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近況 2008年3月


3月1日、「向井神社とクロガネモチ」の2月10日の項で堺市教育委員会から「四ツ池遺跡向井神社跡遺跡」の調査報告がある、としましたが、今日内容を読んだところ向井神社そのものの調査ではなく、田出井山古墳(伝反正天皇陵)の二重濠(現在は一重の濠)を求めての発掘調査報告で、調査場所は鈴山古墳の西隣で、一部が向井神社にかかることから向井神社跡遺跡としているものでした。従って向井神社に関する新たなものはありませんでしたが、同時にこの南に広大な寺域を持っていたとされる「向泉寺」に関する現地住民の資料の中に、向井神社は「境内3,600余坪、桜の名所であった」の記述がありました。参道に松や桜があったと推定したのは間違いではないようです。また草創は650(大化6)年の式内社で、方違神社に合祀されたのは1908(明治40)年でした。なお、明治中期の神社地図も堺市立図書館にあるようですからまたいずれ出かけてみます。


東大寺二月堂修二会 お水取り 12

大宿所 (差時(さしじ)の時の堂司(右)と衆之一)  撮影:今駒清則

 3月2日の日中法要まで丁寧に省略無しの次第時で行われます。内陣での法要については後で述べますが、今日は練行衆の参籠宿所を見てみましょう。ここは一般には公開していないのですが、練行衆をお見舞いする際に多少垣間見できます。二月堂の登廊の下で食堂と並んで建っている宿所は修二会の時だけに使用されるもので、近世の改造もありますが鎌倉時代とも室町時代ともいわれている独特の僧坊です。6つの部屋があり、練行衆は和上宿所、大導師宿所、呪師宿所、大宿所に分散して入ります。そして満行までは他の部屋へ出入りすることはできません。童子は2ヶ所の童子部屋に入り練行衆のお世話をします。
 練行衆は写真のように狭い自席だけで全てを行います。手を伸ばせばすべてに届く配置です。就寝の時も自席で布団
(写真右端)を被れば休めます。実に合理的にできていますが古くからの僧房の姿が伝えられているのでしょう。環境は違いますがインドや敦煌といった石窟の僧房生活をも彷彿としてきます。

大宿所 堂司の席  撮影:今駒清則

 宿所には火鉢(炉)がありお茶や暖房に使います。壁には自身の守本尊、中臣祓の幣、観音経と阿弥陀経、黒い襷袈裟、各種の数珠、薬と滓の袋、また役目によって書類などが掛けてあります。一番下には紙手(こうで)が貼られています。紙手とは仙花紙を二つ折りにして紙類などを差し入れて保存するポケットのようなもので、表には著名画家などの絵が描かれている洒落たものです。また松明の根の部分を利用した花生に茶花を活けます。火鉢横の自席には敷布団の上にテシマを敷いて座ります。
 宿所の庭には大きな焚き火が常時焚かれていて、今は水道ですが内陣の油煙で煤けた顔や手などを洗う場も設けています。この庭は童子や仲間がそれぞれの仕事でいつも行き交っており、また朝夕のお見舞いの訪問客やシャバコの待ちあわせの場所にもなっていて賑わう時もあります。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


2日、暖かい日が続きます。昨年も暖かく二月堂付近の梅などが早くから咲いていました。低気圧と黄砂が明日から来るそうですので少々ややこしいお天気になります。黄砂だけなら霞みますが、雨が降るとどうなるでしょうか。降出しの雨は黄色い雨になるのでしょうね。どうぞご注意下さい。


東大寺二月堂修二会 お水取り 13

内陣の大導師(左)と時導師(右)  撮影:今駒清則

 3月3日の松明上堂後の初夜法要では、時導師を新入(しんにゅう)が勤めます。これを称揚(しょうよう)という重々しく根本に忠実な声明や作法で勤めます。礼堂には娑婆の古練(シャバコ)が出仕してこれを聴聞します。新入にとっては一世一代の大仕事です。緊張します。これを乗り越えないと一人前にはなりません。時導師とは一日に6回勤める法要(六時)の声明のリーダーで、四職は勤めず平衆が交代で勤めます。平衆の下役ほど勤める回数は多いのですが、特別行事がある日の時導師は平衆の上役が勤めるようです。

 修二会での練行衆のそれぞれの役回りは、単に仕事の分担といったことだけではなく、少しずつ学習をし経験を積むことで昇進していきます。単純に説明できませんが実に巧妙な教育システムにもなっているのです。また毎日、毎時(六時の時のこと)に声明や作法が変化しますので常にテストをされているようなものですから、まったく気が抜けないようになっています。さらに後夜の法要も称揚になり新入が時導師を勤めます。この時も礼堂ではシャバコが聴聞に出ます。

 今年(2008年)は珍しく塔頭(たっちゅう、境内の子院)の子弟が二人も同時に新入になりました。そこでこの称揚で次の4日も勤めることになります。初夜、後夜声明の数々を本ブシで聴聞されたい方には絶好の機会です。さほど寒くもありませんのでどうぞお出かけ下さい。二月堂の局(つぼね、外廻りの部屋)は修二会の時はどなたでも自由に出入りができます。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


3日、今日はひな祭りでした、お店を訪れた子供たちへ思いがけなくお菓子がプレゼントされて、とても喜んでいた姿は微笑ましい光景でした。

 所用があって上京、数時間の滞在で帰阪です。最近は暖かいので近江路の雪はすっかり融けていて、富士山は青空なのにぼんやりとしか見えませんでした。春霞と言いたいところですが黄砂のせいでしょうか。


東大寺二月堂修二会 お水取り 14

3月4日の午前中は称揚のお祝いに参篭宿所へ娑婆古練が挨拶に訪れます。前項のように今年は珍しく4日も初夜と後夜の法要は称揚になります。童子たちは二月堂の背後にある春日山へ榊や檜葉を許可を得て採取してきます。これはお水取りの淨水を運ぶ閼伽桶や閼伽井屋を飾る榊と、籠松明を作るのに使う檜葉です。なお籠松明は童子たちによってもう少しづつ作られています。

 練行衆の一日をごく簡単にまとめます。朝宿所で起床、午前中は来訪者などとゆっくり過ごします。また今日一日の準備もしておきます。12時に食堂で作法による正食、すぐに二月堂に上堂して内陣で日中、日没の法要を勤めます。14時半頃に下堂して入浴後宿所で休息、19時に上堂松明で再び上堂、内陣で初夜、半夜、後夜、晨朝の法要を勤め、日が変わってから下堂し、宿所で茶粥などをいただいて就寝する、というのがおよその流れですが、特別行事がある日の時間は相当に変わります。

和上と大導師の席から見た食堂内部全景  撮影:今駒清則

 今回は食堂での様子をお伝えします。参篭宿所と食堂の下に湯屋がありますが、そこで院士(いんじ)により練行衆のお料理が古来からのメニューに従って調理され食堂に運ばれます。一汁二菜の精進料理です。12時に堂司により出仕の鐘が鳴らされると練行衆はそれぞれ食堂の定まった席に座ります。

