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2月1日。夜中に外一面が真っ白。濃霧で近くの街路灯や建物の灯しか見えません。霞んでいるのは街の灯で霧が白くなったものでした。
豊中市の千里中央にあるA&Hホールでのシリーズ公演「古典伝統芸能と出会うひととき」の大和座狂言へ。今回のテーマは「狂言の行く先は?」です。狂言は「左近三郎(さこのさむろう)」と「棒縛り」の上演、狂言研究家の重鎮・小林責氏「狂言の可能性」の講演でした。演者は大蔵流狂言師・安東伸元氏が指導する方々。「左近三郎」は猟師が出家に無理難題を言い脅しますが、問答するうちに打解けて仲良くなるという物語。小林責氏の講演は狂言の過去未来を幾つかの事例を基に鋭く分析した優れた内容。
最後に「歌唱演習」として舞台上と観客が謡曲「羽衣」のキリ(最終部分)を合唱するという珍しい公演でした。安東氏の豊富な能楽教育経験から生まれた企画でしょう。かって大阪で「申楽大和座」という中堅の能楽師たちが、種々の公演を通して、当時としては画期的な能楽啓蒙活動を行っていました。解散後もその一員の安東氏がこの主旨を継続して活動されていることに敬服。実はその活動を私も多少お手伝いしたことがあり、長いお付合いでもあります。公演後遅くまで小林氏、安東氏を囲んで関西の能楽研究家と懇談。貴重な一日でした。
3日。朝は快晴、西の空に更待月。このごろ日の出に赤く焼ける富士山を楽しみに毎朝山中湖村ライブカメラを見ているのですが、この月が富士山の右肩にかかっていました。時空間を超えて楽しめるライブカメラです。
4日。立春です。早春らしい写真を、と思ってましたが今日中に発送しないといけない原稿でカンズメ状態で散歩も撮影も出られませんでした。
5日。大和街道(古堤街道)は古くから鯰江川(2)沿いに通じていたのですが、後に片町から野田橋を渡らずに東へ直進し、寝屋川(古大和川)沿いに通る道も盛んになり、これも大和街道と呼ばれるようになりました。写真は片町(左)から見た大阪ビジネスパーク(OBP)です。合流している川は、左側が寝屋川(古大和川)(1)、右側は第2寝屋川(平野川・猫間川)、右端は大坂城の石垣です。
1929(昭和4)年の地形図を再掲します。現在の衛星写真地図と比較してご覧下さい。
その鯰江川(2)は埋め立てられて道路になりました。写真の道路はその鯰江川の跡です。ダイエー(13)の西側、京阪京橋駅(12)との間で、地図の(2)の番号の位置になり、かって荷揚場、また船溜りがあったと思われる川幅が広くなっていた所です(川の位置表示は厳密な考証でなくイメージです)。京街道、大和街道(3)は右の高架下付近を通っています。
道路はかっての鯰江川(2)で、そこに架かっている鐵道の橋梁(10)です。鐵道は明治28年に開業した梅田鐡道で、現在はJR大阪環状線。この上部はJR京橋駅(9)です。レンガと石造の橋脚は今は白い塗料が塗られていてちょっと残念です。
この橋梁へ塗装を施したプレートには「鯰江川橋梁」とありました。川は無くなってもその名前は残っています。道路は間違いなく鯰江川が流れていた跡です。
その北側の狭い道路、つまり鯰江川の土手道で大和街道(6)です。京街道から分岐した大和街道(古堤街道)が鐵道(JR京橋駅)の下を潜っています。こちらのプレートも「鯰江川橋梁」とありました。写真の奥が京阪京橋駅(12)方向です。(続く)
6日。冷え込んで大阪にも時々雪雲らしい雲が来ますが雪は降りませんでした。各地のライブカメラを見ると日本列島の東や北の方では雪が沢山降っていて、中にはカメラが雪で隠れたのか見えないところが幾つかありました。飛騨高山も雪降り、今日の白川郷は夕刻からライトアップがあるので雪を心配していたのですが、日中は降っていたものの夕方には止み、新雪で合掌造りの屋根も白く絶好のコンディション。白川村ホームページのライブカメラはその様子を写し出していました。 7日、日曜日。大阪は穏やかな日和です。 京阪京橋駅(12)南の京街道の分岐点からJR大阪環状線・京橋駅(10)を越えて大和街道(古堤街道)(6)を東へ向かうと北側に蒲生(がもう)墓地(7)があります。江戸時代に観音さま巡りと同様に、大坂三郷の周りに造られた七つの墓地を7月16日前後に巡って供養する七墓参りという風習があり、その大坂七墓の一つの墓地です。大坂七墓とは梅田墓地、南浜墓地、葭原(吉原)墓地、蒲生墓地、小橋(おばせ)墓地、千日墓地、鳶田(飛田)墓地で、現存するのはこの蒲生墓地と南浜墓地だけで、他はすべて移転しているので歴史的に貴重な存在です。(大坂七墓の衛星写真地図)
