阪神・淡路大震災の写真記録 震災の街 7 今駒清則のお知らせページ HOME

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震災の街 16

本山センター街
1995〜1998

神戸市東灘区本山中町3


店舗が崩壊した「本山センター街」北口 神戸市東灘区
1995.2.17(震災後1ヶ月)  撮影:今駒清則

 阪神・淡路大震災から早くも20年目に入ります。いま被災地を歩いても震災の痕跡を見つけることは地元の人でなければ難しいようになりました。
 この定点観測の記録では路上で精密に場所を特定し、同フレームで撮影するまでに時間がかかります。それが住民の方には不審者に思えるのか、警察に通報されて不審尋問を受けることがたまにあります。震災後数年の間は「寒いのにご苦労さま」とお茶を頂いたりすることもあったりして続けてきましたが、20年も経つと震災を知らない新住民や若い方が増えているのでしょう。時代の流れを感じるこの頃です。

 さて、国道2号線の「国道地蔵尊」の東に、北へ一区画のアーケード商店街がありました。
 「本山センター街」と、その西に続いて「保久良市場」があり、住民には便利な商店街でした。大地震でこの付近にひしめいていた木造の店舗住宅はほぼすべてが倒壊し、多くの被害がでました。

 写真は北から国道方面を見た「本山センター街」の入口です。地震から1ヶ月後、まだそのままの状況を見せていますが、訪ねてきた女性はリュック姿です。
 この時期どこも道は荒れ、家屋などの瓦礫が散乱している状況では外出時の安全のためにリュックサックは最適でした。現在リュック姿はもう当たり前の風俗ですが、どうもこの震災をきっかけに馴染んだリュック姿が普及したのではないかと思っています。


更地となって仮設店舗ができた「本山センター街」北口 神戸市東灘区
1996.8.24(震災後1年半)  撮影:今駒清則

 「本山センター街」の建物は全て解体、更地となり、仮設店舗が少しできました。写真右手にあった木造の店舗住宅群「保久良市場」も全滅に近い状況となり、同じく更地になりました。
 神戸市教育委員会は「保久良市場」跡地へのマンション建設前に発掘調査し、明治期頃までの水田の下から、弥生時代の竪穴式住居跡、弥生土器、石器、鉄製品などを発掘、「本山遺跡(第22次調査、1998)」としてまとめています。(「本山遺跡(第22次調査 1998)神戸市教育委員会発行」を参照)


マンションなどに建替わった旧「本山センター街」、北から 神戸市東灘区
1998.8.22(震災後3年半) 撮影:今駒清則

 「本山センター街」跡、「保久良市場」跡もマンションになり、この辺りにあった賑やかな商店街は消滅。この旧「本山センター街」の通りには震災前からの店舗がほんの数軒、装いを変えて営業を続けています。(2015.1.17記)


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