をしていない、という報道が最近ありました。生命に関わる深刻な事態ですから、自治体任せでなくもっとしっかりした国策が必要ではないでしょうか。
 思い出して私が高校生の時に撮影した伊勢湾台風被害をデジタル化しました。少量で稚拙ですが近日公開したいと思っています。


2日、日曜日。快晴できれいな雲が次々とやってきます。上空でクロスする旅客機が美しいパターンを作りました。終日デジタルワークで暮れました。   (2007.9.2 今駒清則)


3日、ちょっと写真の掲載が遅れましたが先月8日奈良国立博物館講堂であった「世阿弥忌セミナー」の席で冷房が強かったので休憩の時に「ひなたぼっこ」して冷えきった体を暖めていると、博物館の池から出てきたカモたちが目の前を横切って別の池に向かっていました。

 その日、奈良に向かう道筋で赤信号を無視して交差点に入ってくる車と衝突しそうになりました。大阪では赤信号になってからも2〜3台は交差点に入ってくることが時々ありますので注意しているのですが、私が青信号で進み交差点の中央へさしかかった頃に猛スピードで目の前を通り抜けて行きました。急ブレーキを踏んで難を逃れましたが危ないところでした。お陰で車内のシートに置いてあったバッグや書類が前に飛びだして散乱してしまいました。

 こんな大阪を運転するのは自分が慎重に安全運転を心がけるしかありません。おもいがけなく事故に遭遇しても安全運転をしていれば最小限の被害で済むことでしょうし、こちらから事故を起こすこともなくなります。私の自動車プリウスはエコ(省燃費)カーですが安全運転カーでもあります。燃費は普通に走っても18Km/L位ですが、エコドライブを心がけて走れば少なくても20Km/L以上になります。プリウスのエコドライブ・ホームページ(「プリウスマニア」)がある位ですから、それを見るともっと好燃費にしたいという気にもなります。これが図らずもそのまま安全運転につながるのですから一石二鳥というものです。詳しくは同ホームページをご覧いただきたいのですが、要はできるだけモーターで走る、できれば「滑空」(エンジンもモーターも停止状態)で走る、車の走行する慣性を最大限利用する(急な加減速をしない)、先を見通して早めにアクセルを戻す(充電できる)、高速走行を少なくする(高速走行はモーターのメリットが少ない)、停止時はブレーキペダルを踏んだままにする(エンジン停止)といったものです。これはすべてアクセルペダル一つの操作加減です。

 ですから私は入り組んだ住宅地や曲がり角の多い道では強制的にEVモード(モーター走行)にして走ります。こういった道はアクセルを踏み込んだりブレーキをかけたりの頻繁な繰り返しをしますので燃費は最悪になります。EVモードではゆっくりしたスピード加減ですがエンジンは使いませんからエコと安全走行につながります。ただしエンジン音がしないので歩行者が車が来たことに気づいてくれず、急に前に飛び出されたり、歩行者の後ろから延々とついて行くことがありますがしかたないことで諦めています。モーターカーにはエンジンの音が出るように法制化したらどうか、という記事をどこかで見たことがありますが大賛成です。また交差点での発進や右左折もできるだけ 自動EVモード(発進時はモーターを使用し、スピードが必要になるとエンジンがかかる)のモーター駆動の範囲内で運転すると緩やかな運転操作になってこれも安全運転につながります。高速道路では流れを損なわない範囲でゆっくり走り、モーター駆動ができない高速走行はしない、ということで徹底的に走行車線オンリーです。おかげさまでこちらからの事故はありませんが、駐車場に駐車し買い物をして戻ってみると当てられていたというのが先にありました。お腹の大きい奥さんが軽自動車でかなりのスピードで当てたようで、泣きべそをかいて傍に立っておられたのでかえって気の毒に思ったことがあります。お腹の赤ちゃんにはなにも影響は無いようでそれが何よりでした。


4日、朝、蜻蛉の群れが訪ねてきてくれました。でも飛んでいるのを写すのは難しいですね。相変わらずのデジタルワークで暮れました。毎日、一日20時間近くパソコンと向き合っています。


5日、台風9号が東日本に接近。快晴ですが関西でも風が強くなってきたのでベランダの鉢を疎開させました。今日も終日デジタルワーク。雲が多くなって夕焼けがきれいでした。夜半、雲が多いので諦めていましたが、念のために構えていた生駒山の月の出。一瞬でしたが雲間に見えました。


