このサイトにあるすべての写真と文には著作権や肖像権があります。無断転載をお断りします。   写真家 今駒清則のお知らせページ HOME

近況 2007年8月


8月1日、もう8月、という感じでこの頃の一日は短く感じます。その割にはあまりシゴトは進んでないのですが。夜、世界一のPL花火大会、超低音の花火の音が10Km余り離れているのに腹に響きます。が、残念なことにベランダからは花火は見えないのです。


2日、お昼前に警察からですが・・・、と言って電話がかかりました。一つ間違うと事件になりかねない内容(内容は省きます)、変なのですぐに警察署に連絡、すぐに捜査が始まり、夜、警察から連絡。小学生のいたずら電話と判明。被害はなかったので事件にはしないで、お母さんがしっかり説諭することで解決。私の迅速冷静な対応がよかったようです。が、様々なメディアから悪い情報を得て、それをしてみようという風潮が低年齢化していることを憂えます。
 夕刻から台風5号の襲来か、というのでまたベランダの鉢を疎開。強い風の時は立っておれない程風当たりが強いので、低気圧や台風の度に避難させます。終日お水取りのデジタル・コンタクト作業。


3日富士フィルムフォトサロン・大阪の中村吉之介さんの写真展初日、相変わらずダンディなお姿で会場に。沢山のお弟子さんに取り囲まれて嬉しそうです。全国にある中村吉之介写真塾に行き、全国を舞台に撮影した風景写真展です。お元気さに脱帽です。その後、大阪市立工芸高校で高校写真クラブ指導者へのデジタル研究会に田沼JPS会長、松本専務理事が来られているのでちょっと立寄り、結果懇親会までお邪魔してしまう。台風5号は中国地方を横断して日本海へ。厳島神社も無事のようでホッとしました。


4日、夏で快晴なのにここ数日ガスっています。夜、平成淀川花火大会と神戸みなと花火大会が同時に行われていて、例年遠目に見えるのですが、これも霞んでいてまったく見えません。中国の煤煙のせいなのでしょうか。


5日日曜日。今日もガスった快晴、遠くが見えません。5月に開催された「関西写真家たちの軌跡100年」写真展のホームページには、今もアクセスが続いていますので、記録としてアーカイブするよう、内容に追加を始めています。すでに図録に掲載された中島徳博氏の論文「関西の写真」の約半分をホームページで公開しています。続いて、出品された作家たちの協力をいただいて、図録にある作品を同ホームページで公開するよう準備を始めました。整い次第掲載いたします。


6日、「広島原爆忌」、広島の平和記念式、テレビの中継にあわせて黙祷。原爆による無差別殺戮の直接被害者は20万人を超えます。そして未だに続く被爆の被害者も25万人もおられるという。アメリカが自国民にどう言いわけしようと核被害は消えません。いまだに続くイラクにおける米戦死者はすでに3,000名を超えたといいます。アメリカの正義、に疑問を抱かざるを得ません。それにしても久間前防衛相の「しょうがない」発言は国会議員の資質を疑うもので、辞任だけでで終わらせてはならないことなのです。広島市長は平和宣言で政府に「被爆の実相を学ぶ必要がある」「平和憲法をあるがままに順守すべき」と言わざるを得ませんでした。安倍首相の「今後とも、憲法の規定を順守し、国際平和を誠実に希求し、非核三原則を堅持していく」という誓いが、口先だけでなくいつまでも続くことを願っています。

広島平和宣言

 

撮影:今駒清則

 2歳で被爆し千羽鶴を折れば命が助かる、と信じて鶴を折り続けましたが、12歳で短い生涯を閉じた佐々木禎子さんの実話は多くの感動を呼び、このことから募金活動により1958(昭和33)年に原爆で亡くなった子どもたちへの慰霊碑として「原爆の子の像」が建立されました。その後も絵本やドラマなどで感動が広がり、能楽でも堂本正樹作・新作能「サダコ」が 2002年10月11日に広島アステールプラザで演じられました。
 写真はその演能の前日の「原爆の子の像」(サダコ の像)です。この平和記念公園に空高く折り鶴を掲げた少女の像は、奇しくも私が写真を目指すきっかけの一つにもなっています。高校の修学旅行で平和公園を訪れたとき、6x6カメラでこの像を写しました。それが新聞社の高校生写真コンクールで選ばれ、大きく紙面に掲載されました。コメントを求められて「平和」を願う気持ちを話しました。もう50年近く前の話です。


