阪神・淡路大震災の写真記録 震災の街 1 今駒清則のお知らせページ HOME

震災の街 2

震災の街 1
1995〜2006

 1月17日は阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)<総務省消防庁データ>の日です。震災時から現在まで、神戸と芦屋を定点観測で撮影記録している約1500ヶ所から、幾つかを選んで1月17日まで掲載します。またいろいろと思うことも書いてみたいと思います。

 1995年1月17日の大震災からもう13年になろうとしています。地震の強さ、災害の大きさは言うまでもないことですが、都市災害への備えが無かったことがあれ程の被害を生じた大きな原因だったように思います。国も自治体も個人もすべてが盲点を突かれたような大事件でした。

 大震災の時に迅速な対処ができなかった国や自治体は、多大な犠牲者と甚大な損害を教訓に、防災に対する意識は震災前と比べれば相当に変化してきたと思います。すべてが良くなったわけではありませんが一定の評価はできます。しかし個人の意識はどうでしょうか。私は被災地以外はまだまだ他人事として何らの意識改革も対策もされているようには思えません。前にも書いたことがありますが、個人住宅の耐震対策、防災対策は遅々として進んでいません。自治体がいくら警鐘を鳴らしてもです。人々が集まる公共施設に類する建物やライフラインはこの10年で相当に改修・改善されています。住宅も新規の建築はまず大丈夫でしょう。

 問題は古い住宅と賃貸住宅で、死傷者のほとんどがここに居住していました。特に賃貸住宅では家主がそこに居住していない古い賃貸住宅の耐震・防災対策は皆無に近いのです。これを公共施設に準じたものとして規制と強力な指導が必要なように思います。居住している住民は安全な賃貸住宅にできるだけ早く転居しましょう。入居者の減少した賃貸住宅は改修か建替えせざるを得なくなります。東海、東南海、南海地震<防災システム研究所ページ>をひかえて我が身と家族を守るためには断固とした防災に対する意識改革が必要です。一人ひとりの実行が社会全体を変えていく力になります。

 大震災の時、被災地では救出の方法も無く、消火の方法も無く、そして水も電気もガスも無く地獄のような世界があったのに、わずかだけ離れた大阪では縁故者以外は何事もなかったように過ごしています。その温度差は信じられないものでした。壮絶な被災地を取材した後、何事も変わっていない大阪へ帰ると後ろめたい気持ちで一杯でした。(2008.1.10記)

神戸市東灘区の住宅街


1995.2 →

 道路の南側(右)の住宅は1階が崩壊、南隣家(右端)も倒壊してはじき飛ばされるように道路の向こうまで倒壊して道路を完全に封鎖しています。
 その隣家ははじき飛ばされた住宅の位置までずれて1階が座屈しています。大震災から1ヶ月経ってもまだそのままに道路は通行できません。
 少し広めの道路でもこのように塞がれて消防車や救急車も通行できなくなるのですから救助活動には大きな支障になります。道路が狭ければなおさらで、倒壊した家屋からの脱出するのに瓦礫と化した住宅の上を通らなければならず、また救助に行くにも困難な状況になります。

1995.5 →

 この付近では道路北側(山側)より南側の被害が大きく、南側の地盤はかなり緩んでいました。被災した建物が解体撤去されて、はるか彼方まで更地が続いています。


1998.8 →

 道路に倒壊した住宅が再建されました。それでもまだまだ周囲は更地が広がっています。

2006.11

 大震災から約12年、何事も無かったように住宅が建並んでいます。しかし元の住民がすべて戻っているわけではありません。再建を諦めて今までの地域のつながりをとり戻せない人たちも多いのです。

震災の街 2