食堂での作法  撮影:今駒清則

 堂童子は別に二月堂に上堂して観音さまに仏飯をお供えしてきます。また食堂におられる三尊にも仏飯がお供えされます。大導師は仏法を守護する諸天や諸神、またすべての人々のために祈ります。童子らによって料理が練行衆の席へ、湯の入った大きな角桶(つのおけ)と空桶が中央南側に運び込まれます。練行衆は杓子(しゃもじ)立てたおはち(飯器)から施食を取分け、飯椀に飯をよそって差し出します。堂司が「とうぐ(等供)」と発すると堂童子は湯桶の前で三本の柄杓(ひしゃく)を掲げてくるっと廻ります。これから無言のまま正食が始まり、最後は湯漬けにします。この時練行衆はすべてを食さず童子のために残しておきます。食事が終わると鼻紙に施食を包み、また折敷(おしき)にも施食を取分けます。この前後に底の抜けた大鍋を担いだ庄駆士(しょうのくし)が食堂に入ってきて一旦床に置くとすぐさま帰ってしまいます。どのような意味があるのか、だれも分かりませんが連綿と続けられている所作です。堂司の鐘の合図で童子らが諸道具をあわただしく持ち去ると「食後頌(じきごじゅ)」を唱えて席を立ち、南出仕口(出入口)で閼伽井屋の屋根に向けて鼻紙に包んだ生飯(さば)を投げ動物たちに施しをします。練行衆は一旦宿所に戻り、上堂袈裟に着替えて日中法要に上堂します。

 食堂の様子は公開していませんが、運が良ければ北東の出仕口から食作法の様子を拝見することができます。なおその他の出仕口は諸役の出入りが多いので邪魔にならないようにしなければなりません。静粛で厳格な戒律による食事風景です。


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4日、お水取りの連載を思いつきで気楽に始めましたが、内容が複雑多岐にわたっていて膨大ですのでやはり少々難儀しています。お伝えしたいことが山ほどあるのですが、法要の内容があまり知られていないようなので、ざっとの概要説明だけで今回は終わりそうです。できるだけ要領良くとは思うのですが、計画を立てずに始めたものですから話があちこちへ行ってしまうのはご容赦下さい。来年もこの時期に掲載してなんとかまとめようと思います。それで修二会の終わるこの15日までは他のコンテンツにまで及びませんので当分この修二会記事だけの掲載にいたします。


東大寺二月堂修二会 お水取り 15

内陣の実忠忌法要  撮影:今駒清則

3月5日は実忠忌法要が初夜法要の前に勤められます。実忠和尚はこの修二会の創始者で809(大同4)年2月5日の法要中に姿を消したと伝えられていて、それにちなんでこの日に供養をします。修二会は今年で1257回目となるそうで、どんなことがあっても続けて来たので「不断(不退とも)の行法」とも言われています。法要は内陣正面に講座を設け、大導師が講師、呪師が読師、中灯之一が問者、和上が唄師、衆之一が散華師となって講問が行われ、華厳経と法華経を論題とします。これは大事な法要ですから娑婆古練が礼堂に打揃って聴聞に出ます。

 この実忠忌法要の後の初夜法要は「引き上げ」となり略式で勤められます。過去帳は初夜法要の途中で読み上げます。過去帳を読み上げるのは上七日は5日、下七日は12日になっています。

過去帳の読み上げ  撮影:今駒清則

 過去帳は聖武天皇以来東大寺に縁のある貴人、僧侶、施主らが記されていて、この読み上げで有名なのは「青衣女人(しょうえのにょにん)」です。読み役はこの名の時に一息間を入れて寂しいような調子で読み上げます。局で聴聞の参拝者もこれを今か今かと待ち、息を呑んで聴き入ります。鎌倉時代の初め、過去帳を読む練行衆集慶の眼前に女人が現れ「私をなぜ読み落としたのか」と言います。青い衣を着た女人だったので集慶は「青衣女人」と咄嗟に読み上げ、以来これを伝えている、という伝説があります。読み上げはこの後から早読みとなります。この伝説を元にした新作能「青衣女人」が土岐善麿の手で作られ、喜多実が1943(昭和18)年に二月堂で演じたそうです。勿論この時を私は見ていませんが、1970年頃に東京の喜多能楽堂で喜多実が演じた「青衣女人」は撮影しています。

 もう0時を過ぎ、いつもより遅くに半夜法要を勤め、「走り」の準備をします。「走り」は内陣を音もなく駆け廻る行道の一方法です。通常半夜の後は「法華懺法(ほっけせんぼう)」と本手水(ほんちょうず、休憩のこと)があるのですが、「走り」がある日は本手水はしません。これは7日までと12日から14日の間にも勤められます。


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5日、午後、大きな黒雲が南をゆったりと進んでいました。今まであまり見ないもので、地平だけが明るく、低い雲から雨の雲が煙りのように渦巻いて降りていました。どうもこの黒雲が和歌山で竜巻を巻き起こして被害をもたらしたのではないでしょうか。竜巻は見えませんでしたがこの異様な雲は写真に撮っています。


東大寺二月堂修二会 お水取り 16

内陣の走りから五体を打ちに礼堂へ走り出る  撮影:今駒清則

3月6日の夜も「走り」がありますので、食堂でお昼の食作法の時に最後まで走り続ける練行衆二名(上数 かみす、下数 しもす)を堂司が指名します。日中から半夜まではほぼ平常の法要を勤め、半夜法要の後に内陣を掃除し須弥壇の燈をすべて点灯します。礼堂では娑婆古練や参観者が詰めかけていて静かに刻を待ちます。

 内陣では練行衆一同に香水(こうずい)で加持(かじ)し清めます。次に四職が礼堂に向いて道場を清め、「大悲者(だいひしゃ)」と観音さまに祈ります。次いで和上から須弥壇の周囲を右回りで廻りながら祈る行道(ぎょうどう)に入り、ご本尊十一面観音さまの頭上にある佛面へ両袖を大きく振り上げて「南無頂上」と礼拝します。再び行道し、次は「南無最上」と唱えます。この頃に礼堂にいる堂童子が内陣を覆い隠している戸帳(白幕)をかたち良く巻き上げます。戸帳が巻き上がると内陣がよく見えるようになります。ご本尊の大観音さまは金襴のとばりに囲まれてお姿は見えませんが、多数の燈に照らされた須弥壇は光り輝いてまぶしいくらいです。行道はなおも続き、処世界が内陣正面で「南無最上」と唱えた後、堂司以外の上役が礼堂に出て五体を打ち自席に帰ります。五体は膝から五体板に身を投じて打ちつけ懺悔し祈るものです。

特別に高い頭上面の
十一面観音さま
「類秘抄」(重文)から
小観音図像部分
奈良国立博物館

(大観音図像は同館
  図録をご覧下さい)

 堂司以下の練行衆は行道のうちに順次差懸を脱いで足袋はだしになり、速足で行道しながら衣をたくし上げて走りに備えた姿に整えます。呪師の振鈴で一斉に走り出しますが、この時に足音がしないようかかとをつけないで走り、順次礼堂に出て五体を打ち、内陣に戻って自席に着座しますが、食堂で指名された二名は合図があるまで走り続けなければなりません。最後まで走り続ける下数は呪師の合図で五体に出て身を投じ、堂司の土器(かわらけ)投げ、「帳おろせ」の命で内陣に戻り、堂童子は戸帳を以前のように戻して「走り」は終わります。

