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2008年7月1日 東京の中野区を流れる神田川。垂直護岸に川辺は遊歩道になっています。その護岸は装飾タイルになっていてたしかに美観は良いのですが、そこまでしなくてもと、東京だからできることなのでしょう。
関東の地方都市を流れる川。以前見たときは水が黒く濁っていてゴミも沢山あり、こんな汚い川はめったにないなと思いましたが、その後掃除したとみえてゴミは無くなっていました。
同じ川です。それでも観察しているとコイが泳いできました。
同じ川で100m程離れた所です。少し前まで農村部だったのでしょうが、この付近にはマンションが建っています。コンクリート積み護岸ですから景観もよく植物にもやさしい状態になっています。この先突然に先の鋼矢板の護岸に変わるのでびっくりしました。
2008年7月2日
3日、地表に大きな円形が描かれ、その内側は整然と区画されています。1940(昭和15)年5月に田んぼの中にほぼ円形に整地され竣工したのが始めで、それはこの写真のほぼ上半分の位置に相当します。その後この円は拡大し現在では28万平米を超えて大阪市では最も大きいものになっています。周囲は郊外にどんどん広がってきた団地や住宅に取り囲まれていますが、1985年の撮影時はまだ南側(下部)に田畑があります。
この鉄道は近くにあった陸軍の大正飛行場(阪神飛行場、八尾飛行場とも、現在は八尾空港、八尾の大正にあった陸軍航空隊訓練所を陸軍の飛行場にした)と関西線との連絡線、および関西線と阪和線を結ぶために敷設され、飛行場への連絡線は終戦後撤去されましたが、この関西線・阪和線を連絡する単線の「阪和連絡線」(「阪和貨物線」)は整備されて1952(昭和27)年から関西線「八尾」から「竜華操車場」(「久宝寺」)で南下、ここ瓜破霊園で西へ大きくカーブして大和川右岸沿いを通って阪和線「杉本町」まで通じました。定期運行は無かったのですが貨物や団体列車などがまれに通り、近年は一日一往復の「レール磨き列車」だけが寂しそうに通っていましたが、2004(平成16)年に廃止され、現在レールはあるものの踏み切りの鉄路は舗装されています。 1957(昭和32)年に阿倍野、平野、住吉の斎場がここ瓜破霊園(衛星写真地図)へ移転、大阪市に5ヶ所ある霊園の中では最も大きく、中央にある斎場では年間1万人を超える火葬と葬儀を執り行っています。なおこの付近では後期旧石器時代から縄文時代中期、弥生時代後期未の瓜破北遺跡、弥生時代の瓜破遺跡の発掘調査が行われています。
2008年7月4日
2008年7月5日 堺市の堺旧港には現在も幕末の遺跡として南台場と、もう何の痕跡もありませんが北台場がありました。前回まで南台場を中心に展開していますが、まだまだ掲載することがあり、それはこれからも続けますが、今回は堺旧港の北側にある北波止で本格的な工事が始まりましたのでその進捗状況をお知らせしたいと思います。 北波止(小波止)(衛星写真地図)は堺旧港の水路の北側にあり、堺旧港を掘った時の土を積み上げたところで、海に向かった先端に北台場が築かれました(現在の大浜北公園で阪神高速湾岸線の下になります。これについてはまた後ほど稿を改めて詳しく書く予定です)。工事はその堺旧港内の北西部を大阪府港湾局・堺泉北港湾事務所が「堺泉北港・堺旧港地区護岸改良工事(その17)」として長さ214.37mにわたって護岸工事をするもので、工事費は272,370,000円です。堺旧港の南側はすでに護岸工事は終わっていて、前にも書きましたが親水性護岸として、幕末から明治にかけて築かれていた石積の護岸をすっぽりと覆って雁木状のモダンな護岸になりました。今度はここをそのようにするようで、写真にあるような石積の護岸もそのうち姿を消してしまうのだろうと思います。南側の工事の時には有識者から歴史的な意味のある護岸を惜しむ声が上がりましたが、大阪府港湾局は耳を貸すことなく工事を進めました。堺にわずかに残った江戸時代からの名残がまた消えようとしています。(続く)