7日、暑い日ですが、雲が多く変化のある空です。入道雲が発達して和泉葛城山から生駒山方面ににわか雨を降らしているようです。「関西写真家たちの軌跡100年」写真展のホームページにJPS会員の出品者から許諾をいただいて作品を掲載するよう、朝から掲載ページの作成をして一日が暮れてしまいました。同展は作家が今までの活動の中から、これと思う作品を出していただいているだけに、写真展図録からスキャンニングした写真の色調などの調整を念入りにしたため時間がかかりました。夜にはアップしましたのでどうぞご覧ください。まだ数人の会員の分が残っていますので、近日に追加するつもりです。


8日、午後に奈良国立博物館講堂で「世阿弥忌セミナー」がありますので奈良に出かけました。早い目に着いて同館の「仏さまの彩り」展と「平城宮の木簡」展、「新たな国民のたから」展の特別展示を見てからセミナーの会場に入りました。テーマは「春日若宮おん祭と能楽」で、あの芸能づくしとも言える若宮おん祭に、能楽(猿楽)が余り登場しないのを不思議に思っていましたので、楽しみな勉強会です。セミナーで、おん祭にはもともと能楽は余りかかわっていなかったようでしたが、興福寺、薪能などの能楽との関わりから、おん祭に能楽が登場するようになったのではないか、という指摘がありました。歴史資料が少ないこともあり、まだこれからも歴史、芸能、能楽の各分野から研究の余地があるテーマで、さらに今後が楽しみです。能楽学会の主催なので、東西の著名研究者のお話があり良い催しでした。ただ、会場は冷房がきいていて私には寒く、上着を着た程度ではだめで、休憩の時に日なたぼっこ?をして暖まり、後半は身体のために止めようかとも思いましたが、興味のある内容でしたので我慢をして終わりまでいました。風邪がぶり返さなければ良いのですが。

燈花会  撮影:今駒清則

 その後の懇親会は例によって失礼して近くの東大寺へ、大仏殿も閉まって夕陽のさす静かな境内を散歩撮影。近年この時期の奈良公園一帯は「燈花会」というイベントが行われており、蝋燭の燈を19時ごろから点火して風情を楽しむものです。写真は東大寺南東の公園で若草山、春日山が一望に望めるところです。このあたりで何人かの写真家にも出会いましたが撮影時分のことですので挨拶程度にし、この後、猿沢池の燈にも行き、池畔に並べた燈と興福寺五重塔を入れたお決まりの写真も撮影して帰りました。


9日、「長崎原爆忌」。西に向かい黙祷。広島に続き長崎市長も平和宣言で政府に対し核政策への不信を訴えました。久間前防衛相の核認識が明らかになったことで、被爆地の皆さんの怒りは当然のことと思います。特に今日の平和宣言では非核三原則の法制化をはっきり求めたことが画期的で、これから政治家がこれをどう受けとめていくのか見極めたいと思います。

山王神社の大クスノキ(2001年撮影) 撮影:今駒清則 

 田上長崎新市長のメッセージにあった長崎・山王神社の大クスノキは爆心から800mの至近にあります。爆心に近かった北側の大クスは幹の上部が吹き飛びましたが、その陰にあったこの南側の大クスは枝葉の損傷だけで済みました。この二本の大クスは地元の人たちのやさしい手当てを受けて、御神木として、また長崎市指定の天然記念物として大切にされています。最近この大クスの手当てをした時に、爆風で飛んできた瓦礫がこの木の中から見つかりました。60年余も原爆の傷みを抱えていたのです。今ではこの大クスの若木が全国の学校などに配られて、子供たちに平和の大切さを伝えています。

長崎平和宣言


生駒山から昇る三日月  撮影:今駒清則

10日、午前2時、待ちかねていた生駒山に昇る三日月の撮影がやっとできました。山の端にかかるのは一瞬。やや霞んでいましたがそれでも感動的でした。終日デスクワーク。暑い日でした。