6日、台風の影響で風が強く厚い雲が覆っています。相変わらずの一日。日没がきれいな風景を見せてくれました。。


7日、午前1時前に生駒山にカメラを向けて月の出を待ちましたが、雲が厚くまったく見えませんでした。でも朝から台風明けの快晴。机に向かっていると賑やかなお囃子が。今日から開口(あぐち)神社の八朔祭で、この地方独特のふとん太鼓が大小路を巡行しています。運動不足なのでカメラを持ってついて行くことにしましたが、平日の日中なのでだれもついて行く人もなく少々淋しい巡行です。写真の右に見える燈台は堺のシンボル・堺旧港の燈台を模したものです。この大小路の通りを境に、北側は摂津国、南側は和泉国となる国境(なので境・堺と言う説があります)ですから、同じ堺市内でも摂津側の北庄は菅原神社、和泉側の南庄は開口神社が祭の中心となります。なお菅原神社の八朔祭は一週間後です。今日もきれいな日没でした。


8日、今夜も午前2時に月を待ちましたが雲に遮られてまったく見えませんでした。次は10月初めに生駒山から月が昇ります。今日は雅楽の音色が聞こえてきましたので見ると開口神社八朔祭の鳳輦渡御の車列、左から2台目のトラックが鳳輦です。鳳輦から神官まですべてを車に載せて市内を巡りますが、越境?して北庄にも渡御しています。今日も終日デジタルワーク。


9日、日曜日。晴れから曇りになり、久しぶりの夕立。相変わらずのデジタルワークの一日。


10日、2件の原稿をお送りしたので少しホッとして、気になっていて解決していない古い写真の撮影場所の特定や、古地図と現状が矛盾した不思議場所をweb、古地図、ためていた資料などにあたり、果てはあちこちに電話してお尋ねしたりして日が暮れてしまいました。でもまだまだ残っています。久しぶりに終日小雨が降り、今日は暑さも遠退き扇風機も止めた日でした。

 写真はベランダからおよそ40Km離れた明石海峡大橋をシルエットにして瀬戸内海に沈む太陽です。   (2007.9.10 今駒清則)


11日、厚い雲の日でしたが、夕方から雨になりました。気象衛星の写真を見ると、南西からミニ台風並の熱帯低気圧が近づいてきていて、さらに南方では巨大台風が発生しそうな雲行きです。
 今日もデジタルワーク、仕事が楽しいのでフッと気がつくと2、3時間が過ぎています。というわけで今日も暮れました。今日は雨で太陽は顔を見せませんでした。   (2007.9.11 今駒清則)


12日、10日の日没の写真で明石海峡大橋が見えますが、我がベランダからこの大橋と太陽が重なって見えるのは年に数日だけですし、モヤや雲などの気象条件、黄砂などで見えない日の方が多いことから撮影できたのは大変ラッキーなことでした。ただ本格的に大橋と太陽を重ねるために毎日撮影場所を移動するようにすればもっと確率は高くなるでしょうけれど。

第二室戸台風 望楼が倒壊した大阪市城東消防署

 今日は低気圧の影響もなく快晴。1961年9月16日に襲来した第二室戸台風の被害状況を少し撮影してありますのでデジタルアーカイブしました。当時の私にはまだ記録意識がなかったのでしょう、散発的な記録で恥ずかしいのですが、近日、46年目にこのwebで公開します。

 日没の太陽は大橋にかかる直前に雲に隠れてしまいました。もう明日は大橋から外れて淡路島岩屋付近に陽が落ちることでしょう。次に大橋と重なるのは来年の4月1日前後になります。


13日、明石海峡大橋は目ではここまではっきりと見えません。超望遠レンズのお陰ですが、我がベランダから障害無く見える最遠は西方の大阪湾を隔てて淡路島北部にある妙見山(標高522m)で、約50Kmの距離があります。その麓の海岸近くにある「世界平和大観音像」もただ白いだけですが肉眼で見えることもあります。大阪では南西側(大阪湾)を除いて山に囲まれていますので遮られてそれより遠くは見えません。いつも写している東方の生駒山(標高642m)までは約22Km、金剛山(標高1,125m)までは約25Km、北西の六甲・摩耶山(標高702m)までは約30Kmですので、これらは大体いつも見えます。それでも都市で40-50Kmもの視界がある日はそれほど多くはありません。

