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近況 2008年2月


雪の金剛山  撮影:今駒清則

1日、ここしばらく金剛山衛星写真地図は雲に隠れたままでしたが、午後になって雲がきれて陽があたると山頂付近が真っ白に輝いた姿を見せました。いま登ると素晴らしい景色でしょう。

 相変わらず書類作りで、イヤイヤの仕事ですので中断して散歩がてらに古書店を覗き、またまた買い込んでしまいました。なかなか落ち着いて読む時間も無いのに本が溜まる一方です。

 「20世紀の巨匠たち」の写真展のご案内をいただきました。大丸ミュージアム・梅田(大丸・梅田)で27日からですが、会場のホームページの準備がまだのようですので、出品作家名だけを挙げておきます。マン・レイ、エドワード・ウエストン、ウイン・バロック、アンセル・アダムス、アービング・ペン、エルンスト・ハース、ロバート・メイプルソープ、ウイリアム・クライン、ロバート・キャパ、アンドレ・ケルテス、ヘルムート・ニュートン、アンディ・ウォーホル、ルイス・ハイン、W.ユージン・スミスといったおなじみの写真家です。招待券もいただきましたのでご希望の方はメールでお知らせいただければお送りします。(先着10名様、各2枚です)

(2月3日追記:お知らせいただきました方には招待券はすべてお送りいたしましたので手持ちは無くなりました。以後はご容赦ください。)


お地蔵さま  撮影:今駒清則

2日、道路を広げる(画面左端)ために住宅が立ち退いた後、お地蔵さまだけが取り残されていました。それでもこれから少しづつ住宅が再建されて、また昔のように過ごせる日も近いことでしょう。ただお堂が少々傾いていますので、ついでにちょっと直していただけると嬉しいのですが。

 あまり気の進まない書類作りなので、それより気になっている歴史的な場所へ出かけて、それまでに調べた資料で現地を確認し、写真の撮影をしてきました。曇り日で寒い日でしたが下調べとしては上々の出来でした。いずれここに掲載したいと思います。


3日、日曜日。昨夜から雨になり、お昼頃は一時ミゾレに変わりました。日の暮れ頃から雲が上がりだして遠くの山々の麓が白くなっているのがチラッと見えましたので山には雪が積もっているのでしょう。明朝の景色が楽しみです。

 昨日は水門会の総会があり、水門会写真展を来年奈良で開催することが決まりました。テーマは昨年と同じで「やまとごころ」、昨年の写真展が好評でしたので次回も良い写真展になるように考えねばなりません。ほかでも開催が出来るようなら巡回展にしたい、との案もありましたので、何かのご縁で開催ができるようなことがありましたらどうぞお知らせ下さい。


鈴山古墳  撮影:今駒清則

4日、立春です。朝から雨模様で視界が開けず周辺の山々に雪があったのかどうか、結局一日中モヤっていて見えませんでした。昨夜はすごく晴れていたので朝の景色に期待していたのですが。

 2日にロケハンに行った時、喜ばしい状況を見ました。堺市が古墳の草や立木を伐採してくれて、その姿がよく見えるようになっていたからです。写真の鈴山古墳衛星写真地図は堺市の田出井山古墳(伝反正天皇陵)の陪冢で5世紀末頃と考えられています。古墳の内容はさておいて、良かったのは草木を除いてくれていたことなのです。多くの古墳は樹木が茂っていてその姿がよくわからないようになっています。これは本来の姿を損なうものと考えています。よく行政などが緑が多いほうが良い、として史跡公園などに植樹しますが、あれは史跡としての文化財を損なうことになるのですが、緑化の大義名分でまかり通ってしまいます。以前にも書いたことがありますが、堺の大浜公園の台場(砲台)の土塁や大阪城内には樹木が多すぎて城郭としての景観を損ねています。武骨な城郭は武骨でなければなりません。それを植樹したり庭園化して四季親しめる場所にしようというのは間違っているのです。植樹すべきは公園や街路、神社や公営住宅周り、できれば一般住宅にもどんどん植えてほしいのです。先日兵庫県立美術館の「ムンク展」のオープニングの時に前の大阪城主(?)渡辺武氏に久しぶりにお会いして、大阪城に樹木が多すぎる、といった話をしたばかりです。渡辺大阪城前館長も大阪城の名石垣が樹木で隠れているので、木一本を取り除こうとしたら諸管轄との調整に大変な手間がかかった、と嘆いておられました。お役所では一旦植えられた樹木を伐採するのは財産が無くなるといった感覚だったのでしょうか。大阪城については、私は前から石垣周りの樹木は一切伐採して、櫓の再建は無理としてもせめて白い塀を巡らすべき、と提言しています。


生駒山山上  撮影:今駒清則

5日、雨から晴れ、また雨へ、と目まぐるしくお天気が変わる日が続いています。今日は晴れたのですが遠くの山は霞んで良く見えません。それでも午後になってやっと生駒山がなんとか見えるようになり、山上だけにチョッピリ雪が残っているのが望遠レンズで見えました。昨日は多分白くなっていたのでしょう。今日は割に暖かかったのですっかり融けてしまったようです。生駒山より高い金剛山、葛城山は良く見えませんでしたが、多分雪は残っていることでしょう。