2008年7月6日、日曜日 風が南から吹けば暖かく、北から吹けば涼しいのですが、ここ数日南からの暖かい「そよかぜ」でムシ暑いこと甚だしいですね。エアコンに弱い私としてはエアコンなしで暑い夏を乗りきるためのナラシ運転と心得て過ごしています。なお暑さを乗りきるコツは経験上、頭をあまり動かさないこと、急な動きをしないことです。そうすると汗もあまりかきません。 ウインブルドンテニス2008の女子は、パワーテニスを女子に持ち込んだウイリアムズ姉妹の決勝戦となって姉のビーナス・ウイリアムズが2連勝しました。男子はラファエル・ナダルと今までのチャンピオン、ロジャー・フェデラーの決勝戦、テレビ中継のスーパープレーを息を呑んで見ていました。途中サスペンデッドもあり、フェデラーの不調でミスが多く予想外の0-2の展開、それでも2-2まで巻き返し、またもサスペンデッド、もう空も白んできましたがここで寝るわけにはいきません。しかしゲームを再開したところでテレビ中継は打ち切り、ニュースになりました。残念。F-1 イギリスGPの方は雨が降って大波乱のようですが同時放映だったので後でHD録画で見ることにします。
2008年7月7日 今夜は七夕、モヤっていて木星以外の星は見えません。天の川が真っ白に見えていたモンゴルの草原は星がたくさん見えすぎて、かえって星座がわからなかったことを思い出しました。 明日から京都市美術館で2008 JPS展が始まります。最終日の13日には写真家・齋藤康一氏による「昭和の肖像」の講演会もあります。どうぞお出かけ下さい。
2008年7月8日
農業用水路の堰の下にある鉄骨フレームに15cmほどのフナが落ち込んで身動きできなくなっているのを見つけました。まあそのうちにハネて飛びだすだろうと思って村の周囲を一周して再び見ると、そのままになっていてどうも飛び出せないようです。今日は水量が多いのでこぼれた落水がフナのところにありますが、水量が少なくなれば干上がってしまいます。用水路の深さは2mほどありとても手では届きません。周囲を探して長い木の枝でフナを追いだそうとするのですがどうしても出すことができません。仕方ないので裸足になって堰を伝って下に降り、フナを掴んで放してやりました。ズボンとシャツはビショビショです。でもこの暑い日差しですぐに乾いてしまいました。ささやかな救出劇です。 天候が不安定なので夕焼けの可能性があり、ダイナミックな夕焼けの二上山を撮影したくて當麻付近で待機しましたが、折悪しく雷雲がやってきて日没まで大雨。むなしく帰りました。
2008年7月9日
2008年7月13日、日曜日 今日はJPS展・関西展の最終日で、受賞された方の表彰式と講演会が南禅寺近くの京都市国際交流センターでありました。田沼武能会長とJPS関西の田中祥介氏による受賞作品講評と、齊藤康一氏の「『昭和』を彩った100人」のポートレート作品の作品紹介とそれぞれの人物像を取材を通して感じた事などの講演があり、いろいろと勉強になりました。その後の懇親会は失礼して帰りましたが、久しぶりにお会いする方々とともに楽しい時間でした。
2008年7月14日 その後入江先生のお墓参り、帰りがけに奈良を南下して葛城付近をロケハン。紀ノ川まで走って帰りました。もう大変に暑い日でしたが良い風景を幾つか見ましたので何れ出かけます。
2008年7月15日 結論から言いますとかなりの省エネです。この時速5Kmダウンは時速70km定速ノンストップ走行と65Km定速ノンストップ走行とで比較した場合、50Kmの走行距離で到着時間差は計算上ですが3分間程度の差でしかありません。それで1割以上も燃費が向上しました。 具体的な例をあげると大阪市内を走る阪神高速道路の日中で走行量が少なく渋滞が無い時、オートクルーズ・コントロールを時速70Kmにセットして走行した燃費は平均28Km/L、時速65Kmにセットした平均燃費は32/Lでした。時速5Kmの差は4Km/L燃費が伸びたことになります。これは阪和道や西名阪、近畿道などで走行してもほぼ同様でした。大阪周辺はおよそ平坦ですから高速道路差は無いようです。なおオートクルーズでなくアシクルーズで定速走行するとさらに1Km/Lほど向上します。これはオートクルーズがかなり厳格に設定速度を守ろうとシビアな速度調節をするためで、足でコントロールするようにファジーな設計(設定)になっていたら燃費向上にもっと貢献したことでしょう。 阪神高速道路は制限速度60Kmですが、走行車線がおよそ70Km、追い越し車線が80Km+で流れています。昼間の阪神高速道路は空いているので時速65Kmで走行していてもあまり迷惑をかけないのですが、混雑しているときは時速70Kmにせざるを得ません。その他の高速道路は80Kmが制限速度ですから65Kmで走行するにはかなり勇気!がいります。まあ追い越し車線が空いていれば問題なく追い越して行きますから良いのですが、追い越し車線が混んでいるときは走行車線の流れを妨げないように全体の流れに乗って走らないと危険でもあります。そのあたりは臨機応変にしています。