練行衆が礼堂に出て局にいる参拝者へ香水を参らせる  撮影:今駒清則

 内陣では堂司が昨年若狭井から汲み上げた香水を練行衆に参らせます。内陣では水一滴も飲めない戒律ですから、走り終わった後にいただくありがたい香水に練行衆の顔がさすがにほころびます。中灯之一と権処世界は香水を銅杓に入れて礼堂にいる役人や童子などに参らせ、また礼堂の参拝者、局の参拝者にも香水を参らせます。そしてこの後に後夜、晨朝の法要が続きます。

 「二月堂絵縁起」では天上の一日は現世の400年に相当するので、行道を急ぎ勤めることで天人の行と同じようにしたい、という願いから「走り」をするということのようですが、走り競うことで祭りにみられるように豊作を祈願するとか、災い除けを願う、また走り踏むことで悪霊封じをする、また走りが芸能へも影響を与えているのではないか、などと考えられていて、謎の多い特別な行法です。6日は他よりも行事が少ないので走りの始まる時間が早く、また一日の法要が終わる晨朝下堂も午前1時頃と早めになりますので混雑を嫌う方には良い参拝日です。


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6日、さすがにこの頃は二月堂の上堂松明をテレビ報道するのが増えました。東大寺の「お水取り」といえば「お松明」がやはり有名で、燃える炎や火の粉が人々を魅了するようです。薪ストーブや焚火の炎を見ていても千変万化して飽きることがありません。炎の魔力でしょうか。


東大寺二月堂修二会 お水取り 17

小観音さまにお供えする生花  撮影:今駒清則

3月7日は湯屋の庭で童子が12日に上げる籠松明を作り仕上げます。明日は食堂周辺で籠松明を作りますので見学には最適です。7日は上七日の満行の日で、小観音さまの日ですから練行衆のお勤めが普段と変わります。昔は上七日と下七日で練行衆が入れ替わったので、その名残から行事次第が変化しているものと思われます。

 日中法要の後に「数取懺悔(かずとりさんげ)」を内陣と礼堂で勤めます。「数取懺悔」は5、7、12、14日にしますが、練行衆といえど行中に戒律を破ったり、過ちがあったりするのでそれを懺悔して、上役は一千遍、平衆上位は二千遍、下役は三千遍の礼を行います。「イッペン(一遍)、ニイヘン(ニ遍)・・・ジッペン(十遍)、ニジッペン(二十遍)・・・ヒャッペン(百遍)、ニヒャッペン(ニ百遍)・・・センベン(千遍)」と独特の数え方で激しく礼を繰り返します。あくまでも厳しい戒律を守ることを求められるのです。今日はここで下堂して休息します。下堂すると参篭所の和上宿所では小観音さまのお厨子の出御(お出まし)にお供えする花を拵えます。花は梅、椿、水仙の生花で一対を拵えます。また六器という牛蒡を芯にして樒の葉で包んだかわいいものも拵えます。

奏楽と宵御輿松明のもとでお厨子がお出ましになる  撮影:今駒清則

 休息後、夕刻に再び上堂し日没法要と例時法要を勤めます。その後準備をしてご本尊の後ろにおられた小観音さまのお厨子を礼堂にお出しして安置し、中灯之一が供物や荘厳をします。娑婆古練の見守る中で中灯之一の晴れ舞台です。練行衆は礼堂の小観音さまを礼拝して下堂。古練も続いて礼拝し、お厨子は堂童子と手向山八幡の神官に警固されて後夜法要まで礼堂に安置されます。俗の私どもはこの時は礼堂に入ることが叶いません。

 常のように初夜の松明で上堂しますが、礼堂には小観音さまがおられるので礼拝し畏まって内陣に入ります。古練は礼堂で揃って聴聞をします。初夜法要、半夜法要、走りの法要が終わると堂司は外に出て後入衆(ごにゅうしゅう、下七日に籠る練行衆)を出迎えます。現在では上下通して籠りますので形式だけになっています。その後暁御輿松明を点して小観音さまのお厨子を内陣の外回りの外陣へお運びし、北側で止まって大導師がお迎えの祈願をします。そしてさらに進んで南側から内陣にお入れして須弥壇の正面、大観音さまの前に安置します。その後後夜、晨朝と法要を勤めて下堂します。

 難波津に漂着した小観音さまを二月堂にお迎えした様をドラマチックに再現した法会で、下七日はお迎えした小観音さまを本尊とし、後入衆が参籠するかたちを伝えています。暗やみの深夜、松明のあかりのもとで丁重に、粛々と進められる後入(ごにゅう)はまるで昔の絵巻のようです。この出御の時は正面の局から、後入の時は正面以外のいずれの局からでも拝見できます。


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7日、昨年の10月19日の項で、大和川の開削によって下高野街道の道が寸断され、渡し舟を使って往来していたというところで、その渡し場の名称がわかりませんでしたが、その後調べたところほぼわかりました。ほぼ、といったのは渡し場付近の住民にお尋ねしても何方ももうご存じないので最後の確証がとれていないのです。今後も確認作業はしますが、推定も半分含めて、この渡し場は「天岸(あまぎし)の渡し」と呼ばれていたようです。大和川の開通で川辺になった阿麻美許曽(あまみこそ)神社が「阿麻岐志(あまぎし)の宮」とも呼ばれていたので、お宮さんの所の渡し場、といったところでしょう。詳しくはまた後ほど掲載します。


東大寺二月堂修二会 お水取り 18

授戒の平衆 「よく保つ、よく保つ」と誓う  撮影:今駒清則

3月8日、今日からは下七日の法要になります。修二会の始めの練行衆は緊張の連続で、ここ数日に至っては体力的にも疲れてきた時ですが、折り返しを迎えて再び意欲的に勤めます。

 午前中は上七日の満行を祝って娑婆の古練が参籠宿所に訪れます。食堂の南側付近では12日の籠松明が童子によって組み立てられています。常の上堂松明よりも大きく重く、また一番外側に杉板で化粧をしますので華やかな松明になります。

 お昼の食堂では下七日の授戒が最初に行われます。これはかって上七日と下七日では練行衆が交代していたことから下七日を籠る練行衆に授戒するためのものでしたが、現在では通して参籠しますので食堂での定まった席を下七日では一部変えるのみで授戒をもう一度行います。授戒の内容は1日と同じですが、1日は深夜で暗闇の中での神秘的な儀式でしたが、今日は昼に行われますので明るい堂内で執り行われます。

 授戒の後、食作法、そして日中法要に上堂します。内陣での日中法要の後、須弥壇に積まれていた上七日の壇供を降ろして掃除し、日没法要を勤めます。このあたりから「引き上げ」といってお勤めの内容が簡略になってきます。その後例時作法を勤め、下七日用の壇供を積みますが、小観音さまが須弥壇正面に出られたので壇供が上七日とは変えて積まれます。これが終わると自席で牛玉、陀羅尼札の試し刷りして下堂します。

大導師の祈りの間も他の練行衆は牛玉刷りをします  撮影:今駒清則

 夕刻、松明上堂、初夜法要と常のように進行しますが、本日から10日まで勤行の間に護符の牛玉札や陀羅尼札を木版で刷ったり押捺して手刷りします。墨汁は牛黄を含んだ牛玉墨と香水です。内陣の自席の背上に掛けていた牛玉箱を降ろし、刷り上げてまた牛玉箱に納め満行まで祈願されます。お札は満行後に皇室に献上し、また有縁に配します。上の写真で祈願している大導師(右端)の上には牛玉箱が掛けられていますが、牛玉刷りをしている諸衆のは降ろされてありません。