7日、旧正月、春節です。中国、台湾の皆さんに新年のご挨拶を申しあげます。

 まだ書類と格闘していますが、どうもやる気のない物なのでどうもよそ事が多くなります。それで先日ちょっと気になること、と書いたことを簡単に整理してみます。

クロガネモチと向井神社 1

けやき通りのクロガネモチ  撮影:今駒清則

 堺市街の東、三国ケ丘を南北に通る広い道路衛星写真地図があります。けやき通りと呼ばれていますが、この道の西には方違神社田出井山古墳(伝反正天皇陵)などがあります。この通りの西側歩道上に大阪府指定天然記念物のクロガネモチが痛々しい姿を見せています。上部は折れ幹は補修され支柱で支えられていますが、それでも手当ての甲斐があったのか良く繁っています。この樹のかたわらに説明板があり、そこには(前略)大阪府下で指定をうけるくろがねもちは堺の二例を数えるのみで、なかでもこのくろがねもちは径・幹周が最も太く、そのひからびた樹皮からもかなりの年輪をもつ巨樹であるといえます。この地はかっては方違神社の参道脇にあたり、現在は樹勢にもやや衰えがみえるこの木も、当時は豊かな緑につつまれていました。/平成四年三月/大阪府教育委員会/堺市教育委員会」とあります。ここでンンっと思ったのは「この地はかっては方違神社の参道脇にあたり」というところで、最近この付近について調べていたこともあって、そうだろうかと思い、帰ってから調べて見ました。

「文久三年改正堺大絵図」から

 まずはこの付近の地理で、例によって江戸時代頃から始めます。「文久三年改正堺大絵図」(1863年)を見るとこの付近には牛頭天王と書かれた古社の向井神社があります。そして北西に隣接して方違神社、西には田出井山古墳(伝反正天皇陵)と陪冢の鈴山古墳があります。神社がこれほど隣接してあるのは珍しいことで、この地が百舌鳥古墳群の北西端で埋葬の地であること、行基の伝承や、古は海に近く、熊野街道や長尾街道も近くを通っていて古代からひらけていたこと、住吉大社の圏内にあったこと、などからそれぞれの意味をもって二社が存在していたのでしょう。特に向井神社は百済の王仁を祀り、また田出井山古墳は王仁の墓であるというような俗説もあったりして興味深いのですが、ここでは神社の由緒でなく、このクロガネモチがどうであったかを検証してみます。

「和泉名所図会」から「東原天王(向井神社)」部分

 上の絵は「和泉名所図会」(秋里籬島著、竹原春朝斎画)1795(寛政7)年ですが、そこに描かれた「東原天王」と題された向井神社です。この「和泉名所図会」の古墳を描いた他の名所は、古墳や旧跡の位置関係が誤っているものが見られて実地調査して描かれたものか疑われるものがあるのですが、この「東原天王」は実に詳細に描かれていて信用してよさそうです。右端に鳥居があり、参道が南から北へ続いていて、桜並木(推定)を進むと小川があり、これを小橋で渡ると今度は松並木の下を神社に向います。神社の前を横切る道は左に行けば鈴山古墳を通って田出井山古墳(伝反正天皇陵)に至ります。神社入口には四脚門があり、そこから境内奥の社殿まではこれも一直線に桜並木(推定)となっています。途中の右には池や木立があり、左には方墳の天王古墳が見えます。社殿の右奥(東)には車寄せをもつ立派な社務所、屋敷などが見えます。そして左端に見える道は方違神社へ通じています。周囲を鬱蒼とした樹木に囲まれた広くて立派な神社のようです。ただ現在この神社はまったく存在していません。しかしこの絵と地形図とを比較するとかなり符合していますので、それはまた後で述べることにします。(続く)


クロガネモチと向井神社 2

8日、1868(明治元)年、「神仏判然令」があっって神仏分離によって歴史的に重要な寺院も随分と潰されました。また1906(明治39)年から始まった一村一社の「神社合祀令」によって神社総数は約半分になりました。この向井神社もこれに従い、ご祭神は方違神社に合祀され、神社は消滅させられています(合祀されたご祭神は方違神社ホームページの「御祭神」をご覧になると「向井大神」として合祀されています)。神社合祀については熊野街道にあった王子社の多くがこのために消滅していますし、南方熊楠も合祀に対して猛烈な反対論を展開して有名です。明治期は天皇制国家確立のために宗教政策が強引に推し進められたので歴史的に相当な混乱を招いています。明治末に廃絶した向井神社は大戦前後頃に住宅地となって今は現地にはなんら名残を留めていません。

 そこでいつもの通り地形図を利用してそれぞれの位置を確認してみました。1888(明治20)年(明治地形図と呼ぶ)、1929(昭和4)年(昭和4地形図と呼ぶ)、現在の地形図を重ねて必要な部分だけを抽出して作図しています。また衛星写真地図もご参照下さい。

 黒線は現在の市街地、緑色は古墳、水色は水面、茶色は1888(明治20)年地形図にある道、黄色は神社(向井神社は明治、方違神社は現在の社域)、赤印は主題のクロガネモチの位置です。

 「和泉名所図会」による向井神社参道の南端にある鳥居の位置は現在の旧天王貯水池の南東角になります。そこから拡張された現在のけやき通りを北に進むと次の辻が小川が流れ小橋が架けられていた所、さらに進むと向井神社前の道に至ります。道を左(西)にとれば鈴山古墳から田出井山古墳(伝反正天皇陵)に行きますが現在は住宅の中の道です。神社のあった所は今は住宅地や駐車場となっていて進めず往古を偲ぶことはできません。しかし神社の西側を迴る道を行くと、かっては神社の中にあった天王古墳が右にあります。これで「和泉名所図会」と参照すればおおよその位置関係が掴めます。

旧向井神社の境内側から見た天王古墳  撮影:今駒清則

 さらに進むと西に折れて「和泉名所図会」にあった方違神社への道になります。大正期頃の住宅地整備によって多少位置は変わっている(明治地形図による)ようですが、方違神社の南入口まではもうすぐです。