 この40-50Kmという距離というのは興味深い距離で、用事などで電車を使って手ぶらでも気軽に出かけられる範囲(片道)です。ママチャリ・ツーリングですと日帰りできる最遠の片道距離(体験済)で、一日に歩ける距離のほぼ限度(体験済)でしょう。通勤でもこれ以上遠いと大変ですし、フルマラソンの距離でもあります。どうも現代人の能力であまり無理をしない範囲の限界のようです。(40Kmという片道距離(直線)にある都市は、大阪(JR大阪駅)からでは京都、奈良、神戸、関空。東京(JR東京駅)では千葉、木更津、横浜、昭島、川越あたり、名古屋(JR名古屋駅)からでは瑞浪、岡崎、四日市、大垣あたりになります。)

 こういった感覚も日常の中で有効なだけなのです。例えば私の経験では中国内蒙古のホロンバイル草原で、夕刻に明日の日の出を撮影するための近くの丘を見定めて、翌朝暗いうちに丘を目指して包(テント)から歩き出したのですが、約1時間ほど歩いたところで日の出になってしまいました。丘へは麓どころか、目指す丘の大きさもほとんど変わらない、まだまだ遠いところにあるのです。これは草原の空気が澄みきっているために、遥か遠くにある丘がほんの近くに見えたためです。また360度何の変化もない草原ですから、比較するものがなかったことにもあります。日本の日常感覚で簡単に距離を計ったのが間違いのもとでした。

 現代では飛行機や新幹線、自動車、望遠鏡などの利器があるので、それを利用すれば一気に何倍もの能力を持つように思えます。ですから東京日帰り(往復約1,000Km)はいつものことですし、明石海峡大橋がよく見えるのもそのためです。職業によっては何千Kmも近所、という方もおられることでしょうが、これが鉄道などがない江戸時代であればまた違った感覚の尺度だったのでしょう。そのあたりは面白そうなのでまた調べて見たいと思います。

 11日に予想した熱帯低気圧はさほどの影響は無かったのですが、南方のあやしい雲の気配はやはり台風11号となって今日発表されました。沖縄方面に向かっています。今日も夕焼けが美しい変化を見せました。


14日、朝早く西の空にある雨雲に大きな虹がかかりました。朝から神戸のポートアイランドにあるPIX神戸スタジオApple主催のStudio Go for Mac Pro in Westに夕方まで出席。Mac Pro、Phase One、Hasselblad、Adobe、Leaf、Mamiya、Sinar、Profotoなどメーカーや販社がプロ写真家向けにデジタル写真機材のデモや簡単なセミナーを開催したもので、最新情報の収集にで出かけたものです。おなじみの写真家なども顔を揃えていてまず良い催しでした。冷房のせいでやはり頭痛がしましたが、なんとか終わりまで我慢をして、外に出ると暑さでドッと汗が吹き出ました。普段冷房無しでもあまり汗はかかないのですが、一日空調された中にいると身体はそちらになじんでしまうようです。会場の写真スタジオは最近にできたようですが、なかなか素晴らしい設備です。どうぞご利用のほど。

 スタジオの隣の駅が神戸空港衛星写真地図で、いつも大阪の遥かな対岸から離発着を見ているので帰りに立寄って見ました。とても小さな海上空港で、ポートライナーを降りるとすぐ空港のカウンターなのでとても便利です。滑走路のすぐ横を船が往来し、西に六甲山と神戸市街のスカイライン、南に明石海峡大橋と淡路島が望め、海風が心地良い展望台があります。家から車で湾岸線を走れば約40分で到着しますし、駐車料金は搭乗利用者が1日1,000円(普通は1日1,500円)と格安。便数が少ないのですが関西空港より便利です。   (2007.9.14 今駒清則)


1961年9月16日の停電

15日、明日の16日は第二室戸台風が猛威をふるった1961年から46年目になります。私はその2年前に故郷で伊勢湾台風を経験し、大阪に来てすぐに第二室戸台風にもあったことになります。私が19歳の時でした。16日のお昼の台風が治まってきたので近所を少し撮影し、夜は停電でロウソクを灯して制作をしていました。翌日は友人のバイクに同乗させてもらって市内に出かけて被害の様子などを見てきました。私は実に真面目に制作ばかりしていましたのであまり出歩くこともなく、大阪の地理などはよく知らない時でしたので、行き先は運転する友人任せでしたから、どこを廻ったのか今では詳しい記憶がありません。中之島付近は高潮で浸水していましたので、そこへ行ったのは理解できるのですが、その後、なぜか布施市(現・東大阪市)へ向かったのは友人にとって何か意味のある所だったのでしょう。