蒲生墓地は鯰江川(2)北岸の土手(堤)の上を通る大和街道(6)の北側にあります。墓地のさらに北側は明治時代頃まで水路があり、田畑が広がっていました(この項のその1にある1887(明治20)年旧版地図を参照)。その水路は現在生活道路になっています(地図に水色点線で表示)。大和街道のこの先は蒲生、今福と続き生駒山へ向かっています。
墓地へは土手を通る街道から下へ降りて入ります。墓地の様子は古地図と余り変わりがありません。墓地の南側を見ると大和街道が鯰江川の土手を通っているのが良く分ります。
墓地の入口付近にある六地蔵さまです。1813(文化13)年とあり、子どものような可愛らしいお姿です。
墓地の東側、一番奥のお堂に安置されている阿弥陀如来さま。極楽からのお迎え佛です。灯明の油煙で煤けていて信仰が篤かったことがわかります。お顔や全体の造りから先の六地蔵さまと同時に造られたのではないかと思われます。
ここの墓石の一つに判じ物を刻んだお墓がありました。「人ニハ|一」と刻んでいます。大阪ではたまに見られるものですが、「人には辛抱が第一」すなわち「金」になる、というもので大阪らしい人生訓です。お墓参りに来た子孫はその度にご先祖さまの教訓を承ることになる訳で、案外良い方法かも知れません。
8日。自動車でJR阪和貨物線の踏切跡を通り過ぎる時に、レールや枕木、ほか鉄道施設が撤去されているのを見かけ、車を停めて付近を撮影。廃線になると聞いてからもレール磨き電車が時々走っていたのですがそれも止まり、そのうち踏切には軌道側にフェンスが張られて自動車は一旦停止をしなくても良くなり、今は踏切だけにレールが残された風景になりました。延々と延びる何も無くなった軌道跡は意外に広く見えます。撤去工事は昨年の秋から始まったようで、そのうちにこの踏切跡のレールも無くなることでしょう。なので廃線マニアには今が絶好のチャンスです。
10日。日中は暖房のいらない暖かい日が続きます。もう何年も球根を採っておいては植えているチューリップが伸びてきました。小さな球根でも一所懸命に芽を出すので捨てては可愛そうで植えてあげます。それらは花茎も出ない葉だけのチューリップになりますがそれも良し。いつかは花が咲いてくれると信じています。世の中と同じで彼らのさまざまな生き方を見守りたいと思ってます。 この「近況」にいろいろ書いてきたのを、読みにくいので少しまとめたらどうか、とメールを頂きました。その通りで、何回かに別れているのは自分でも探すのが大変です。とりあえずまとめたものを仮開設しました。こことは別サイトにして、名付けて「なごりすとのページ」です。「なごりすと」とは歴史の残欠から何かを見て行こうという「名残スト」です。そのような名称は無いのですが私が名付けました。これから徐々に整えてまいります。
12日。めまぐるしく雲が変わる一日でした。写真の波状雲は大きくは広がらなかったのですがきれいな姿を見せてくれました。空の大気が微妙に動いて造り出すもので、水面にできる波と同じようなものです。
13日。今日から冬季オリンピックがバンクーバーで始まりました。雪上、氷上のスポーツは大好きでこれから楽しみです。1988年のカルガリー冬季オリンピックの時に行ってから何回もカナダへはスキーに行っているのですが、バンクーバーは乗り継ぎをするだけで街へは数回しか行っていません。スキーはいつもカナディアンロッキーの東のバンフ付近に行くので、今年の会場となるウイスラーのスキーエリアへも行ったことはないのですが、バンクーバー空港でウイスラーへ行ったスキーヤーにお聞きすると意外に雪が湿っているそうです。そういえばバンクーバーは雨の多いところなので、山へも太平洋の湿った風が吹きつけて湿った雪になるのでしょう。バンフの方はカナディアンロッキーを越えてくる間に乾いてしまうので完全なパウダースノーです。
1996年12月は猛烈な寒波と雪でカナダ西部は凍りました。バンクーバー国際空港でも雪。飛行機にピンク色の凍結防止剤を吹きつけるのにおおわらわでした。