 一旦戻って、向井神社の正面から入ったとして、明治地形図で様子を見てみましょう。この明治地形図ではまだ向井神社は存在していたはずです。神社本殿に向かう境内の参道(茶色)は明治地形図に書かれています。左に天王古墳(緑色)、右にこの主題であるクロガネモチ(赤印)がある辺りです。「和泉名所図会」では池や立木のあった神苑辺りになります。神社神域で境内参道の東側が広くなっているのはこの神苑や社務所があったためですが、明治末に神社が廃絶された後、永らく空き地となって石碑や樹木だけになっていたようです(昭和4地形図による)。1965(昭和40)年になると南の竹ノ内街道から北の長尾街道を南北に結んだ、けやき並木の広い道路が建設されました。それまでの向井神社までの参道は道の東側が拡張され(けやき通り西側の旧天王貯水池付近の樹木は旧参道の樹木の可能性があります)、旧向井神社境内の東端を使って北に延長されたのです。そこで神社入口付近の道は旧道から東にそれて神苑や社務所があった所がけやき通りになりました。主題であるクロガネモチは(多分移植されていないと思いますが)この時にけやき通りの歩道上にかろうじて残ることにことになったのです。それは貴重な樹木であったが故に残すよう配慮されたことなのでしょう。

 従って行政の説明板は誤っているのではないでしょうか。クロガネモチが本来あった場所の説明には「この地はかっては向井神社の境内にあたり」とした方が適切でしょう。ただし、向井神社が明治末の廃絶から永らく空き地となり、旧向井神社境内の参道が方違神社へ通り抜ける道になっていた可能性があります。その脇にあったクロガネモチですから明治末からだけを考えれば「方違神社の参道脇」と言うのもあながち誤っている、とも言えませんが、それは歴史的にみていかがなものでしょうか。(続く)


  撮影:今駒清則

9日、珍しく日中に雪降りでした。報道では大阪は11年ぶりとか。昔はよくこれ位は降ったように思います。日中の外気温は2度Cでしたからなんとか雪になって降りてきたのですが、大きな塊のような水っぽい雪です。撮影に出たかったのですが締め切り近しの仕事があってそうもいかず、降る雪だけでもと撮影しました。下に落ちた雪でなく降ってくる途中をマクロレンズとストロボを使って撮影する、というものです。この雪では結晶なんてものは望めませんがまあいろいろな形をして降ってきます。ほとんどが偶然写り込むというのに近い撮影ですが、数を撮れば少しは写っていました。夕方には降り止んで積もった雪もさーっと融けていった一日でした。

  撮影:今駒清則


クロガネモチと向井神社 3

10日、日曜日。これでクロガネモチの場所のことはわかりました。今は無い向井神社の名残りはクロガネモチだけなのだろうかと、合祀されたすぐ隣の方違神社に行ってみました。

「和泉名所図会」の「方違神社と仁徳天皇陵(?)」

 上の絵図は「和泉名所図会」の方違神社の頁です。左下の長尾街道から曲がった参道を行くとすぐに西向きの方違神社があります。その右奥には大山陵と書かれた濠に囲まれる古墳、さらにその奥に小さい楯井陵と書かれた古墳があります。方違神社は現在とほぼ同じです。今は長尾街道からすぐに入れるようになっていますが往時は田の中の道を進んだのでしょう。神社が西向きにあるのは住吉大社と同じく海の方に向いているためだろうと思います。

方違神社拝殿  撮影:今駒清則

 問題は大山陵と書かれた古墳ですが、これが大山陵(伝仁徳天皇陵)とするとあまりに近すぎます。方違神社から大山陵までは電車で一駅ほど、約1.3Kmもありますし衛星写真地図、この図会ではこれほど離れていればもっと霞んだ描き方とか、直線の短い道などは描かないのですから離れている大山陵(伝仁徳天皇陵)とは思えません。かわりにこの位置に相当しているのは田出井山古墳(楯井陵、伝反正天皇陵)です。現在では方違神社境内の南端と田出井山古墳とは接していて境内から古墳が良く見えます。

方違神社から見た田出井山古墳(伝反正天皇陵)  撮影:今駒清則

 そうするとその左に描かれている小さい古墳は田出井山古墳(楯井陵)ではなく鈴山古墳になります。もし図会の通り田出井山古墳(楯井陵)とすると水濠が描かれていないのは変です。また幾ら大山陵(伝仁徳天皇陵)が大きいといってもほんの近くにある田出井山古墳(楯井陵)が離れて小さく描かれるのは不自然ですのでやはり誤りなのだろうと思います。方違神社から向こうへうねってのびている道は隣の向井神社に行く道で、かなり正確に書かれていますが、道の左側に向井神社が描かれていません。それは前にここへ掲載したように図会の別頁に向井神社があるからで、それに続く感じを持たせている作者の工夫です。

 話が逸れてしまいました。方違神社に合祀された向井神社ですが、神職にお訊ねすると別な社殿があるのではなくて方違神と同一に向井神としてお祀りしておられるとのことです。



方違神社の神殿


向井神社の標石

  撮影:今駒清則

 方違神社の境内に向井神社のお社があるわけではないことが分かりましたのでなにか縁のものがないか境内を探してみました。すると「向井神社」と刻まれた標石がありました。向井神社の入口に建てられていたものでしょう。1905(明治37)年12月建立とありますが、その後に廃絶してしまったので建てられて10年足らずで役目を終えたことになります。



寛永元年の灯籠


牛頭天王と刻まれた灯籠

  撮影:今駒清則

 さらに近くには棹石に「寛永元年・・」「三国山牛頭天王・・」と刻まれた燈篭がありました。なかなかかたちの良いものですが残念なことに上部の宝珠がありません。火袋は日月の意匠です。寛永元年は1624年ですから江戸初期の古いものです。三国山はこの付近を言い、また行基が井戸を掘り、それにより寺院が建てられたという三国山向泉寺(廃絶)もこの南にあって方違神社の神宮寺でした。向井神社は牛頭天王をお祀りしていましたので向井神社より牛頭天王社、天王社と言うほうが多かったようです。従ってこの辺りには「天王」の名前がついたものが多く、それだけ崇敬が厚く親しまれていたことがうかがえます。その行基の掘った井戸というのもこの南に「向泉寺閼伽井」として保存されているそうですが、まだ行ったことがありませんので機会をみて訪れてみます。またこの行基の井戸は相当に珍重されたようで、この付近には「向泉寺」「向井」「田出井」など井戸にちなむ名称も多いのです。それにしても方違神社にいろいろある石造物はただ無造作に置かれているようで、写真でもわかるように真っ直ぐに建てられていないものもあり、もう少し気持ちを入れた扱いがいただきたいものと思いました。