電柱がほとんど倒れ、通行も少ない布施で バイクが故障する。直そうとしている友人

 その帰りにバイクが故障したので修理に預けてバスで帰りました。後日バイクを引き取るのに友人には修理代も無い、というので私が行くことになって、私の乏しいお小遣いで支払い、乗って帰りました。その友人は今までガソリンをおよそ買ったことが無い、とか言っていましたので、どうして走り廻れたのでしょう。およそ皆が貧しい時代でした。その後は音信不通でしたが、25年ほど経って信号待ちをしていた私の車の隣に停まったダンプカーから呼びかけがあり、見るとその友人でした。こんな奇遇があるとは、と今でも思うのですが、青信号になるまでの1、2分の会話で別れたその後も行方はわかりません。不思議な人でした。

 わずかですがこの時に撮影した第二室戸台風後の写真をギャラリーページの「アーカイブ」に掲載しました。今考えればもっと記録しておくべきだったのでしょうが、その頃はまだまだ写真をよく理解していなかったこともあって、そんな程度の写真なのですが。   (2007.9.15 今駒清則)


1961年の中之島の川縁。自動車が見えています
現在の川縁。かさ上げの防潮堤で道路は見えません

16日、日曜日。第二室戸台風の日。高潮で浸水した大阪は、その頃地下水の汲み上げなどで地盤沈下していて浸水の被害はかなり大きかったので、沈下の防止と防潮堤や橋のかさ上げ、防潮水門の設置などの対策を急速にとりました。例えば土佐堀川の中之島・肥後橋付近では高くなった防潮堤の上が遊歩道となっていますが、そこまで行くか、橋を渡らないと水の都といわれた大阪の川面は見られません。


17日、敬老の日休日。ルネ・マグリットの描くような雲がポカポカと浮いています。終日デジタルワークで過ぎました。


世界平和大観音像
生駒山 山上

18日、なぜか朝から視界が良好。このところ猛暑が続いていて遠くはボンヤリした日が続いていたのにですが、相変わらず暑いのに不思議です。淡路島東北部の淡路市釜口にある世界平和大観音像地図が大阪湾を隔てて、とても小さい白い棒のように見えます。高さが100mもあるそうですので47Kmも離れていても何とか肉眼でも存在だけはわかります。これは750m先にいる人物の大きさに相当します。望遠レンズですとお姿がわかるようになりますが、真夏日の日中に撮影したので大気のゆらぎとカスミで細部までは無理です。ただ海上を通しての撮影ですので大気のゆらぎは陸上よりはずっとマシです。以前に観音像の前の道を自動車で通っただけなのでその内容は知らないのですがいろいろと話題があるようで、「珍寺大道場」というホームページにここの紹介がありました。

 ちょうど反対側にある生駒山衛星写真地図がこれもかなりクリアに見えています。こちらは22Kmしか離れていませんので山上の鉄塔群は肉眼でも見えます。望遠レンズではもっと良く見えるのですが、拡大すると鉄塔の柱がグニャグニヤと曲がって写っています。陸上の熱気でゆらいでしまいますので冬に撮影すれば少なくなるはずです。


19日、今日も暑い日でした。太平洋の高気圧が例年になく居座っているためだそうですが、台風はそのせいで日本列島に寄りつけず大陸の方に押しやられています。

 会議があって終了後に近くにある、私が20才前後に住んでいた所を何十年ぶりかに訪ねて見ました。いま大都市の中にあっても昔ながらの農村のままで、中心となる道も曲がりくねって、何とか自動車が通れるかという程。辻にお地藏さんがお祀りしてあり、長屋門の家があちこちにあります。神社には江戸時代末期の手水や灯籠があって、市指定保存樹の楠が程良い日陰をつくっていました。私が過ごしていた時とほとんど変わっていません。まさにタイムスリップでした。現代都市の中にあっては以前と同じには建替えができず、前面を道路にとられ、新工法による新しい住宅に変わるところがポチポチとあり、その周りの空気がなんとなく尖っていたような気がしました。防災上は好ましいことですが、いずれ碁盤の目の道路の中に入れられて、どこにでもある町にさせられてしまうことが本当に良いのか、考えさせられたことでした。