11日、午後から奈良の新公会堂能楽ホールの「燈火会能」撮影。ここはロビーから若草山を望む緑豊かな庭や、奈良ホテルのレストランもあり、現代の能楽堂では最も環境の良い能楽堂で、行くだけでも楽しい所です。能は櫻間金太郎(龍馬)の十三回忌、辰之の十年忌追善で、弟の櫻間金記の「卒塔婆小町」。金春流では重い曲です。名手が少ない金春流だからこそ私が期待していた辰之が急逝してがっかりしていたのですが、実弟の金記がこの舞台で兄にも勝る好演をし、私には久しぶりの金春能でしたが、その健在を実感しました。演能の後、新公会堂付近は蝋燭を点す「燈火会」の会場なのですが、これは先日に撮影したこともあり、また能の余韻を持ち続けたいのでそのまま帰りました。良い刻を過ごした一日でした。お世話を頂いたNPO法人・奈良能の石原昌和氏に感謝です。

撮影:今駒清則

 能楽堂で旧知の方から奈良大文字うちわを頂きました。東大寺長老の狭川宗玄師の書で、欲しかったものでしたからとても嬉しいのです。


12日、日曜日。ある写真家のネガやプリントなどの収蔵状況の調査に松本徳彦JPS専務理事に同行し岡山市へ。個人の整理、保存環境としては第一級の保存環境に驚きました。専用の収蔵庫でエアコンディショニングをされており、作家自身がテーマ別に構想してセレクトしたコンタクトファイル、分類された写真のファイリング。プリントも展覧会をされたそのままを収蔵してあり、即時写真展ができる状況に整理された収蔵庫など。作家の意識もさることながら、ご遺族の方が作家を尊敬し、その偉業を伝えようと整理保存されている姿勢に感動しました。写真家の没後、大量のネガなどが放棄されている現状を憂い、個人の記録も国の文化遺産として保存しておくべきであるという「日本写真保存センター」設立準備の調査です。それにしても我が写真の整理、保存状況とは雲泥の差、大いに参考になりました。


13日、久しぶりの大学通信教育のスクーリング授業。朝9時から午後4時まで講義で話しっぱなし。特に猛暑だった今日。学生たちの熱心さに自身もヒート。喉も痛みます。
 ここ数日がペルセウス流星群の活動が極大で、しかも新月で空が暗く流星が見やすくなります。一昨日から夜空を撮影していますが今夜が最も良い夜になるはずです。しかし薄雲が一面に広がっていて残念ながら星は一向に見えません。


14日、スクーリングの二日目。デジタル一眼レフカメラで撮影とパソコン処理実習。猛暑の中で熱心に撮影する学生の写真を途中で見てアドバイス。午後から撮影した写真をスクリーン投映してまたアドバイス。デジタル写真ならではの即時性です。なかなか良い発想の写真もあり、刺激を受けることもあります。

ペルセウス流星群  撮影:今駒清則

 夜中に雲が切れてきたのでペルセウス流星群を撮影にベランダへカメラをセット。雲が横切ったり、ややガスっていて大都市の空でもあり、今夜の流星は望み薄。写真は12日午前3時39分に撮影した東方の流星です。


15日、終戦の日。正午、西方に向かい黙祷。先の大戦による死者は世界で数千万人、日本では310万人と言われています。戦争をして、それで何を得られたのでしょうか。終戦の日はこれからも永久に「終・戦」であり続けたいと思います。現憲法は理想に過ぎる、と言う意見がありますが、その理想で60年余も続けて来ているのです。歴史的に見ても62年も平和が続けられたのはこの平和憲法があるからにほかなりません。第9条には数千万人の血が込められています。改憲してはなりません。

撮影:今駒清則

 日没頃になって西の空が何時になく一面に真赤に染まりました。眼前の空気までも赤い異様な程の赤い空でした。「ここは御国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下」「おりから起こる吶喊(とっかん)に 友はようよう顔上げて 御国のためだかまわずに 遅れてくれなと目に涙」「思いもよらず我一人 不思議に命永らえて 赤い夕陽の満州に 友の塚穴掘ろうとは」。日露戦争を歌った「戦友」(作詞・真下飛泉)の一節です。満州の戦いで戦友が倒れますが心残して進軍し、夜探しに来たがすでに虚しく、ポケットの時計だけがコチコチと動いている。友の最後を知らせる手紙を書いているけれど、読まれる親御さんの心情を察すると涙が溢れる。という軍歌ですが、通してみれば軍歌らしからぬ内容なのに、お国のために死ぬことが義務づけられ、美徳とされた一節があることと、当時の兵に余りにも親しまれたので歌い続けられてきたようです。私も子供の頃に聴いたのでしょう。歌詞をかなりを覚えています。実家の隣の一家が満州からの引揚者で、その方からも赤い夕陽のことを良くお聞きしました。満蒙開拓、ソ連軍侵攻などの記録証言集にも必ず満州の赤い夕陽は語られます。赤い夕陽は砂塵舞う中国東北部の実在であり、そこに流された血の色を伝えてもいるのです。80年代の内蒙古取材では毎年特急列車で3日間かけて当時の満州の地を北上しホロンバイルへ向かいました。その車窓からも満州の地平に沈む真赤な夕陽を幾度も見て当時の辛苦へ思いを寄せました。やはり今日が終戦の日だからこそあの赤い夕陽に空が染まったのでしょう。