三国ケ丘・田出井付近全景。手前が田出井山古墳、 その左端が方違神社、古墳の向こうが向井神社跡、 奥の高層住宅付近はJR堺市駅、背景の山は生駒山   撮影:今駒清則

 けやき通りのクロガネモチの木からいろいろと話が跳んでしまいましたが、所在についてはまあ一件落着だろうと思います。歴史学者ではないので歴史資料・文献・論文にはほとんどあたっていません。現地主義で、それに地図からのアプローチです。ただ向井神社については堺市教育委員会から向井神社の発掘調査報告書が発行されているようですのでいつか機会があれば読んでみます。そこで訂正、追加などが出てくればまたここでお知らせします。それにしてもこういうテーマでは映像化するものが無くそこが泣き所です。


11日、快晴でとても暖かい日でした。終日ホームページ用の写真データ作成で暮れてしまいました。今日は大変なニュースが流れてきて悲しい思いをしました。ソウルの南大門が火災で炎上、崩落したことです。韓国では希少で貴重な文化財ですからショックでした。いずれ復元はされるでしょうが、形はできても600年の歳月は元には戻らないのです。


12日、ソウルの南大門の火災映像が繰り返し放送され、容疑者が逮捕された、と報道されています。そして韓国の人々が悼み悲しむ姿も伝えられています。その気持ちは良く分かります。アフガニスタンのバーミアン石窟の大仏が破壊された時、私たちは何らの手段を持てないまま、みすみす破壊されていく貴重な仏像を映像で見続けました。仏像が何ら戦略的なものでもなく、排他的な宗教意識もあったわけではなく、人々の心を攻撃するための政治的意図から破壊に及んだものでした。中国の文化大革命でも同様に多くの文化財が破壊され、80年代に私が訪中した時にやはり心傷めたものでした。そして今回の南大門放火では個人的な事からまったく無関係の文化財が標的になってしまいました。法隆寺金堂の失火、金閣の放火、阪神大震災などを契機として文化財の防災対策は見直されてきたのですが、文化財に対する人々の心の対策をも考えなければならない時代にきたようです。弱い立場にある文化財をどう守り伝えていくかは今を生きている私たちの責任なのです。


金剛山頂付近  撮影:今駒清則

13日、ここ数日気温0度Cに近い寒い日が続いています。時々雪雲が飛んで来ますが降るところまでは行きません。金剛山あたりは雲に隠れてずっと見えなかったのですが午後に少しだけ見えました。山裾の方まで薄雪を着ているようです。


大阪ビジネスパーク  撮影:今駒清則

15日、またまた書類作りをすることになってデスクワークに没頭してましたが、打合せなどに北浜辺りに出かけ天満まで歩くうちに渡辺の津の碑がありました。この辺りは古代から近世までの大阪の港があったところです。ゆっくり見て歩きたかったのですが用事もあり、またにしました。夕陽に映えようとするOBPあたりだけが輝いていました。


雲  撮影:今駒清則

16日、相変わらずの書類作成。外に出る時間もないので休憩時に雲を観察、お天気は良いのですが冷たい風が吹き込んでいろいろな雲が現われました。その雲なのですが雲の一点を見つめ続けると全く別な世界に行くことができます。その世界が映像化できると良いなあ、と思っています。

 次世代DVDのブルーレイ・ディスク対HD-DVDのシェア争いは、東芝がHD-DVDから撤退するような情報で、ブルーレイ・ディスク規格が標準になりそうです。HD-DVDにも良い点があったのですが規格の統一は歓迎です。昔のビデオ規格でベータ対VHSではVHSになったのですが、私はベータの画質の方が良かったので残念な思いをしました。今となればDVDの画質の方がはるかに良いので昔話ですが、また次々世代メディアが決まった時、ブルーレイ・ディスクも昔話になるのでしょうね。


雪  撮影:今駒清則

17日、日曜日。晴れていましたが時々雪雲が来て積もるほどではないのですが雪が舞っていました。相変わらずの書類作成。ですが明日は能楽写真家協会の総会が東京であり、日帰りですがその日は作業ができないので今夜は徹夜で仕上げて明日の新幹線で睡眠するつもりです。なぜか上京の時はこのパターンが多いのは不思議です。


近江の村(新幹線車窓)  撮影:今駒清則

18日、ほとんど徹夜仕事でしたが頭が動かなくなって小一時間ほど寝たあと東京へ向かいました。新幹線で寝ていくつもりでしたが、京都にさしかかると雪景色です。車窓からの写すのが大好きですので早速カメラを用意していると近江路はすっかり雪国でした。山あいの村落の中に大屋根の寺が見えるのはどこにでもある風景ですがこれが好きですね。普通は求めて歩くのですが、電車は次から次へ車窓に風景を見せてくれるのですからこんなラクチンなことはありません。ただし新幹線は速すぎて撮影が難しいのが難点です。

 中国。北西部のホロンバイルへは北京から特急で丸3日間乗車しているのですが、その間日中はずっと車窓の風景を撮り続けていました。これには同行の中国人写真家も呆れていましたが、とにかく興味深いのです。ただ列車の上級寝台車の部屋の中では中国人同行者たちが暇をもてあまして昼夜宴会をやっていまして、下戸の私はアルコールの臭いが堪らないので通路に出て折畳み式のベンチに腰掛け楽しい撮影をしていた、ということでもあります。