12mmから35mmまでの広角レンズ

20日、朝から終日雲一つ無い青空。こうなると空に変化がなくて1カット写しておけば後は撮ることが無くなります。そこで急に思い立って手持ちレンズの描写テストをしました。銀塩カメラ時代のレンズがデジタルカメラに使えるかどうかの確認のためです。自分用のデータ採りなのでデータを公開することはないのですが、Nikon、Canonのデジタル一眼レフカメラにつけるワイドレンズと、ワイドズームレンズの性能比較です。レンズはそれぞれの純正レンズに加えて、交換レンズメーカーのTAMRON、TOKINAの最近のデジタル対応レンズ、それに以前使っていたOLIMPUS OMのZUIKOレンズです。ZUIKOはマウントアダプターでCANONに着けられます。(NIKKORもCANONに着けられますが、最近のレンズは絞りが使えません)。レンズはデジタル対応のレンズと、対応していないレンズと取り混ぜでワイド領域のレンズを一気に撮ってみました。後で気がついたのですが、まだ2本あるのに忘れています。

 目的は画面周辺部の画像解像と、周辺光量、カラーバランスの分析です。これから細かく見るつもりですが、簡単に見たところでは、周辺解像では高価な純正レンズより、その何分の一かの価格の交換レンズメーカー製デジタル対応レンズの圧勝でした。純正レンズの中には銀塩カメラでは良かったのに、デジタルカメラではまったく使い物にならない、とても高価なレンズもありました。健闘したのはZUIKOレンズで、色滲みは多少出るものの(これはRAW現像の時にごまかせます)なかなか良いのです。ZUIKOは24mmと35mmのSHIFTレンズ(アオリレンズ)もありますので、これは敗者復活で現役復帰させます。

 一般的にレンズは絞りを絞っていけば画質は向上します。デジタルでも同じですが、デジタルに適応できないレンズは絞っても周辺解像はそれほど向上しません。もちろん絞れば周辺光量は良くなり、ハロは少なくなるのですが、例えば流れたようになる像は絞りでは改善されないのです。それはフィルムと受光素子という画像を受ける側の違いから起きる問題で、使い方では改善できないのです。そういったレンズはデジタルカメラには使わないで、銀塩カメラだけにします。

 カラーバランスは各レンズともにバラツキがあります。これは銀塩の時にもあったものですが、フィルムのバラツキを介在しないだけデジタルの方がシビアに現われます。しかし手間がかかりますがデジタル処理で調整可能です、なおバケツレンズなどの高価な望遠レンズはメーカーで調整してもらえばデジタルでも性能は発揮します。従来の普及型望遠ズームレンズは、以前テストをした時にわかったのですがまずだめでした。

 結局そのレンズの良いところだけを引きだして使い続けるとか、趣味で使うなら別ですが、オールマイティに仕事で使いたいのならデジタル対応レンズを新たに買ったほうが良い、という至極簡単な結論になりました。


21日、早朝は雲一つ無い青空。しかし徐々に雲が広がって一日中変化のある空でした。

 「一日一善」という格言が在りますがこれはなかなかできません。「一日一膳」(ただし膳は米の飯のこと)は昔から私の習慣で、食が細くて「少食」より「貧食」に近いのですが、それでもなんとか生きてます。仕事と自主制作も含めて「一日一ギガ」がここ数年のモットー。「ギガ」とはGB(ギガバイト)というデジタルデータ量の単位のことで、デジタルカメラの機種によって写真一コマのデーター量は違いますが、RAWで10MBから20MBの容量です。1GB=1024MBですから「一ギガ」は50から100枚を一日に撮影することになります。フィルムでいえば一日2、3本というところですが、今のところ十分に実行できています。


22日、朝、いつもの所にいつもの独り雲が。ずっと不思議でしたが謎は解けました。謎解きはまたいずれ。これから時々掲載します。


井筒

23日、秋分の日、日曜日。朝早くから仕事場で一仕事。それからお昼前に出て京都の金剛定期能へ。能「井筒」、名曲を永謹宗家が舞う。強いくらい利く孫次郎の面、柔らかな舞い。在原寺の一叢ススキは見ごろでしょう。最近の能は剛直な舞がハヤリ。それだけに金剛流の舞は楽しいのです。狂言は「萩大名」、無知な田舎大名に忠三郎が合う。亭主に安東伸元、対照的に強い。上手いのに舞台数が少ないのは残念。能楽堂の庭にも萩の花少し。続いて能「女郎花」(おみなめし)道一演。誤解から身を投げた妻の塚から女郎花が咲く。黄色の野草、夫も悲しみから身を投げる。男山の悲劇。面は邯鄲でなく若男で上品な装束。今日は舞金剛のエクセレントでした。