牛玉札をつくる  撮影:今駒清則

 牛玉札には「南無頂上佛面除疫病/二月堂 朱印(十一面観音種字)/南無最上佛願満足」と書かれています。古からの願いがこもっているのです。この牛玉刷りは後夜法要の間も続けられます。すべてが内陣で行われますので東の局から僅かですが拝観できます。


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8日、2000年以来いつも持ち歩くバッグに入れてきたメモ用のコンパクトデジタルカメラのKODAK DC4800(300万画素、28-84mm相当、TIFF、JPEG記録)を、OLIMPUS SP570UZ(1,000万画素、25-520mm相当、RAW、JPEG記録)に替えました。当時は広角レンズで最優秀だったカメラで、8年間も使用したのですが、さすがに画素数だけでなく画質がもう今の画質には到底かないません。現在コンパクトカメラで広角28mmからのズームレンズ、RAW記録ができるのは他にRICOH Caplio GX100の1機種しかありません。かなり検討しましたが、ファインダーが無くて手を突きだして撮影するなんてことは嫌ですから、この5日に発売されたOLIMPUSにしました。それに今までの光学ファインダーから電子ビューファインダーにも慣れておこう、という意味もあります(ビデオはすでに電子ビューファインダーになっていますが)。KODAK DC4800は私のコレクションカメラの仲間入りとなります。

 夕刻、天王寺の都ホテルで開かれたジュンさん(森淳先生)を偲ぶ会に出席。いろいろな方のお話を聴くたびに45年も前にお会いしてからのいろいろなことが思い出されました。多くの方がご出席でその活躍ぶりが偲ばれます。久しぶりにお会いする方々も多く、懇談つづきの一刻でした。


東大寺二月堂修二会 お水取り 19

だったん松明をつくる  撮影:今駒清則

3月9日、食堂の南に大きな花が開きます。籠松明に続いてだったん(達陀)松明を童子が作ります。12日、13日、14日は火天が内陣から礼堂へ燃えている大きな松明を突き出す「だったん」の法要があります。それに使われるものでこの後に大きなケズリカケを沢山挿してさらに花のようになります。できあがると食堂に立て掛けておきます。

大仏殿裏からの道、結界が渡されています  撮影:今駒清則

 今日は昨日に続く牛玉刷り以外は特別な行事はありません。そこで二月堂付近を見てみましょう。二月堂へは幾つかの道がありますが、観光客は大体大仏殿前から登って手向山八幡、三月堂(法華堂)へ出て隣の二月堂へというのが多いようです。もう一つは大仏殿裏の道を真っ直ぐ東に行き、大湯屋、湯屋、参籠宿所、食堂を経て二月堂に上る道です。こちらは地元の方とか、よくご存知の方がお参りされます。衛星写真地図

 大仏殿裏の道は二月堂が見える辺りで頭上に結界が張り渡されています。気がつかないで通られる方も多いのですが、この先の食堂の前にも、また二月堂のまわりにも修二会の時は結界が回らせてあります。

塔頭の入口の結界  撮影:今駒清則

 境内の塔頭の門にも輪注連が掛けてあります。

1254(建長6)年銘の灯籠に掛けられた注連縄  撮影:今駒清則

 三月堂前にある日本最古の灯籠にも無造作に輪注連が掛けてあります。お水取りの井戸がある閼伽井屋も当然結界してあります。別火の時には別火坊にも結界がしてありました。よく見ると境内のあちこちに輪注連や注連縄が掛けたり張り渡してあります。注連縄がお寺の中なのに、と思うのは今どきの人です。修二会では神仏習合がそのまま伝えられています。結界は道場と娑婆とを区別するもので聖域を示します。悪霊や穢れを嫌って清浄な世界で修二会を勤めるためのものです。

 2月の別火に入るとすぐにこの注連縄を作ります。2月21日には「注連縄まき」といって二月堂南の飯道神社で堂童子が注連縄を撒いて童子らがそれを受け取ります。受け取れずに地面に落ちた注連縄は「チリ(塵)」といって使いません。興味深い清めの方法です。注連縄は練行衆の塔頭や修二会に勤める方々の家に掛けます。また二月堂周辺に注連縄を張り渡して結界します。忌服者は修二会を勤めることができませんし、また結界の中に入ることはできません。二月堂に近づかないのが決まりなのです。私は約20年にわたって修二会を取材させていただきましたが、幸いにも身近にそういったことが無かったので続けられました。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


9日、日曜日。昨夜から体調がすぐれず日曜日のことでしたので休息していました。おかげでこのお水取りの連載もちょっと遅れてしまいましたが、なんとか元に戻します。


東大寺二月堂修二会 お水取り 20

牛玉刷りの印や陀羅尼の版木  撮影:今駒清則

3月10日も特別な法要は無くほぼ常の通りです。この数日は今までの疲れやこの先の大きな行事のために余裕のある時間を持たせた配分になっているのでしょう。日没の法要が済むと牛玉刷りの版木などを降ろし、参籠宿所の庭で洗って干します。童子たちの仕事です。

雪の日の二月堂夜景  撮影:今駒清則

 今日は二月堂を見てみましょう。二月堂のご本尊は十一面観音さまです。絶対秘仏で詳細はわかりませんが、等身大の奈良時代の立像で岩山の上に立たれておられるようです。二月堂は江戸初期に火災にあっているのですが、そのまま今も元の位置におられます。奈良国立博物館にはこの時期にご本尊の光背断片を展示しています。見事な線刻ですのでそのお姿が想像できます。秘仏ですから観音さまは金襴のとばりで囲まれて拝見できません。

内陣・須弥壇の側面  撮影:今駒清則

 観音さまのまわりに須弥壇があります。須弥壇の高さは観音さまの腰あたりと考えられています。須弥壇の上でなく須弥壇の中に立っておられるのです。須弥壇には小観音さまのお厨子と、いろいろな供物や荘厳がしてあります。椿、南天の花、壇供など、それに多数の燈りです。正面には中心になる大きな覆いのかけられた常燈があります。須弥壇の下には香水の壺や諸道具が収められています。

 この須弥壇を納めたお堂が現在の内陣です。お堂の端は練行衆の座があり、狹窓(格子窓)と板扉が外壁になっています。元々はこのお堂だけだったのですが、後に局を持つ覆屋を建てて一体となりました。ですからお堂(内陣)と局との間には外陣、ジクとも呼ばれる土間のある独特の構造になっています。火災で焼失後再建された時もこの形式を受け継ぎ、また正面に広い礼堂を追加して建てられたのが現在の二月堂です。

局から見た内陣  撮影:今駒清則

 前にも書きましたように、修二会の時は二月堂の局を自由に出入りして(ただし12日だけは制限があります)練行衆が内陣で法会を勤める様子が拝観できますが、内陣には狹窓と板扉があり、決まりにしたがって扉が閉められている時があります。それでも東正面(裏正面)だけは常に開けていますので多少は拝観できます。扉が開けられているときは上の写真のように狹窓越しに拝観します。ここに掲載している内陣の写真には狹窓が写っていませんが、これは特別な許可をいただいて撮影しているためです。それに声明は間近で聴聞ができますので熱心な聴聞者が好む所です。