撮影:今駒清則

16日、姪が結婚するのと、その姉に女の子が生まれたお祝いを送るために近くの郵便局に出かけました。なんと暑いことでしょう。肌が焼け焦げるようで、テレビが伝えるには史上稀に見る気温のようです。
 自宅の真向かいにはデパート並の大きなスーパーマーケットがあります。近隣の人はこの炎暑で日中はスーパーへ行って過ごしているとか。そういえば買い物だけでなく、何かと休憩ができる所もありますので半日ぐらいは何かと過ごせるそうです。なるほど。私は冷房が苦手で、今年もいまだに使っていません。もっぱら扇風機とこのあいだ頂いたうちわで過ごしています。ただし、あまりに暑かったので郵便局の帰りに一寸だけ立寄って涼んで帰りました。時計の温度計によると、午後4時半に室内の温度は33.2度と今までにない室温です。


撮影:今駒清則

17日、季節外れに咲いた。あるお祝いに頂いたもので、室内で大事に育てているのですが、今年はなんと半年ほど遅れて真夏に咲きました。根を張るのが忙しくて花は後回しになったのでしょう。子株も出てきて、3株だったのが今や6株に増えています。
 相変わらずの暑さが続いています。撮影しなければならない仕事があるのですが、まだ締め切りには余裕もあり、この灼熱の日中に出かけるのを敬遠しています。数年前、快晴の5月に阪神大震災の復興記録の撮影でビルの屋上から2時間程撮影していたら気分が悪くなり、すぐ冷房のきいた喫茶店で身体を冷やして水を飲み、なんとか熱中症を押さえたことがありましたので、それ以来気をつけています。
 今日は舞台写真のデータを現像したり整理したりで一日が暮れてしまいました。


18日、古いネガを保存性の良いプリザーバー(ネガファイル)に順次移しています。ついでに一部のネガをデータにしています。シャッターを押すようになって半世紀を超えました。最も古いネガから整理していますが、撮影した当時の状況をもうほとんど覚えていません。写真を始めた頃の中、高生時代に写した写真は自動車を撮ったものが最も多く約半分にもなります。自動車フリークでしたね。ネガからは自動車の走る道路がほとんど舗装されてなくてデコボコ道です。この自動車シリーズはいま見ると面白そうなので、そのうちにホームページで公開しようと思います。

ヂャイアント号AH-24LHS型 1957年撮影:今駒清則

 写真は丁度50年前の1957(昭和32)年、愛知機械工業株式会社(現在日産系)が製造した三輪自動車で、ヂャイアント号(ジャイアントでなく)のAH-24LHS型(丸ハンドル)の新車発表会。皆が下から見ているのは、この頃のオート三輪には珍しく水冷式エンジンを搭載していたので、それを見ようとしているのでしょう。後ろにはセールスカウンターがあり、看板には「試乗車も用意してあります」と書いてあります。この会社は後にコニーを発売して話題を呼びましました。AH型の写真は多分希少写真だろうと思います。


19日、日曜日。毎日猛暑ですね。室内は30度は超えていますが、汗は出ないので相変わらず窓を開けて風でしのいでいます。ベランダの草花は朝夕に散水しないと萎れる程で、近年には無いことです。