2008年7月16日
江戸後期の地誌「紀伊國名所圖會」には国分寺の左手の田の中に、心礎と他の礎石が数個あるのが描かれています。今は心礎以外の礎石は1個しかありませんので多分持ち去られたものでしょう。またその塔の跡地もかなり小さな面積になっています。それでも今、礎石のある所が何となく基壇風にも見えますが思い過ごしでしょうか。
この塔のあった寺は心礎の年代から国分寺建立以前からあった寺のようですが、その寺名も規模も内容も全くわかっていません。路傍にある謎の塔心礎です。
2008年7月17日 それでも風があって日陰は涼しく、雲もいろいろ変化してかなり撮影しましたのでここに雲の写真を用意したのですが、夜になって生駒山の向こうに雷光がありましたのでこちらにしました。雷さんはかなり遠いようで雷鳴は聞こえません。webの雷情報で調べると滋賀県あたりへの落雷のようです。
2008年7月18日
よく見る茶色のアブラゼミでなく羽根の透明な黒いクマゼミばかりで、その鳴き声の大きなこと。撮影をしていると終業式を終えて早くに帰ってきた小学生が集まってきたので説明していると、男の子がセミに向かって「ウルサイ!」と怒鳴っていました。それでもお昼頃になるとクマゼミの鳴き声は止んでしまいます。
2008年7月19日 この祭の時にここでは「立山」という、時事を皮肉ったり流行をいろいろな身の回りの日用品や農具、人形などを使って一幕のドラマに作って見せる「つくりもの」が町内の各所で展示されているはずだったのですが、10年ほど前に取り止めてしまったようで現在はしていませんでした。 お目当てのものが無いので後はまつりの雰囲気を楽しんでスナップ。いまこのまつりは余興の演芸大会と夜店も大いに賑わっていますが、本殿への参拝も参道の鳥居から社前まで列をなしているほどで、中和最大の夏まつりと言われるだけのことはあります。なおこの「作り物」とか「造り物」といわれているディスプレイは各地で急速に消滅しています。現在も行われている所がありましたらお教えいただけますと嬉しく存じます。
2008年7月20日、日曜日
2008年7月21日、祝日
2008年7月22日
2008年7月23日
2008年7月24日、 土用・丑の日でちょっと豪華なうなぎの懐石をいただきました。静岡産のうなぎとのこと、産地まで気を使いながら買ったりいただいたりしなければならなくなりました。 ふりかえって我が住まいの大阪のマンションでも挨拶をする方は少ないし、街で子どもに声をかけることもできないご時世になって、スナップ写真も気が引けるようになりました。しかし大和の農村歩きでは初めての村の道ですれちがう村の人とは立ち話もしますし、子どもたちは「こんにちわ」と声をかけてくれます。そんなところも良くて農村歩きをするのですが、この頃無差別殺傷事件などが頻発する、尖ってしまった都会は昔にもう戻ることはないのでしょうか。
2008年7月25日 この「つくりもの」は「やま」を表すかたちのひとつで、「やま」は神を呼び神を迎えると考えられています。「やま」のかたちは沢山ありますが、祭の中では「鉾」「ダンジリ」「山車」「屋台」などが普通に見られます。祭で一町内に一つの「やま」が現われ、「やま」に神を迎えてその町内の安全を願い、祭が終わると「やま」は壊すか解体して隠してしまいます。祭の時だけ「やま」が現われることも大事なことなのです。
大和の農村歩きでこの「つくりもの」をしている村が数ヶ所だけあることがわかりました。17日の田原本町・祇園祭もそうだったのですが現在は行われていません。今日25日は御所市の東長柄にある天満宮の天神祭で「つくりもの」を見ることができました。大和ではこれを「立山」と呼んでいます。まさに「やま」を「立てる」ものでさすがに伝統のある大和です。
午前10時に天満宮で神事があり、それからそれまでに準備をしていた人形や細工物などで「立山」の組立や設置にかかります。