二月堂の礼堂  撮影:今駒清則

 二月堂は西が正面です。その正面には広い礼堂があり、内陣正面には戸帳(白幕)がかけられています。ですから内陣は直接見えませんが、須弥壇の燈りが戸帳に透けて練行衆の祈りの姿が影法師になって映ります。また練行衆の出入り、「五体」「数取懺悔」「走り」「法華懺法」など法要によっては礼堂で勤められますので正面の局から良く拝観できます。特に12日から14日の「走り」や「だったん」の時は戸帳が開けられますので、正面の須弥壇や小観音さまのお厨子なども良く見えますし、法要も良く見えますので局は早くから満員になります。上の写真は礼堂が良く見えるように撮影していますが、実際の堂内は油煙で黒く煤けているのと暗いのでこれ程には見えません。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


10日、夜半に雷鳴、カメラを東の空に向けましたが雲が厚く雷光が見えないのと、暫くして遠ざかったので仕舞いました。春雷でしょう。いよいよ春が近づいてきました。

 連載中の「東大寺二月堂修二会 お水取り」で、3月11日の修二会は翌12日の「お水取り」に向けた準備がなされる程度で特に大きな行事が無いことと、私の都合もあり休載しますが、後ほど追加できれば掲載をいたします。


11日、暖かい一日でした。黄砂の影響でしょうか、晴天なのに霞んで春が一足早く来たようです。明日12日は「お水取り」です。東大寺二月堂界隈は大変な混雑になります。いろいろと規制もありますので、お出かけの方は東大寺のホームページをご覧下さい。


東大寺二月堂修二会 お水取り 21

3月12日は修二会中最大の行事が集中している日です。常の六時の法要に加えて、「籠松明」「走り」「過去帳読み上げ」「水取り」「だったん」という水と火の行法が加わります。水も火も人間の営みには不可欠なものであることから、人間の根源的な祈りの対象でもありました。仏教の教義に基づく法要だけでなく、原初からの祈りのかたちが習合している独特の法会です。

 従って今日は常の時間と多少変わります。昼の食作法、日中法要、数取懺悔の後下堂、一刻休息し、再び上堂して日没法要、その後「水取り」「だったん」の諸準備をして下堂します。もうすでに日は沈み暗くなっている二月堂周辺は「籠松明」を待ち受ける人々で一杯になっています。

 練行衆が下堂すると宿所には娑婆の古練や縁故の参拝者がお祝いを述べに詰めかけています。一休みもできないまま午後7時30分、加供松明を手にして加供奉行が登廊の石段を猛スピードで3回駆け上がる「三度の案内」が帰ると、食堂の下で点火された特別大きな上堂の「籠松明」を担いだ童子がゆっくりと上り、練行衆が後に続きます。上堂の松明は練行衆の道明りなのです。松明の炎は登廊の天井にも届き燃え上がらんばかりですが、実は前夜に「蜘蛛の巣払い」といって水を掛けて湿らせてありますのでまず大丈夫です。上堂の松明はいつもは10本ですが、この日は11本が上ります。松明は回廊(舞台)に出ると北の角で止まって松明を突き出し、燃え具合を見て左右へ振り回しますと大きな炎が二月堂の軒を超えて夜空にたち昇ります。また火の粉が二月堂の下につめかけた人々の上に振りかかって歓声が上ります。

二月堂の舞台を走る童子  撮影:今駒清則

 今日の童子の出で立ちは袖をたくし上げ股立をとって気合いが入っています。常には見られない気迫が伝わってきます。松明を持ち上げると再び肩に担ぎ、今度は回廊を南の角まで突っ走ります。この時それぞれの童子の工夫で松明の火の粉がさまざまに変化します。最も凄まじいのは肩の上で持ち上げて回転させながら走る妙技です。重さは約60キロ、長さは8メートルもあるものをです。勾欄から突き出した松明は二月堂や参観の人々をも真赤に照らして角に着くと再び勾欄に置き、ころ合いを見て最後の火の粉を振り撒きます。その頃にはもう次の松明が北側の角に来ていて、二月堂の両端から揃って炎が立ち昇ります。

内陣の礼拝  撮影:今駒清則

 二月堂の前の大歓声の中で練行衆は静かに礼堂で着座し堂司の上堂を待ちます。堂司が上ると平衆は内陣に入り、四職は礼をもって順次内陣に入ります。外が静まる頃、礼堂には娑婆古練や参観の縁故者で一杯になります。内陣ではいつものように初夜の法要が始まり、今日は「過去帳」が読み上げられます。続く半夜法要の後には「走り」の法要も勤められます。後夜の法要が始まるとしばらくして呪師と平衆5人の水取り衆が内陣を出て二月堂南の石段に向かいます。

お水取りに向かう呪師と水取り衆  撮影:今駒清則

 いよいよ「水取り」が始まります。時間は午前2時頃です。二月堂下付近の明りはすべて消され暗闇の中で「水取松明」が点されて呪師と水取り衆、堂童子などの役人、講社の人々が奏楽の中で南の階段を静かに下って閼伽井屋に向かいます。呪師は祈り堂童子は香水を汲む閼伽桶を持ちます。二月堂下で閼伽井屋の近くにある興成社の社で水取り衆が祈願した後、香水の井戸がある閼伽井屋へ呪師、堂童子、庄駆士が入り、他は閼伽井屋を警固します。この「水取り」は絶対秘密の儀式で何人も中を見ることもできませんし、また明りをつけることも撮影もできません。汲み上げられた香水は二荷を三回にわたって二月堂まで庄駆士が運びます。講社の人々はこれを囲んで警固します。水と火の神秘的な絵巻が続きます。

 香水が内陣に届けられると香水壺に移し後夜の法要が再開されます。しばらくして後夜の呪師作法の時に「だったん」が勤められますが、12、13、14日と「走り」「だったん」が修法されますので「だったん」については次回にいたします。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


大雪の中の籠松明 1963年3月12日  撮影:今駒清則

12日、修二会の籠松明がニュースで流れて、見知った童子の力の入った顔も写されていました。今年はことの外暖かい日で、これほどの日は珍しいのではないでしょうか。私が修二会を撮影し始めた頃の1963年の籠松明、お水取りは大雪で、降りくる雪が籠松明の炎に映えて真赤な空になったのを鮮明に覚えています。あまりの雪に奈良には珍しく雪害があちこちに起きていたようでした。そしてその頃の修二会の取材は寒い、冷たい、という毎日で、二月堂北にある遠敷社の手水鉢がいつも凍っていましたし、ベンジンを使ったポケットカイロが唯一の頼みでしたが、今はまったくそんなこともなく、明らかに温暖化しているようです。


東大寺二月堂修二会 お水取り 22

内陣に置かれただったん松明  撮影:今駒清則

3月13日は六時の法要に加えて「走り」「だったん」の法要が勤められます。「だったん」は「達陀」と書き、その行のいわれにはさまざまの説がありますが、私は追儺(ついな、鬼追い)の一種ではないかと思っています。ただ他にはない独特の行法です。