1957年撮影:今駒清則

 引き続いて、身の回りを写したものに思わぬ良い写真がみつかります。写真は同じく1957(昭和32)年に写したもので、田んぼに稲藁を積み上げた「ニオ」(と言っていたと思いますが)を跳び移って遊ぶ子供たち。写っているのは弟の友だちではないかと思います。私もそうやってよく遊びましたが、最近の子供たちはどうなのでしょうか。「ニオ」はこれで少し崩れるので農家には迷惑なことだったでしょうが、それでも怒られたことはありませんでした。冬の寒い時は学校から帰ってくると夕方まで「おしくらまんじゅう」などで動きまわって冷たさ、寒さを忘れていました。実家は旧市街の端っこにありましたので、少し歩けば田園地帯が広がっていました。今は住宅がびっしりと建ち並んでいて面影はまったくありません。


2007.8.19 撮影:今駒清則

19日、夜、雷雲が近づく。中部電力が提供している雷情報では播磨地方から南下中と分かったので、西の方向へカメラをセット。そのうちに遠くで落雷が始まりました。写真は神戸市付近から明石市付近の落雷です。遠いので中望遠レンズで撮影していると、突然に目の前で、見えている範囲一面に線香花火の火花が飛び散るような雷光。これほど綺麗な雷光は今までに経験したことがありません。花火大会の花火など問題にならないほど美しいものでした。カメラは中望遠なのでこの雷光は画面の上方にごく一部しか写っていませんでした。これは至極残念。早速超広角レンズに変えて2時間程待ちましたが再び光ってはくれませんでした。大阪湾の対岸にある遠い雷雲なのにこんなこともあるのですね。


20日、午後から「日本写真保存センター」設立準備の調査で、松本徳彦JPS専務理事と日大写真学科の高橋則英教授に同行して万博公園の国立民族学博物館へ。同館の資料保存は設立時から30年も経ち、いろいろ経験しておられるだけに貴重なお話を聞かせていただきました。ネガ、プリントの保存のみならず、フィルムなどからデジタル・データを作成し、デジタル・アーカイブとその後の閲覧のシステム化を継続してされています。これは私も個人的にしていますが、最近では多くの美術・博物館や研究機関が手がけ始めているプロジェクトでもあります。ただしフィルム保存はだまだ解決しなければならない難しい問題もあり、さらに研究が必要なことも実感しました。
 その収蔵品の中に、私の能楽写真の師匠、故杉本藤次郎先生のフイルムもあり、杉本文庫として非常に良い状態に保存されていたことに安心しました。杉本先生とは四半世紀も能楽撮影でご一緒にさせていただき、お導きいただいたご恩があります。また戦後すぐから能楽名人たちの数々の舞台が記録されている貴重なフィルムだからです。
 帰りに高島屋で開催されている赤江華城先生の書の個展にお伺いしました。赤江先生は昨年の第38回日展で文部科学大臣賞受賞という最高の栄誉を受けられておられます。入江泰吉先生を畏敬されておられて、そのご縁で私にもご案内を頂き、図録まで頂戴しました。私は書はできませんが見るのは大好きで、良いものは何と言ってよいのでしょうか、恍惚、としてきます。


21日、昨日に続いて松本徳彦理事と物故作家のネガ保存状況などの調査で京都と神戸へ。共通しているのはご家族が作家のネガを大切に保管されておられたこと。それが最も大切なことです。しかしそれでもどこかで個人的な保存には限界の時期がきます。そういったことに備えて「日本写真保存センター」の設立を早くさせたいものです。

1957年撮影:今駒清則

 前に続いて、1957年の写真です。私が15歳の時に撮影したもので、刈り取られてニオが並ぶ冬の田んぼで、私が作ったゴム動力の飛行機を飛ばそうと助走する弟です。これを写したカメラはコニレット2で、お小遣いを貯めて買ったものです。


2007.8.22 撮影:今駒清則

22日、北から冷たい空気が流れ込んできて少し涼しいのですが、大気は不安定になって生駒山には煙霧がかかり、雷さんがいつ来てもおかしくない様子です。日中は仕事場で閉じこもってデジタルワーク。夕食後に雷雲が近づいてきたのでカメラを用意。西方の遠くでしきりに落雷していて、撮影を始めるとすぐに強風と豪雨。あまりの降雨に雷さんも見えなくなってしまうし、レンズも1シャッターごとに拭き取らなくてはならないほどです。最近では珍しい落雷の連発ですが、近くも遠くも見えない状況では光った雨がボンヤリとした画面になるだけです。それでも21時半頃になると雨も止み、空中を縦横に走り回っている雷さんがよく見えました。神戸では落雷でポートライナーが停車、芦屋付近で強風のためJRが停車と大荒れでした。写真は神戸方面に落雷の写真ですが、一本の光でなくきれいに帯状になっている不思議な雷光です。先日の眼前一面に飛び散ったような雷光は、再現するのを待ちかまえていましたが光りませんでした。