浜名湖からの富士山(新幹線車窓)  撮影:今駒清則

 関ヶ原のトンネルを抜けると急に空が晴れ雪景色が無くなってしまいました。名古屋ではすっかり青空、浜名湖から富士山が見えています。高校時代に富士山が見たくなって豊田市から自転車で東海道を目指して走り、岡崎、豊橋を過ぎて潮見坂衛星写真地図まで行き、浜名湖まであと少しというところで帰りの時間となったので引き返したことがあります。遠州灘は目にしましたが富士山は残念ながら見られませんでした。ツーリングタイプの自転車なら良かったのでしょうが、普通のママチャリでしたので届かなかったのでしょう。でも良い思い出です。

富士山(新幹線車窓)  撮影:今駒清則

 富士市からは快晴富士で富士山らしい富士山。いつ見ても美しいです。子供の頃は三島市でまるまる夏休みを過ごしましたから、祖母に教えられて朝はいつも「お富士さん」を拝んでいました。ですから愛鷹山の向こうに宝永山が突き出ている富士山が私の富士山なのです。

品川  撮影:今駒清則

 品川で降りて再開発された港南口からスカイウエイを通りキヤノンギャラリーSへ、大石芳野写真展「黒川能 庄内に抱かれて」を見るためです。内容は黒川能を伝えている櫛引町を中心とした風土を伝えるもので、黒川能そのものは少しだけでした。大石さんらしい暖かいまなざしの写真でしたが、展示された大型のプリントはフィルムからスキャンニングしてインクジェットプリントしたものでしたが、これはまったくいけませんでした。こういった悪いプリントを見せることで、デジタル写真は駄目だね、と言われることが多いのです。

 その後八重洲で能楽写真家協会の総会に出席、19時の新幹線で帰阪。それからまた書類作成に取りかかり、やっと午前6時に仕上がったのでひと休みです。


土佐堀川  撮影:今駒清則

19日、今日は雨水です。お昼からでき上がった書類を持って中之島付近へ。土佐堀川にオープントップの遊覧船・アクアミニが通りかかりました。大阪城近くから東横堀川を通って戎橋付近まで千円で遊覧する船ですが、ちょっと寒そうでした。その横にはホームレスの人たちのブルーシートハウスがずーっと並んでいます。高潮の時の心配もありますが、それより毎日の寒さ、冷たさが大変でしょう。社会構造の歪みが現われている所です。

 20日から東大寺二月堂修二会の行事が本格的に始まります。これから一般ではあまり見ることができないその厳しい行(ぎょう)の一部を簡単にご紹介します。


東大寺二月堂修二会 お水取り 1

 修二会は人々に代わって懺悔し平安を祈る法会です。そのために実にさまざまな祈りのかたちがあり、歴史的に受け継がれてきたことを今も忠実に伝承して行われる約1ヶ月間の行事です。

 東大寺では12月16日の開山良弁僧正御忌日法要で参籠(さんろう)する11人の僧の配役が発表されます。それからは自坊で声明の稽古や諸道具の手入れなどの準備をして参籠を待ちます。2月20日は3月1日からの本行に先駆けて、精進潔斎して本行に備える別火(べっか)が始まります。

別火入り  撮影:今駒清則

 20日夕刻になると参籠する練行衆(れんぎょうしゅう)が東大寺境内にある戒壇院地図の別火坊へ向かいます。初めて参籠する新入(しんにゅう)はもうすでに別火入りをしてベテランの練行衆を待ち受けます。別火坊ではさまざまな準備が練行衆の手伝いをする童子(どうじ)や仲間(ちゅうげん)らによって準備がされていています。練行衆はここで俗とは決別し、厳重にお祓いをして精進潔斎の合宿生活をします。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


20日、諸用件も一段落して今日はゆっくりさせてもらいました。ちょっと腰痛があって動くのもいやでしたが、動かないともっと痛くなるのでほどほどに過ごしています。


東大寺二月堂修二会 お水取り 2

小観音さまのお厨子を拭き清める  撮影:今駒清則

 21日からは別火の前段階である試別火(ころべっか)で、各自で本行に備えていろいろな準備をする期間です。精進潔斎もやや緩いのですが、それでも厳しいきまりが沢山あります。

 朝は二月堂に上り、内陣の扉を開けて小観音さまのおられるお厨子を礼堂に移し、拭き清めて大観音さまの背後の東正面に安置します。小観音さまは神聖な秘仏でとても大切にされています。また内陣の掃除もして法会に備えます。二月堂のご本尊は十一面観音さま(大観音ともいいます)で、内陣の中央に立たれておられますが秘仏ですのでお姿は拝めません。小観音さまは普段正面ですが、本行二七日(14日間)の初めは大観音さまの背後で、後半になると大観音さまの前に移されます。これは行前半の上七日(じょうしちにち)は大観音さま、3月8日からの下七日(げしちにち)は小観音さまをご本尊として祈るためです。

社参  撮影:今駒清則

 午後からは別火坊を出て境内東大寺地図の各堂宇を巡り行の始まりの参拝をします。社参と言い、行中は禁足状態で普段のように参拝ができませんのでまとまって参拝をされるのでしょう。主な所は八幡殿、大仏殿、天皇殿、開山堂などで、その後二月堂下の湯屋で作法の後入浴、二月堂を参拝して戻ります。戒壇院から行列をして境内を巡る情景はとても絵になる風景です。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


21日、今日は春のように暖かく晴れわたり、夜も満月が煌々と照り、うさぎさんも良く見えています。昨年のお水取りも暖かい日が続きましたが、今年はどうなのでしょうか。


東大寺二月堂修二会 お水取り 3

紙衣を絞る  撮影:今駒清則

 22日は特別な行事が無いので練行衆は各自の持ち物につける紋を描いたり、お札の準備や書き物などさまざまな準備をします。なかでも行中に着す紙衣(かみこ)を絞る作業は力のいる仕事です。竹筒に仙花紙を巻き一周り太い竹筒で押し付けて絞って皺をつけます。そして紙を伸ばして寒天を塗り乾し上げておきます。一着の紙衣には30枚程度の仙花紙が必要で、綿布と共に仕立てて次回の参籠に使用します