 内陣で後夜の大導師法要が始まると、隣の席の和上が火天が使う火を火吹き竹を使って熾します。最高位の和上が一所懸命に火吹き竹を吹いているのはユーモラスでもあります。堂司と平衆は「だったん」に備えて金襴のだったん帽を冠り、衣の袖を巻くなど身支度をし、内陣に置かれた達陀松明を整え準備をします。呪師の法要はいつもと変わって「だったん」を勤めるための采配と祈りをします。戸帳が再び巻き上げられて内陣正面が明らかになると、堂司と平衆が八天(水天=香水、火天=火、芥子(けし)=ハゼ、楊枝、大刀、金剛鈴、錫杖、法螺貝)を勤め、内陣正面に左右からチョコチョコと出てきて、飛び上がり持物を礼堂に撒いたり鳴らしたりします。厳粛な法要の中で思いがけず滑稽な所作で、初めて見る参拝者はあっけにとられている間に終わります。呪師が「奉請火天水天芥子楊枝・・・」と唱えると法螺貝が「ブーブッ、ブーブッ・・・」と吹かれ、内陣に置かれているだったん松明に堂司と大導師が点火し、火天が抱えて内陣正面に出ます。

だったんの松明と水天  撮影:今駒清則

 戸帳が上げられた内陣正面へ出てきた火天は、燃え盛るだったん松明を抱えて跳びながら礼堂に突き出します。それに合せて水天も飛び跳ねながら洒水器で加持し、また鈴と錫杖が賑やかに鳴らされます。数回の加持のあと内陣に入り、一周りして再び正面に出て松明を突き出します。松明の炎は高くまで上がって内陣の天井を焦さんばかり、煙りも内陣や礼堂を覆っています。礼堂では役人が箒で飛び散った火の粉をジク(土間)に掃き落とします。

 松明の火が衰えかけると正面で松明を立てた後、礼堂に向けて傾け投げ出します。まだ燃えている松明は時には礼堂で聴聞している娑婆古練の膝元まで飛んで行くこともあります。火天は松明を引取り再び立てて3回床を突いて内陣に入れ、戸帳が堂童子によって降ろされると「だったん」の法要は終わります。僅かの時間の大スペクタクルに息を呑んで見守っていた聴聞者のため息も聞こえてくる静けさが訪れると後夜の呪師作法が始まります。すぐに短い晨朝法要があり、一日の練行が終わります。

(注:ハゼ=糯米を炒ってハゼたもの)


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


13日、ますます暖かくなってきました。このお水取りの最中か、その直後位に一度は厳しい寒さか雪が降るのですが今年はどうなのでしょうか。

 所用あって市内に、その後グラフ誌の原稿の打合せをして近くの家電量販店へ。デジタル系機器の動向を見て帰宅。コート無しでも足早に歩くと汗ばむほど。


東大寺二月堂修二会 お水取り 23

会中に一度だけ舞台に打揃う上堂の松明  撮影:今駒清則

3月14日は厳しい練行がいよいよ終わる日です。それになかなかに忙しい日でもあります。日中、日没の法要は常と変わらず勤めて下堂し休息します。今夜はいつもより30分早く、午後6時30分に上堂の松明が上ります。松明が今日だけはどんどん上るために登廊には数本の松明が並び、松明の前を登る練行衆を追いかけます。それでこの日の上堂松明を練行衆の「尻焦し」とか「尻突き」の松明と呼んでいます。回廊(舞台)へは2本の松明が同時に並ぶのが普段ですが、今夜は沢山並びます。揃った松明が一斉に振り回されると滝のような火の粉が降り注ぎます。松明ファンのアマチュアカメラマンが連夜沢山通って来られますが、今夜は一段と多いようです。

 半夜法要の後「走り」、後夜法要のうちに「だったん」があり、晨朝法要を勤めて下堂します。深夜ですが休む間も無く再び上堂し、「破壇」をします。自分の持物や須弥壇にある供物や荘厳を片づけて童子、仲間に持ち帰らせます。そして平常時の荘厳に整えます。修二会の間は椿や南天の花、多数の明りが華やかに飾り立てられていたのが消えて少し寂しい須弥壇に見えます。

内陣涅槃講を勤める呪師と大導師  撮影:今駒清則

 すべてが終わると礼堂に着座し、改めて「内陣涅槃講」のために内陣に入ります。この時は内陣の扉を閉ざしてしまい局から拝観はできません。須弥壇の南側に講座を設け、呪師が読師、大導師が講師、中灯が門者と「実忠忌」と同じです。お釈迦さまが入滅した日の法要を内陣で勤めます。夜が明けた15日昼にも礼堂で「涅槃講」を勤めますので、これを「内陣涅槃講」としています。勤め終わると箒を南、北から投げて「堂内の清め」をし、牛玉杖を打ち当てる「互為加持」、香水を頂く「次第香水」になるといよいよ行も終盤です。行が始まって以来初めて内陣で練行衆の顔がほころびます。呪師が鈴を小さく鳴らすと堂司が練行衆の額に牛玉宝印の朱印を順次捺し、須弥壇の柱、次いで礼堂の役人などにも参篭の証を捺します。

呪師の神所  撮影:今駒清則

 呪師は処世界と二月堂南上の飯道神社に行き、鎮守や護法神に五穀などの供物を供えて行の無事を感謝します。内陣に帰ると黙したままで日没法要を勤め、その後「惣神所」で全員打揃って二月堂の周りの鎮守三社に向かいます。

惣神所 大導師の祈り  撮影:今駒清則

 深夜の二月堂近くの社前では手松明の明りに照らされた大導師らが修二会を無事に勤めたことを報告し感謝の祈りを捧げます。現代を感じさせない実に美しい光景です。内陣に戻り初夜の大導師作法を簡略に黙して勤めます。次に呪師が素焼きの鉢で護摩を焚き練行衆が供物を投じて修法を修めた証の灌頂護摩を勤め、いよいよ満行の下堂です。牛玉箱をくくりつけた牛玉杖を手にした練行衆は童子の手松明に照らされてゆっくりと石段を降りていきます。厳しい行を修めた喜びから練行衆や童子らの顔はほころび、見るものもまでもが嬉しくなります。参篭宿所では「満行おめでとうございます」の挨拶があふれ、改めて満行の喜びをかみしめます。宿所ではいつもよりちょっと豪華な夜食が用意されていて休む前に同宿の練行衆と満行を祝います。もう夜明け前になっています。


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。


14日、大慌てで納税申告のため税務署に、いつもギリギリに行くので大混雑でしたが、今年は15日が休みなので17日が申告期限日。そのせいなのか、それとも雨の日のためか、さほど混雑もなくスムースに終わりました。この頃の税務署はとても頭が低くなって親切になりました。それに持参する書類などが揃っていればパソコンでササッと作ってくれますので、前のように電卓やパソコンの前で数字を書き込むこともなくなり大助かりです。


東大寺二月堂修二会 お水取り 24

礼堂で勤める涅槃講  撮影:今駒清則

3月15日は満行を迎えて「宿所払い」の日です。いよいよ自坊に帰れるのですが、まだそれまでに幾つかの勤めがあります。

 朝のうちに参篭宿所の荷物などは童子に託して持ち帰らせ、最後の入浴をした後、宿所の北側で、宿所東側の練行衆と西側の練行衆がそろって出会い、にこやかに挨拶を交わします。これ以降は制限されていた宿所の出入りが自由となり、揃って楽しく昼食をいただきます。食後に上堂。礼堂で「涅槃講」を勤めます。お釈迦さまの大きな涅槃図に向い読経し、行道して下堂となります。