15日。始まったバンクーバー・オリンピックにちなんでカナダスキーのエピソードを。
いつも身につけている気温計が測れるのはマイナス15度までで役には立ちません。長い長いクアッドでルックアウト・マウンテンの山頂へ。このリフトは吹きさらしですから風に吹かれるととても寒いのですが今日は風がなく幸いです。しばらくすると手と足の先が猛烈に痛くなってきました。ルックアウト・マウンテンは写真のようにどこへ滑り降りてもよい広大な山腹の斜面にはスキーヤーはほとんどいません。皆さんロッジで暖をとっていて出てこないようです。
ルックアウト・マウンテンの山頂に立つと素晴らしいカナディアンロッキーの山並みが見えます。ひときわ高いマッターフォルンに似た山は標高3,620mのマウント・アッシニボインです。この時は遠方視界があまりきかなかったので写真は以前に撮影していた同所からの展望です。手前は圧雪していないスキーエリアです。森林限界の上ですから樹木はなく、スキーエリア内であれば自己責任でどこを滑走しても良いのがカナダのスキー場です。
高度の低い太陽の方向を見るとキラキラとダイアモンドダストが輝いていました。大気中の水分が凍ってできる現象です。
19日。ついでにごくごく簡単にこのサンシャインヴィレッジのスキーエリアを紹介します。
ゴーツアイ・マウンテンの上部も樹木は一本も無いのでどこに降りても良いのですが、途中から非常に厳しい斜面になります。ただ尾根筋だけは初級者(初心者ではなく)でも楽しめます。中腹からは深い森になるのでコースが設定されていて、腕前(足前?)に応じてコースを選びます。地元のスキーヤーやボーダーはコースでなく樹間を雪まみれでヨレヨレになりながらも降りてきてコース端にたどり着いて時々ノビています。 サンシャインヴィレッジ ライブカメラはこちら。 23日。今日は「富士山の日」。「2.2.3」の語呂合わせです。パソコン通信(懐かしい言葉ですね)のNiftyフォーラム「山の展望と地図」(FYAMAP)で1996年に制定、その後山梨県富士河口湖町が町条例を制定、静岡県も「富士山を後世に引き継ぐことを期する日」として条例化しました。静岡県はこの日を県独自の休日にしたいのだそうです。
日の出から日中は霞んでいて視界がなかったので、念のために前日22日にキャプチャしておいた山梨県四ツ峠からのライブカメラ写真を掲載します。Fujigoko.comが提供していて、富士山の周囲各所から高解像度で見ることができます。2月22日午前6時25分から8時30分までをQT Movieにしたものです。前日は日の出の朝焼けで富士山と雲海が赤く染まりました。
「富士山の日」は夕方に晴れてきたので、山中湖畔から富士山に隠れた夕陽をキャプチャしてみました。午後4時59分から6時22分までの移り変わりです。ライブカメラは山梨県山中湖村が提供しているライブカメラ「絶景くん」からです。
24日。バンクーバー・オリンピックで女子カーリングの日本チーム(チーム青森)が今日予選敗退し日本のゲームが終わりました。そのことはとても残念なことですが、連日各国とのゲームをテレビ観戦できたのが大変うれしいことなのでした。ハイライト番組ではポイントだけを選んで放映するので、これはまったく面白くありません。やはり生中継を最初から最後までを見なければあの面白さはわかりません。ライブで見るのが時間的に無理な場合は録画して、日本チームのすべての対戦を見ました。(NHKはスウェーデンとの対戦で予選敗退が決まったら、最終戦となったデンマーク戦の中継を取り止めてしまいました。ガッカリです、せめて決勝戦は中継して欲しいですね)。 26日。昨日今日はとんでもなく暖かい日で、昨日は日中は23度にもなりました。すごしやすいですがなま暖かい風が少々気味悪い感じです。
バンフの町を通る鉄道の向こうにレクリエーションセンターがあります。施設の半分はアイスホッケーのリンクとミニリンク、4シートのカーリングのリンクが備わっていました。アイスホッケーは国技ですからこの時も地元チームの試合中で賑やかな応援。カーリングも町民の楽しみによく使われているようです。バンフの日系商工会のお世話をいただいて日本人のインストラクターの指導で初めてのカーリング体験。 |
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