天満宮横の道端には婦人会が制作した子ども向けの「アンパンマンとそのなかまたち」です。発泡スチロールなどでこころを込めて丁寧につくられた人形たちに私もほのぼのとしてきて見とれました。 「立山」を展示できるように設計されている公民館に創られたのは「道頓堀名物」です。道頓堀にある「くいだおれ太郎」「グリコのネオン」「かに道楽・東長柄支店」「づぼらやの大看板」、それに記者会見する「料亭のおかみ」。話題となった時事を切り取ってこの世相をリアルに見せました。 狭い天満宮の境内には力作の「インディ・ジョーンズ」の場面。青年たちに長老たちが手伝ってつくりあげたものです。ここへは必ず「水」を使うそうで、例年は上から水を落とすそうですが、今年は下から吹き上げるように工夫をこらしてあります。 この天満宮の社殿や拝殿は1858(安政5)年の創建で、拝殿には翌年に奉納された三十六歌仙の懸額などがありますし、境内石造物も同年です。ちょうど大河ドラマの「篤姫」と同時期になります。またここには当屋制度が続いていて、正月前後の行事と、この「立山」のまつりが主な行事で、まつりの時に拝殿近くに置いた「邑中安全」の看板の通り、村の安泰と村人の絆をつなぐ大切な行事となっています。
近隣の村にも響きわたるスピーカーの大音量の歌謡曲が合図となって夕方になると天満宮に人が集まります。車がやっと通れるほどの天満宮への細い道端には13の露店が軒を並べ、子どもたちは「立山」よりもそちらの方がお目当てです。 ほんとうに久しぶりの「つくりもの」に会いました。趣向もよく本格的なもので、取材してみて地域の人々のつながりと昔からの人情が温かく伝わってきます。このご時世ですからこれからの継承も困難が予想されます。長く伝え続けられるような支援を各方面にお願いしたいと思います。
2008年7月26日
2008年7月27日、日曜日 飛行機雲といえばロンドンからミラノへ行く機上で、浮かんでいた飛行機雲を横切った時、その断面が中空になっているのを発見しました。すべてがそうなのではないのでしょうが、ちょうど綿でできたパイプのようで、すぐにカメラを向けたのですがすでに遅く窓から消えてしまいました。悔しいのでノートにスケッチしてあります。
2008年7月28日
日没間近、東の空に大きな虹がかかりました。15分ほどで消えましたが鮮やかな虹でした。
夜、南の空に雷光が。webで確認すると淡路島南部から和歌山方面に雷雲です。いつものように撮影。雷光に照らされた雲を捉えることができました。
2008年7月30日
2008年7月31日
その足で堺市の大浜公園へ、ここに時々連載している「堺の台場(砲台)」の所です。夕方から「大魚夜市(おおうおよいち)」でいろいろな催しがあります。堺は自転車の街だけあって自転車で駆けつける人々で大浜周辺は混雑し、臨時の巨大な自転車駐輪場は満員、歩道にも駐輪して大混雑です。 大浜公園にはステージも作られていていろいろなアトラクションをしています。そこに行くまでは軒を延々と並べる露店を通らねばなりません。この中心になるのは魚市、午後7時から多くの市民団体が出店して鮮魚のセリ売りや格安の魚を販売します。例えば40cmのマダイは1,500円、タコは2,000円、イカは200円、ケガニ、ズワイガニは1,500円、ホタテ、サザエは150円というところが最初の値付で30分もすると売り切れの店が出てしまうほどです。その頃になると店によっては半値近くになり、マダイにイカ、サザエなどをサービスして1,000円程で売り切ろうと乱売になるところもあり、市は呼び込みと値引きの交渉で熱気はさらに高まります。 堺はもともと遠浅の浜が延々と続くところでした。中世の交易船は小舟に荷を積み替えて堺の浜から環濠へ入り荷揚げしました。漁師はこの浜のあちこちで魚市をたてていましたのでその名残が今に続いているわけです。会場にはビニール袋や小型のトロ箱に入れた収穫の魚を持った人々が雑踏の中でさまざまに楽しんでいます。でも安いのは良いのですが帰ってから魚を自身でさばかねばなりません。
その後歩いて堺中心部の宿院頓宮へ、大鳥大社からお神輿が渡御して来られます。今ではトラックに乗っての渡御で、午後8時から御霊をお遷しして神事が執り行われ夜中に還御されます。境内は大浜公園の喧騒とはうって変わってお参りの方も少なく静かです。明日の夕方は大阪・住吉大社のお神輿が同じようにここへ渡御されるので大賑わいとなることでしょう。
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