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今駒清則・写真アーカイブ 私が見た 伊勢湾台風 名古屋


 1959年の台風15号(195915号、伊勢湾台風)は9月26日(土)の午後6時頃潮岬付近に上陸。中心気圧929.2mbという超大型台風で、時速60Kmから90Kmの進行速度で紀伊半島から中部山岳付近を通り、午前0時頃に勢力はあまり衰えることなく日本海に抜けました。

 午後8時37分の三重県津市では中心気圧944.4mb、名古屋付近では夕方から強風となり、午後8時00分には最大風速は37.0m、瞬間最大風速45.7mという暴風が吹き荒れ、午後9時30分頃に名古屋市に最接近しました。
 潮位は名古屋港へ南寄りの暴風による吹き寄せと低気圧による海面の吸い上げにより平均海面上3.89mの高潮となり、名古屋市南区、港区を始め、伊勢湾沿岸一帯で浸水。特に鍋田干拓地では多くの被害が出ました。また名古屋港の貯木場から流れ出た材木が住宅地を襲い、住宅を破壊、多数の死傷者を出しました。

 全国の全壊家屋は36,135棟・半壊家屋は113,052棟、流失家屋は4,703棟、床上浸水は157,858棟、船舶被害は13,759隻、死者・不明者5,908名(名古屋市は1,909名)という大きな被害をもたらし、室戸台風、枕崎台風と共に昭和の三大台風に数えられています。   (リンク・気象庁「伊勢湾台風」

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名古屋市南区 (1959年9月27日撮影)

 

 


屋根を直す高校生 (1959年9月28日撮影)

 

 




 1959年9月26日は台風接近で風雨が強くなり、半鐘を打ち鳴らす警報で近くを流れる矢作川に洪水警報が出たことがわかりました。
 当時私が住んでいた豊田市街は歴史的にみても洪水にみまわれやすい所で、川へは歩いて15分ほどの所なので水の様子を見に行きました。そこは夏に私たちが子供の頃から川水浴をする高橋のたもとですが、川原が見えるどころか、水はあと2、3m位で堤防上に迫っていて警防団が見守っていました。
 
 帰りは周りに田畑しかない堤防から下る道では、西から吹く向い風が強くなってきてなかなか前に進めなくなりました。前かがみで電柱から次の電柱までやっと進み、電柱にしがみついて風が少し弱くなった時に次の電柱まで行くようにしてやっと帰ってきました。

 自宅は木造の平屋で、風に備えて父が雨戸などを固定していました。
 夜には停電となりローソクを灯していましたが風雨はますます強くなり、ついに裏庭の塀が倒れました。同時になんと畳が浮き上がってきました。縁側の下から吹き込んだ風が畳を持ち上げたものでしょう。子供たちも畳の重石になって乗っていますが、それでも部屋の真ん中はふわふわと浮き上がります。箪笥などがゆらゆらと揺れ、雨戸は吹き飛びそうな風です。ついに家中がガタガタと揺れ、今にも壊れそうな気配がしましたがそれも少しづつ収まり、風下の窓から外を覗くと暗やみに垂れ下がった電線が風に飛ばされて火花を散らしていました。

 翌朝は嘘のように快晴。停電でラジオはつきませんが、私の宝物、イヤホンで聴くトランジスタラジオ(トランジスタラジオのスピーカー付は当時とても高価だったのです)は名古屋やその西の高潮被害を伝え、死傷者が多数でているようです。

 伯母の一家が名古屋市南区の道徳近くにいるのですが、確実に浸水していて、その消息がわかりません。被害の大きかったところのようで心配です。ちょうど日曜日で高校は休みですので安否を確かめに行くことにしました。
 伯母の所へはいつもは電車で行っていましたが、電車も止まっているのでバイクで行くことにしました。バイクで行くのは初めてですから地図が頼りです。ついでにカメラも持っていきました。

 豊田市から道徳まではおよそ25Km程です。暴風の被害で荒れた道を名古屋市内へ入り、瑞穂を過ぎたころから道路が冠水しています。バイクを道端に置いて南西の方向へ歩くことにしました。およそあと2Kmほどです。
 だんだんと水深が深くなり、時々腰のあたりまであるところもあります。澱んだ水が道路を覆い尽くし家々も冠水しています。塀とか木材とかが道路を塞いでいて一区画迂回しないと向こうへ行けなかったり、動物の死骸、家財などが周りを取巻いています。ほとんどの家が水に浸かった布団や衣類を屋根に干していますし、急遽作ったイカダにお年寄りを乗せてどこかに向かう家族もいます。どこどこには亡くなった方がずらりと並べてある、などという話を聞くと心配になって、周りも見る気にもならず伯母の所へ急ぎました。もうカメラを持っているなんてことも忘れています。

 水に浸かった道徳の駅に着きました。駅からは伯母のところまではすぐわかります。見知った街が水の中で荒れ果てていましたが、伯母の一家は無事でした。知人の家に避難して一夜を過ごしたそうです。
 住宅には水が床上1mを超すところまできていたようですが、今は床下まで引いているので一家は家財などの片づけようとしていました。親しい従兄弟たちは訪ねてきた私を見てもあまり反応を示しませんでした。多分ショックが大きく自分のことで精一杯だったのでしょう。
 何か手伝おうにもまだ何事も手が付かない様子がわかります。私は皆の無事を確認したので邪魔にならないように30分ほどで帰ることにしました。そこでカメラを持っていることに気がついて帰り道に少し撮影したのがこの写真です。

 翌日の高校では校内の掃除と片づけでした。私たち3年生男子は校舎の屋根に上がって、ずれたり飛んだりした屋根瓦を直す作業になりました。私は学生新聞の新聞委員ですので労役免除で写真撮影の取材。やはり屋根に上がって撮影をしました。生徒が木造2階建ての急勾配の屋根に上がって瓦を直すことなんて今のご時世では考えられないことをしていたものです。  (2007.9.25 今駒清則)


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