開山堂へ参拝  撮影:今駒清則

 向かう先は二月堂の下にある開山堂です。東大寺を開いた良弁僧正がおられるお堂で、練行衆も童子も揃って満行の報告と感謝いたします。

のりこぼしと二月堂  撮影:今駒清則

 開山堂の庭には奈良の名花、「のりこぼし」の椿が時節良く咲いています。開山堂の前でそれぞれに挨拶を交わして別れ、練行衆はいよいよ自坊に帰ります。その後適時に修二会中に身の回りの世話をしてもらった童子らに感謝の宴をし、また娑婆の古練たちにお札を持参し満行の報告とお礼をします。また寺では練行衆、役人一同に参籠の慰労会を催すなど大行事の満行を寿ぐのです。(終わり)


修二会を詳細に記録した今駒清則写真集『南無観』についてはここをご覧下さい。

 前にも書きましたが、急に思い立ってこの修二会の連載を始めました。そのせいで脈絡もなく、また修二会の本分である六時の行法をまったく書いていないままで、特別行事の次第だけで終わってしまいました。これについてはまた来年の修二会に合せていろいろ追補するようにしたいと考えています。



地球照の月 2008年3月10日 SP-570UZ  撮影:今駒清則

15日、本格的な春を迎えたようです。今日は修二会の練行衆が自坊に帰る日ですから、さすがに練行衆でも宿所ではそわそわとされていることでしょう。修二会満行をお祝いします。

 SP-570UZ(もっと簡単なネームにしたら良いのにと思いますが)のテストがてら、例によって月を撮ってみました。520mm相当で開放絞り、露出補正無し、写真は画面トリミングして大きくしています。新月を過ぎたところですので地球照が見られます。地球に反射した太陽光が月の蔭の部分を照らしているのですが、太陽光が直接月にあたって蔭になるところの輪郭がなだらかでないのは月面の高低が見えているのでしょう。蔭が赤いのは皆既月蝕の時に見られる色とほぼ同じです。最望遠での描写は中央部は良いのですが、画面全体ではまあそれなりの画質でしょう。メモ用のカメラです。


16日、日曜日。別にたいしたことではないんですが、大阪市営地下鉄の難波駅改札口の名前です。なぜ「南北」なのか、尋ねてみれば分かるのでしょうが、不思議な名付け方だなあ、と思っています。他に「南南」とか「南東」とか「南西」とかの改札口がある、のかもしれませんが、「南ミナミ北改札口」と読むと「ミナミ」は難波の通称ですから納得ですが、ここより北にも改札口があるのでそうでもなさそうです。私はまともに「なんぼく」と読んでしまってンン?と思ったのです。


17日、カメラのオリンパスが阿波座にギャラリーをオープン、岩合光昭氏(右から二人目)写真展で幕を開けました。そのご披露のレセプションに田沼武能JPS会長(右端)も来阪。沢山の関西写真家が参加してお祝いをしました。OM1以来のオリンパスファンとしてはうれしいかぎりです。この付近には写真ギャラリーが今後も開設されるようで、新しい文化ゾーンが生まれようとしています。

 お昼過ぎに大阪上空を飛行船が通過。またツエッペリンNT号がやってきました。岸和田をベースにしていますからたびたび見ることができるでしょう。今度は遊覧飛行です。3月から5月にかけて、まほろば(明日香+千本桜)コース、ベイエリア(神戸)コース、なにわコース、京都コースの遊覧飛行とのこと。一人9万円から18万円。乗ってみたいですね。詳細と問合せは日本飛行船まで。


御堂筋線難波駅改札口の名前 (上が北方向)

18日、先の大阪市営地下鉄の難波駅地図改札口、「南北改札口」が不思議な名前の改札口と思って書きましたが、その後通りかかりに大調査、駅員さんに聞き確認しました。御堂筋線の難波駅には4つの改札口があり、北から「北東改札口」「中改札口」「南北改札口」「南南改札口」だそうです。それで一通り見てきました。「南北改札口」は南の北側という意味で、その南には「南南改札口」がありました。意味はわかりましたが何となく釈然としない気持ちはまだあります。まあしかしこの改札口を出たところの地下街は、大阪で最初に作られた「ナンバ地下センター」(その後「ナンバなんなんタウン」、最近「NAMBAなんなん」と改称)です。地下鉄の方が先にありますので「南南改札口」にちなんで「なんなんタウン」と名付けたのかもしれません。もし逆に地下街の名前に合わせてシャレで改札口の名前をつけたのなら拍手ものです。

 なお、「北東改札口」は御堂筋と千日前通りの交差点地図の地下にありますが、この「北東改札口」を西へ、近鉄難波駅への階段を降りると「改札口」があります。オヤッと思いますが、これは大阪市営地下鉄・千日前線の難波駅「東改札口」ですので、方角の表示を頼りにしている人はちょっととまどうかもしれません。


OOSAKA (右は右下部分)

19日、ついでにもう一つ、東名阪道の御在所サービスエリア(地図)にあった看板です。矢印方向が大阪、ですが大阪を「OOSAKA」と表記しています。以前大阪市の仕事で英文版出版物の編集の時に外事部門に確認したことがありますが、公式には「OSAKA」としているようです。海外では「OSAKA」は「オオサカ」とは読んでくれないでしょうが「オーサカ」位は読んでもらえるでしょう。でもこの看板なら間違いなく「オオサカ」と読んでもらえますね。なお左方向・名古屋への矢印がありません。書き忘れたのではなく、大阪方面行きのサービスエリアにあるので名古屋方面に行くことはなく不要と考えたのでしょう。良く考えたとは思いますが、何となくアンバランスな気もします。



嵐の雲 2008年3月5日 15時41分  撮影:今駒清則

20日、春分の日。昨夜は低気圧で夜半に春の嵐が吹いたようです。写真は3月5日午後に北から南へいっ時の間に流れていった嵐の雲です。和歌山では竜巻を作ったと思われる雲で、気流がかなり乱れているのが見えます。このようにはっきり見える機会はあまりありません。でも確実に春は歩んでいて、モクレンは満開、柳や銀杏もわずかですが芽吹いています。


ツエッペリンNT号  撮影:今駒清則

21日、夕焼けに照らされてツエッペリンNT号がトワイライト・フライトで上空を通過。今日は土曜日ですからナイト・フライトもあるでしょう。下の写真は船体下にあるゴンドラ、客席12席です。詳しくは日本飛行船まで。

 夜は待宵月が鮮やかな月光を放っています。街では街路灯などであまりわかりませんが、月光はすばらしく明るいのです、かって信州の夜祭りに行くためにまったく灯のない里山を歩いた時、月光の明るさに改めて驚き、感動した事をいつも思い出します。


22日、京都の金剛定期能へ。「吉野静」種田道一、「土筆」茂山忠三郎、「求塚」宇高通成でした。能楽堂を出るとまだ明るさがあり、日が長くなってきたのを実感します。今日は舞台撮影で試しにメモ用のOLYMPUS SP-570UZで最望遠520mm(相当)撮影を一部でしてみましたら、素晴らしい描写で、先日の15日に三日月を撮影して「それなりの画質」としたのを訂正しなければならないようです。どうもこのレンズは遠距離が苦手なようで近距離は良いようです。後ほどその写真を掲載します。