差懸の手入れをする童子さん  撮影:今駒清則

 二月堂の内陣で履くのはこの差懸(さしかけ)と呼んでいる木沓です。芭蕉の句「水取りや氷の僧の沓の音」はこの差懸が鳴らす響きをよんだものです。木製の台に畳表を貼り帽子というカバーをかけます。入堂の時や行道(ぎょうどう)などにリズミカルな足拍子をとったりすると、堂の外にまで沓音が響き渡って、ああ、お勤めをされておられるなあ、とわかります。最近では紙衣作りや差懸の修理などの力仕事は練行衆でなく童子がしていることが多いようです。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


22日、腰痛がまだ続いていて、一寸用事もあったのですが先延ばしして終日デスクワークで、幾つか担当しているホームページの手入れや情報の更新などで過ごしています。


東大寺二月堂修二会 お水取り 4

造花の椿花  撮影:今駒清則

 23日は華やかで賑やかな日です。午前中に処世界(しょせかい)の役は内陣を飾る南天の花や椿の造花をしつらえる「花拵え」や、また行中の明かりに用いる燈心(とうしん)を揃える仕事があるのですが、処世界は練行衆としては一番経験の少ない僧が務めますからこの作業は手に余ります。そこで別火坊の大広間で練行衆や童子、仲間まで出て総掛かりでこれを手伝います。行中はあまり実務がない高僧が懸命に燈心を数えている姿はほほえましい光景です。大広間いっぱいに広がって作業をするのですが、そこへ報道陣が沢山押しかけますのでこの時は大変な賑わいとなります。作られた椿の造花は総別火(そうべっか)の時に椿の枝に挿して造り上げます。こういった修二会に用いられてきたさまざまな素材の多くが、各地の信者さんたちの講から、また伝統的な方法で製作されたものが届けられてきたのですが、それが最近では途絶えがちになってきているようで将来を危惧するむきもあります。

声明の稽古  撮影:今駒清則

 「花拵え」が済むと昼食です。処世界が手伝ってもらったお礼に一同へ振る舞いをすることになっているのですが、特別変わった食事がいただけるわけではないようです。ひと休みの後は声明の特訓が待っています。いつも声明の稽古は夜間にするのですが今日は特別です。修二会の開白(かいはく=法会の初め)の一日間は「次第時(しだいじ)」と呼ばれる丁寧な声明の時導師(じどうし=声明のリーダー)を下の役が務めますのでその稽古です。四職(ししき=上位の四役)もいますから緊張します。新入には「称揚(しょうよう)」というこれも特別丁寧な節回しで三日目に時導師を勤めることが待っていますのでこの稽古もします。「称揚」はいわば「修二会デビュー」ですから大変です。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


23日、晴れたり曇ったり、雪雲が流れてきて小雪が舞ったりと不安定なお天気で、強風のため各地で被害が出ているようです。相変わらずのデスクワークで、デジタル処理がどっさりあって集中しています。


東大寺二月堂修二会 お水取り 5

壇供搗き  撮影:今駒清則

 24日は別火坊の庫裏で壇供(だんぐ)を作ります。内陣の須弥壇が真っ白になるほど積み上げて観音さまにお供えするためです。とても大掛かりな餅搗きで、なんと二石五斗を蒸し上げて搗きます。直径10センチ余、三合の壇供を千枚も作るのです。諸役が朝早くから始めてお昼頃にはすべての壇供が棚に並べられて上堂を待ち、本行の始めの3月1日に内陣の須弥壇に積みます。写真では左手奥のかまどで蒸し、中央の三人の搗き手と一人のこね取りが素早く搗きあげ、写真右では搗きあげられた餅を役人が枠取りしてかたちを作り仕上げます。この壇供は上七日の間に供えられるものだけで、下七日に供えられる壇供は3月5日に湯屋で同じように搗きあげ、8日に須弥壇に供えられます。壇供は修二会が満行した後、修二会や寺にご縁のある方々に下げられます。練行衆はいつものごとく別火坊で諸準備に余念がありません。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


24日、日曜日。金剛定期能で京都へ。大阪は快晴なのに御所の付近では小雪で薄雪が積もっています。さすが京都です。一日中ちらちらと雪が舞っていて寒い一日でした。


東大寺二月堂修二会 お水取り 6

試別火の練行衆  撮影:今駒清則

 25日は例年ですと試別火が終わる日ですが、今年は閏年で2月が一日多いので試別火も一日増え、26日までが試別火で、27日からの三日間が総別火になります。

 東大寺修二会のおおまかな行事は、2月19日までの諸準備、20日から戒壇院別火坊で試別火、26日(今年は27日)からの総別火、3月1日から二月堂で本行に入り、7日まで前半の上七日、8日からの下七日で、14日満行(実際は15日早朝)、15日に宿所払いで帰坊、となります。

 別火とは練行衆が俗世とは別な火を使うということで、精進潔斎に努める意味です。実際に別火坊では新しい火を切り出します。練行衆やその他修二会にかかわる方々はこの火だけですべてを賄います。俗とは一切を決別する、そこで練行をする、という決意が表されています。また穢れを嫌い練行を妨げる魔物が入らないようにお祓いや結界などもします。これは神道や仏教を超えた古代からの人間のこころがそのまま修二会にかたちとなって伝承されています。

 試別火の時は平衆(四職以外の練行衆)は四職の部屋に分かれて合宿していますが、まだ結界、潔斎のレベルが多少低いので別火坊の部屋に外部の私たちが入ることはできますが、冷たくても練行衆の火鉢にあたることはできません。また動物にかかわる食事や身の回り品も厳禁です。この頃はどうなのか分かりませんが、かって厳しい練行衆はウールの着衣も嫌った、と聴いています。ですから私が取材していた時は着衣は全てを綿・ポリ製品で、寒いので本当は羽毛のジャンパーを着たいのですがポリのものに、東大寺にいる時はうどんなどできるだけ精進ものの食事をしていました。また僧も身内に不幸があると練行衆にはなれませんし、外部の私たちでもそういった場合には遠慮して修二会には参りません。現在ではこのようなことが厳格に守られている法会は他にあまり無いのではないかと思います。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