24日、休日。終日デジタルワーク。久しぶりに雨の一日でした。


25日、明日の26日は伊勢湾台風から48年目になります。私が高校3年の時でした。私が経験した最も強い台風です。その時に少しだけですが撮影した写真をアーカイブスに掲載しました。写真がブレていたり、ピントがあやしかったりしていますが、大目に見て下さい。

私が見た伊勢湾台風

 1959年9月26日は台風接近で風雨が強くなり、半鐘を打ち鳴らす警報で近くを流れる矢作川に洪水警報が出たことがわかりました。
 当時私が住んでいた豊田市街は歴史的にみても洪水にみまわれやすい所で、川へは歩いて15分ほどの所なので水の様子を見に行きました。そこは夏に私たちが子供の頃から川水浴をする高橋のたもとですが、川原が見えるどころか、水はあと2、3m位で堤防上に迫っていて警防団が見守っていました。
 
 帰りは周りに田畑しかない堤防から下る道では、西から吹く向い風が強くなってきてなかなか前に進めなくなりました。前かがみで電柱から次の電柱までやっと進み、電柱にしがみついて風が少し弱くなった時に次の電柱まで行くようにしてやっと帰ってきました。

 自宅は木造の平屋で、風に備えて父が雨戸などを固定していました。
 夜には停電となりローソクを灯していましたが風雨はますます強くなり、ついに裏庭の塀が倒れました。同時になんと畳が浮き上がってきました。縁側の下から吹き込んだ風が畳を持ち上げたものでしょう。子供たちも畳の重石になって乗っていますが、それでも部屋の真ん中はふわふわと浮き上がります。箪笥などがゆらゆらと揺れ、雨戸は吹き飛びそうな風です。ついに家中がガタガタと揺れ、今にも壊れそうな気配がしましたがそれも少しづつ収まり、風下の窓から外を覗くと暗やみに垂れ下がった電線が風に飛ばされて火花を散らしていました。
 (続きはアーカイブスの「私が見た伊勢湾台風」をご覧下さい)




 今日は中秋です。一気に涼しくなって秋めいてきました。日中雨が降ったりしたのでお天気を心配していましたが、夜中にすばらしく大気が澄んできて名月になりました。星がいつもの何倍か見えます。感激するほどの夜空です。なお満月は27日になります。お団子はもう先にお腹の中に入ってしまっています。

 明日は学会の理事会や打合せなどで日帰り上京です。


26日、仕事の都合でツメてしなければならないことがあり集中。それでも夜半に名月を楽しみ、取りあえず一段落したのが朝6時過ぎ、ちょっと一眠りをしたいのですが、いつもの起床時刻です。東京行きに8時前には出るのでそのまま出かける準備。新幹線ではやはりウツラウツラするけれど名古屋駅で目が覚めます。その先の安城と岡崎の間で、北側の遠くにある猿投山を眺めるのが習慣です。子供の頃から毎日見て、何かといえば登ってきた山ですからどうしても探してしまいます。富士山は雲で隠れて見えず東京着。赤坂見附まで丸ノ内線で、地上に出ると見附の石垣。しばし眺めたいのですが約束の時間が迫っているのでパス。5日に開催する日本写真芸術学会の関西シンポジウムに鼎談でお話いただく佐伯剛氏のオフイスで打合せ。とても真摯にあれこれコーディネートをお考え頂いておられましたので良いシンポジウムになると思います。写真とはなにか、をドキュメンタリーから追及する内容ですのでどうぞお出かけ下さい。

 その後、「江戸切絵図」や明治の地図に無い、また新しく区画整理でできた道でもない、私が見つけた不思議な道の実況見分に一番町付近まで歩きます。歩くと土地の高低が実感として残りますので大事なことなのです。明治の地図だけで崖地と思い込んでいたところが、実際は谷になっていて、江戸の開発まで谷間は小川の流れる湿地帯だったであろうと想像しました。もちろんそこは今道路になっています。地図だけでは読み取れなかったものが現地でどんどん解決していくのが面白いですね。やはり地質図も参考にしないといけないことを改めて学びました。で、不思議な道はまだ十分に解明されていませんが少しヒントはありました。これからも続きます。ただしこれは仕事でもなく、解明したところで何の役にも立たない事で、私の知的遊戯みたいなものです。