本日の満月 2008年3月22日21時07分  撮影:今駒清則

 帰ると満月が昇りました。お天気を心配していたのですが、きれいな空に月の兎もクッキリと見えました。ただあまりクッキリと写すと天体観測みたいで情緒がありません。夜半には雲がかかるでしょうから、朧月になればまた撮影してみます。


薄雲の満月 2008年3月23日03時07分

23日、日曜日。低気圧が来ているせいで夜半に雲が多くなりました。満月もやや西に傾いた午前3時頃、少し霞んだ満月が青く輝いていました。雲が薄かったせいか月光環(月の周りに虹色が出る現象)はありません。

SP-570UZの最望遠の画質  撮影:今駒清則
(クリックすると実寸が表示されます)

 昨日の舞台撮影でOLYMPUS SP-570UZを試写してみた実際の画質で能装束の部分です。相当に優秀です。ただISO200にしては暗部にノイズが多い、 AF合焦が遅い、連写ができないとか問題が多く、仕事には使えそうもありませんが、こんな小さなカメラで15m程先の人物の半身がシャープに写るのはびっくりします。また舞台上の人物に「顔検出AF」を使ってみましたが、かなり有効であることも確認できました。仕事ではどうしても手動操作を好むのですが、極力自動化を利用することも考えてみたいと思っています。


サクラが咲きました  撮影:今駒清則

24日、あちこちで白い花が咲きかけているのを見ます。サクラです。蕾をつけた枝がいっぱいにひろがるその枝先にはたしかにサクラが咲いていました。ウメ、モモ、サクラと順に咲くのですが、まだウメも満開のところもあります。

馬酔木  撮影:今駒清則

 馬酔木も真珠のように陽光に輝いていました。一気に春がやってきました。


途切れた道 3

「あま岸」を示す道標  撮影:今駒清則

下高野街道の道標(右側)
右の写真はその部分

25日、以前の9月28日、10月19日の項で書いた「途切れた道」、新川(新大和川、現・大和川)が開削されて下高野街道の道が無くなってしまった話の続きです。

 この新川を越えるのには渡し舟を使っていました。この渡しはどうも「天岸(あまぎし)の渡し」と呼ばれていたようです。ただしまだ文献また地元の方からの確認はとれていません。これもそのうちに何かで確認できるとは思いますが、これはこの渡し場付近が江戸時代に「天岸」と呼ばれていたからです。写真は阿麻美許曽神社の南(天美東8、航空写真地図、下高野街道にある道標で、このように記されています。

<表面> 右 志ぎ山 八尾 ひらの 三宅(村道)
     左 天王寺 あま岸(道)
<裏面> すぐ 高野山 狭山道/我堂村 嶋谷安兵衛

      注:カッコ内は隠れている文字

 この道標から下高野街道を北へ向かうと阿麻美許曽神社を越えて大坂・天王寺に至ります。この道標にある「あま岸」の「あま」は阿麻美許曽神社の「あま」か、この地域の天美の「あま」を指すのかはわかりませんが、いずれも場所の略読みで、「岸」は新川の岸を意味しているものと思われます。というのは、古来から大坂と大和や河内東・南部との運輸には大和川の船便が使われていました。新川ができるとそれまで使われていた旧大和川の航路は衰退し、帆をつけた剣先船が新川を往来するようになりました。その船着き場の一つが阿麻美許曽神社の所で、天岸の剣先船問屋・七郎兵衛(東大阪市・栗山家文書)の荷物を扱ったものと思われます。この船着き場が「天岸」で、渡し場でもあったようなのです。なお、阿麻美許曽神社の由緒書には「(当社は)俗に『阿麻岐志の宮』と呼ばれ」とありますが、この「阿麻岐志の宮」の「あまぎし」から「天岸」と呼ばれたのではなく、逆に「天岸」にあるお宮さんなので「あまぎしの宮」と呼ばれたのではないかと考えています。

 この付近も古代からの遺跡が多いのですが、歴史的には断片的で謎が多く、地図や史料にあたって推理小説を読むよう気楽に考証推理するととても面白いのです。この阿麻美許曽神社の西には幻の「依羅(よさみ)池」や、最近の発掘調査から前期難波宮からの「難波大道」が通っていたと推定されており、また「松原市史」ではこの付近の「大道」から旧西除川沿いの下高野街道を使ったショートカットの古道で竹ノ内街道に至るのでは、と示唆していて、今は舗装されたなんでもなさそうなこの道標の前の道に夢が広がります。


サクラ 満開  撮影:今駒清則

26日、晴れたり曇ったり、風が吹いたり、寒くなったりと早春の気候は不安定です。書きかけのものに追加するためカメラ歴史散歩にちょっと出かけた時に満開のサクラに出会いました。その下で春休みの子供たちが元気に走り回っているのを見ると元気をもらえます。


ツエッペリンNT号  撮影:今駒清則

27日、写真は25日に上空を通過したツエッペリンNT号、窓から下を見ている乗客と視線が合いそうな感じです。現在は関西空港で整備中で4月からのフライトになるそうですが、一日数回も見ることもあり、これを映像化したいのですが、大阪の気象条件は写真にはあまり良くなく、なかなか良いコンディションに恵まれません。

 今日は仕事が一段落したので大掃除をしてます。片付けないまま次の仕事にかかってしまい、混乱しているのを片付けているのですが、それでまた腰痛がでてきました。まだ中途半端なところなので明日もやらねばなりません。


菜の花 満開  撮影:今駒清則

28日、またここ数日で終わらなければならないプロジェクトができて片付けが中断、一層散らかったままです。打合せに出た途中で菜の花が咲いているのを見つけました。


お地蔵さま  撮影:今駒清則

29日、終日デジタル処理やあれこれ、パソコン3台を掛け持ちで稼働。マルチタスクは私の方です。写真は26日に見かけたお地蔵さま。お寺の門前で道通る人々の平安を祈って下さっています。赤い帽子をかけて凛としたお顔です。


30日日曜日。あるプロジェクトのための準備でおおわらわです。この更新もままなりません。


31日、結局午前5時近くまで仕事をして休息、荷物があるため車で東京北部へ8時に出発。新幹線と違って運転するので寝ていくわけにはいきません。東名高速の道路際には結構サクラが植えてあり、満開のサクラ並木の中を走るのは幸せな気持ちでいっぱいになります。単調な東名高速の運転に変化をつけるために、途中の御殿場から富士東山麓を通る東富士五湖道路(衛星写真地図)で中央高速へ、お富士さんをま直に見たいのと、新しくできた中央環状線山手トンネルを抜けて都心部を通る首都高速の渋滞を避けようとの思惑です。

御坂山地も春の雪 下は東富士五湖道路  撮影:今駒清則

 富士山周辺は悪天候で裾も見えませんが、東富士五湖道路付近は雪景色。低気圧のせいで富士山周りも雪で化粧直しです。思わぬ景色に写真を撮りたいところですが時間までに目的地に着きたいので道路際から一枚だけ。目的地着は16時半。東京周辺のサクラはどこも満開。一仕事をして一泊。


2月 08年3月 4月