25日、Emily Kame Kngwarreye (エミリー・ウングワレー)って作家をご存知でしたか、私はまったく知りませんでしたが、知らないまま国立国際美術館のオープニングに行きました。久しぶりに感激しました。いつもの美術展で受けるものと違ったカルチャーショックです。見ているうちにそう言えばどこかで聞いたかな、アボリジニのおばあちゃんのモダンアート、って。でもモダンアートというものではありませんでした。西洋から見ればそう位置づけをしても良いのかも知れませんがもっと人間の根源的なところから湧き出たもの、なのです。どうぞご覧になって下さい。東京では国立新美術館で5月末から開催されます。
 コレクション4も充実しています。写真が増えました。嬉しいことです。キュレーターの好みが激しいのですが良い作品もあります。それになんと小石清の「半世界」「泥酔夢」がありました。拍手。


東大寺二月堂修二会 お水取り 7

社参 (大仏殿)

 26日は試別火の最終日です。そのために午後は社参をします。21日の時と同じように参拝して廻りますが、今日は本坊を訪れて娑婆古(シャバコ=参籠しない娑婆の古練)や長老たちといっとき懇談し「暇乞い」をします。これも世俗と決別する覚悟をするためです。

暇乞い 右が練行衆  撮影:今駒清則

 練行衆は見送られて本坊を出ますが、今日だけは許されて自坊へ帰り、湯茶食事を家族としてお別れをし別火坊に戻ります。別火坊では一旦試別火の火を捨ててしまいます。これを「捨火」と言い、今夜は試別火の満行になりますので練行衆一同が寄り集まって懇談、遊興の夜を過ごしたりします。明日からは総別火で厳格な戒律の前行が始まります。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


26日、この2日に掲載した道路拡張のために宅地に取り残されていたお地蔵さまが姿を消していました。付近の方にお尋ねすれば様子はわかるでしょうが、工事中で狭い道を車で通っていましたのでそのままになってしまいました。新築の地蔵堂で再建されると良いのですが。


東大寺二月堂修二会 お水取り 8

火を切り出した堂童子  撮影:今駒清則

 27日からは総別火になります。まず新しい火を堂童子が切り出します。この神聖な火で総別火の間すべてを賄います。この後にいろいろなものに使う糊を練行衆が作ります。祈る役、火吹き竹で火を熾す役、鍋の糊をかき混ぜる役の3人がかりでゆっくりと時間をかけて作りますが、何となくユーモラスでタイムスリップしたような情景です。

総別火の練行衆  撮影:今駒清則

 総別火になると練行衆は全員が大広間に座を移し、紙衣を着し麻の襷袈裟(たすきけさ)をかけます。それぞれの役に従って自席で法会の準備をします。この大広間も手向山八幡宮の神職がお祓いをし注連縄で結界がしてあります。俗も魔物も入れない聖域なのですが、練行衆は守り本尊に祈りお祓いをします。神仏習合がまったく自然に行われているのです。
 練行衆はこの大広間で総別火中を過ごします。私語も許されず、席を外れる場合はテシマという薦を持参して常にその上に座らねばなりません。外出などもっての外で、軟禁状態で過ごします。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


27日、ある若い女性の旅行記ホームページを読んでいると次のような記事がありました。その一節をちょっとお借りします。旅行中にデジタルカメラの電池が少なくなったようで、「あえなく電池をよく消費する液晶画面を切ることに…。デジカメなのに覗き穴から写真を撮影することになりました。」
 もはやカメラは液晶画面でフレーミングするのが当然で、「ファインダー」は「覗き穴」となってしまいました。それどころか最近発売されるコンパクト・デジタルカメラはほとんど「覗き穴」がありません。


東大寺二月堂修二会 お水取り 9

椿の花拵え  撮影:今駒清則

 28日の早暁に差懸の裏に粟糊をつけ、真赤に焼いたテッキュウという鉄の棒を押し付けて焼く行事があります。これの意味はまったく分かっていません。昔から伝えられた通りしているのです。修二会ではこのように何のためにするのか不明の行事や仕草や言葉があります。変に解釈したり、内容を勝手に変えないでそのまま伝えられていることが素晴らしいのです。
 朝、23日に造った椿の造花を枝に挿して完成させます。これを3月1日には内陣の須弥壇の四隅に飾り付けます。枝に挿す時に誤って落としてしまった椿は不浄として使うことはありません。
 椿の花拵えが終わるころには総別火のお見舞いに娑婆の古練(シャバコ)が訪れます。しばし懇談すると昼食になります。大広間で一同揃っていただきます。午後はそれぞれ諸道具を整える仕事があります。

声明の稽古  撮影:今駒清則

 薄暗くなった夕刻には「衣の祝儀」という修二会で着す法衣にかかわる重要な儀式を行います。灯も無い、もうほとんど見えなくなった大広間で墨染めの重衣を着して三礼文を唱えます。秘密、と言うものではないようですがフラッシュなどの明かりは厳禁です。
 その後廊下に出て平衆(四職以外)は法螺貝の吹き合せをし、浄水で潔めお祓いをして阿弥陀経を勤行、東大寺の大鐘
(国宝の梵鐘)が鳴ると夜食になり、終わると大広間の廊下で声明の稽古をします。日中の大広間では堅苦しく静粛で多忙に諸用を勤めますが、稽古の後の廊下では火鉢にあたりながら談笑ができますのでリラックスして一日が終わります。明日はさらに行事が多い紋日です。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


28日、またまた調べ事があり終日web検索で過ごしました。百科事典には無いローカルな情報があり、それをまた確かめるために新たな検索が始まります。興味を持つものが多いので途中から本題とは無関係のものを追い続けたりして、後から後へ果てしなく検索が続いてしまいます。インターネットの始め頃はこれを「浪乗り」(波乗り)と言っていましたがこの頃は言わなくなりました。