 近くのJCIIフォトサロンで「緑川洋一の世界」写真展を見て、恵比寿の東京都写真美術館に向かうのに半蔵門線が事故で動かず、地下鉄乗り換えなどでもたつき永田町でかなり歩かされ、すっかり疲れて着いた都写美で休憩、「昭和・写真の1945-1989」とキュレーターズ・チョイス07」写真展を楽しみました。やはり写真は良いですね。

 都写美を出ると恵比寿ガーデンプレイスの広場で空が開けます。今までもよくここに良い雲が現われるのですが、今日もカメラを向けるのに良い雲が出ていてくれました。その後学会理事会に出席して7時半に退出、大阪への帰宅は丁度午前0時でした。


27日、溜まったデジタル写真の整理とその他雑用の片づけ。珍しく足がむくんでいます。昨日の何かが影響したのかもしれません。高山在住の学生時代の旧友からe-mail頂きました。来月の高山祭についてです。高山祭は昔から行きたかったのですが、春、秋ともに学務の忙しい時期なのでずっと行けませんでした。今年こそ、と楽しみにしています。

 今夜の満月もとびっきり輝いていました。夜中の飛行機雲が虹色になっています。


途切れた道 1

28日、近くを通りかかったので、地図上で見かけて気になっていた道を訪ねてみました。

 この小さな橋を渡って北に真直ぐ行くと堤防に突き当たります。その先には道がありません。ただし、右へ曲がって堤防へ上がり、新しくできた橋を渡る道はあります。実はこの道より後に川ができて堤防が築かれたため、この先にあった道が無くなったのです。この道は下高野街道と呼ばれる古くからの村と村を結ぶ道でした。そして川は江戸時代初期に人工的に造られた大和川です。小さい橋は今井戸川にかかる下七郷橋で、この橋の手前には阿麻美許曽(あまみこそ)神社があり、川向こうになった村の氏神です。つまり村の中に大きな川が通るようになって、神社だけが川向こうになってしまったのです。このように新川(新大和川、現在の大和川)ができて分断されてしまった村が幾つかあります。そのためにいろいろなことが起きました。例えばこの神社ではしませんが、お神輿がお渡りをするのに川中を渡るようになったのが有名な住吉大社とか川辺の八幡神社です。またこの神社一帯だけが松原市に食い込んだ大阪市域ですし、逆にこのすぐ東側では大阪市に食い込んだ形の松原市域があります。新川は急造で作られたので天井川でしたから、この一帯の悪水や雨水は新川に流れ込めず塞止められてしまうので、排水のために同時に作られたのが今井戸川です。またこの左手先には最勝寺がありましたが、新川のために現在の所に移転させられました。

 大事な神社が川向こうにあるのですから新川を渡って行かなければなりません。1887(明治20)年製版の測量地図でも橋は架けられていなかったようで、堤防を越え川原を歩き、渡し舟で渡るようになっています。

1887(明治20)年製版の大日本帝国陸地測量部地図から

 明治になってそれより東に橋が架けられ、1927(昭和2)年に鋼橋(赤色)と新道(褐色)もできました(明治20年の地図へカラーで加筆)。これが現在の下高野橋です。以来この神社の横を通る古道(茶色)は途切れたまま数軒の住民が往来するだけの道になりました。下高野街道は四天王寺辺りから南下してここを渡り、狭山池あたりで堺からきた西高野街道と合流します。それと、このすぐ西側付近には日本書紀にある難波大道が通っていたと推定されていて、これもなかなか面白いものを地図上から見つけていますが、これについてはまた歩いてからにしたいと思います。(この場所は衛星写真地図、大和川については大和川付替え300年大和川河川事務所のホームページ、を参照下さい)


29日、涼しい風が列島に入ったため秋らしい気温になりました。厚い雲が次から次に来て小雨も降り続く一日でした。終日デジタルワーク。


30日、日曜日。朝から雨、雨の続いた日でしたが夕方から雲が切れ、日没前に淡路島の妙見山衛星写真地図に僅かに夕陽が射しました。例によって地図を眺めていましたら、また幾つかの興味深いところを見つけ、その歴史的背景などを調べていましたら日が変わっていました。もう10月になるのですね。


8月 07年9月 10月