東大寺二月堂修二会 お水取り 10

出立前の大懺悔  撮影:今駒清則

 29日は別火の最終日です。紋日と言うのは色街の特別な日の事で、紋付を着たりするので紋日と言っていたようですが、ここでは今まで別火で書き上げた各自の紋をそれぞれの持ち物に取り付けて二月堂下の参籠宿所へ送り出すので紋日と言うそうですが、窮屈な精進生活を過ごしているので色街言葉を使って洒落たのかもしれません。
 して、今日はあわただしい一日になります。朝から童子、仲間は荷運びなどで忙しいのですが、練行衆はさほどでもありません。お昼の「お料理
(食事)」後、堂童子が準備のため先立って二月堂へ出立します。その後「香薫(こうくん)」と言って練行衆が全ての道具を香をくべた火鉢にかざし清めて送り出します。大広間があわただしくなりますが、終わると着座しテシマの儀式を行い、今まで席の間仕切りにされていた大きな葛籠(つづら)がどんどん運び出されていきます。すべてが運び出されると、上堂用の装束になり大懺悔(おおいさんげ)を唱えます。「追出し茶」をいただいた後上役から大広間を後にして二月堂に向かいます。ガラーンとなった大広間では懸けられていた結界がすぐさま取り外されて別火は満行です。

大中臣祓  撮影:今駒清則

 参籠宿所ではすでに古練の手で諸道具が決まった位置に整えられて練行衆を出迎えます。練行衆はそれぞれ定まった四ヶ所の宿所に落着くと古練が挨拶に廻ります。
 夕刻には参籠する練行衆へのお祓いを呪師
(しゅし)の役がします。呪師は練行の道場に魔物が入らないように祈る役ですが、ここでは仏法を守護する全ての神仏を勧請し、ご幣を振ってお祓いをします。薄暗がりの中で役人の小綱(しょうこ)が持つ祓松明に照らされた呪師の影が神秘的に揺れ動きます。ここでも神仏を習合したかたちが見られるのですが、この大中臣祓(おおなかとみのはらえ)が終わるとすぐさまに食堂(じきどう)や宿所の廻りに結界を巡らしてしまいます。練行衆はこの後しばし休息しますが、真夜中からいよいよ修二会の本行が始まります。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


29日、京都で大蔵流茂山家狂言「千作・千之丞の会」、千作の文化勲章受章記念の公演です。当代第一級の舞台とあって会場は満員。大けがをしていた千作は元気に「月見座頭」を千之丞と勤めました。写真は暫く後で web Gallery に掲載します。


東大寺二月堂修二会 お水取り 11

和上の自誓受戒  撮影:今駒清則

 3月1日からは本行です。まず深夜に食堂で和上(わじょう)から戒を授かります。和上は授戒松明のもとで自身の戒を受ける作法をし、その後練行衆一同に戒を授けます。一本の松明の明かりが和上を照らし、その背後の練行衆がほのかなシルエッにとなっている暗やみの中で、これから始まる法会の戒律を厳格に守る誓いをたてます。厳粛な授戒が終わると二月堂に上堂し、堂童子が神聖な火を切り出して内陣の常燈(じょうとう)の明かりにします。いよいよ内陣で法要が始まります。開白と言い最初は「日中(にっちゅう)」の法要で、平衆の頭である衆之一(しゅのいち)が次第時(しだいじ)で勤めます。行中で最も厳粛で丁重な作法で行い、この次第時は明日の「日中」まで続きますので、修二会の声明をしっかり聴くには最も良い時です。

内陣の法要  撮影:今駒清則

 一旦下堂して宿所で休息、朝はシャバコから開白祝いのご挨拶を受け、昼の12時に正食を食堂でとります。長い祈りの後に独特な作法で食事をして再び休息します。普段ですとすぐに上堂して「日中」を勤めるのですが今日は開白ですから変則的な勤めになります。再び上堂して次の「日没(にちもつ)」の法要を勤めます。内陣の須弥壇はまだ荘厳をしていない(写真参照)ので少々寂しいのですが、この後の二月堂周辺を鎮守する神社に開白の報告と守護を祈願して巡る「惣神所」を終えると、別火で準備した椿、南天、壇供などを須弥壇に飾り付けます。

初夜の入堂  撮影:今駒清則

 しばらく下堂休息の後、午後7時に大鐘が「初夜(しょや)」を搗くと練行衆は松明の明かりに導かれて登廊の石段を上ります。四職の上堂松明は四職が二月堂の北出仕口から入堂されるとすぐに消されていたのですが、近年はどうしたことなのか西面(正面)の回廊(舞台)へ平衆の松明と同様に廻って角々で廻して火の粉を降らすようになりました。続いて平衆の上堂松明が次々と上っていきます。処世界は先から居残っていますから処世界の松明だけは上りません。この上堂松明が世に有名な「二月堂のお松明」で、1日から14日までの修二会の間は毎日上ることになります。特に12日は特別に大きな「籠松明(かごたいまつ)」が上り、また14日には上堂松明が連続して上り、舞台上に揃って一斉に火の粉を振りまく「尻つけ松明」がありますが、平日も上堂松明は上りますので参拝、見学には混雑が少なく好適です。
 入堂した練行衆は礼堂で作法の後、内陣に入り、「初夜」「半夜
(はんや)」「後夜(ごや)」「晨朝(じんじょう)」と「六時の行法」を勤めて深夜に下堂、休息します。

 開白の日は行事が多く、また修二会の法要も複雑ですから主な事だけを走って紹介しています。これから徐々に基本的な部分だけでも紹介して参ります。また今年だけでは足らないかと思いますので、来年のこの時期にまた掲載して補完したいと考えています。なおここに掲載している写真は「今駒清則写真集『南無観』」に収録した写真ではなく、別の写真で構成しています。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


1月 08年2月 3月