23日、終日、古いフィルムのデジタル化作業に専念。


撮影:今駒清則

24日、快晴、昨日の雨で洗われて視界が良いのと、東の山並みの上に綺麗な積乱雲が見渡すかぎり並んでいます。ベランダからは手前の建物で一部が写りませんので、360度の視界で高さ94.6mの堺市役所の展望室まで出かけました。到着した時は北側の生駒山方面まで並んでいた積乱雲はすでに崩れていて残念でしたが、それでもその南側の二上山、葛城山、金剛山、和泉葛城山系と東から南にかけて雲が続く夏らしい風景です。眼下に大仙陵(伝仁徳陵)などの百舌鳥古墳群がよく見えます。朝9時から21時まで開いていて無料です。


撮影:今駒清則

25日、また暑さがぶり返してきました。朝からデスクワークを始めると、また異臭がします。臨海方面は工場が沢山あり、すぐ近くの煙突の煙が風向きによって時々臭います。ここへ移る時、各工場の公害対策を調べて大丈夫と思っていたのですが、実際はそうでもないのです。私は冷房が苦手なので、自宅では窓を開け風を通してこの猛暑を凌いでいますが、臭いのために窓を閉めるとなるとそれはもうたまりません。今まで我慢してましたが、もう仕方ないので工場へ電話、土曜日なので担当者は不在でしたが居合わせた方は、「煙突からは水蒸気なので臭いません。近くのドブの臭いではないでしょうか。後ほど担当からご返事します」という返事。これはそんなはずはなく、以前に火事と間違うほど煙を出した時に近くでかいだ臭いなのでその煙突からに間違いはないのです。仕方ないので市役所の環境局に電話で対策を聞こうとしたのですが、これも土曜日で埒があきません。
 空を写すためにいつもベランダから空を眺めているので、この近隣の様子は私以上にくわしい人は多分おられないと思うのですが、そう言えば以前に産廃処理業者の、これも火事と間違うほどの煙を出した時も撮影し、その写真を添付し、同時に異臭についても環境局にeメールでお知らせをしたのですが、eメールを受けとりました、すらの返事も無くまったく無視されているので、どうもこれはお題目とは違ってアテにならない行政のようなのです。それでも暫くして、「月曜日に調べに行ってきます。また担当者から連絡します」と言って、これも担当者の方ではないのですが市役所から電話がありました。はて今度は対応していただけるものなのか。数値的には基準値以下でした、臭いは気のせいではないですか、という結論が見えているような気がしますが、さて異臭はしなくなりますでしょうか。忙しい時に厄介なことです。


26日、日曜日。ある原稿の執筆と写真原稿作成に終日集中。夜に工場の煙りの写真をメールで工場にお送りする。


27日、市役所から「工場の調査に行ってきました」との連絡がありました。とりあえず様子を見てきていただいたようです。以前にお送りした産廃処理業者の黒煙写真は受け付けていて、資料ファイルにあるそうですが、その時返事をしなかったことはミスだった、とのことです。また工場からも連絡があり、「今後調査して検討をする」旨の返事がありました。異臭の改善がされるとありがたいのですが。

撮影:今駒清則

 夕焼けの後、赤く染まった雲間に発達した積乱雲が垣間見え、夜に遠くで雲が光るのですが雷光は見えませんでした。


28日、東京での能楽写真家協会の勉強会に出席。その前に榎並悦子写真展「おわら風の盆」を見に品川のキヤノンギャラリーSに立寄りました。写真展の「おわら風の盆」は9月初めに富山市八尾(やつお)の町中で踊られることでよく知られていています。長年通われて撮影された写真からはしっとりした情緒がうかがえて、その風情にひかれて作者のみならず私も行ってみたくなりました。有名な阿波踊り、河内の盆踊り(河内音頭)など、最近はテンポが早くなって風情が乏しくなっていますが、八尾はかたくなに古調が守られているようです。同時に開催されていた蔵重信隆・本村忠之「鉄道2人展」もその緻密で根気強い取材から楽しい鉄道写真展でした。鉄道写真を撮られる方々は当然ながら鉄道を愛し、専門知識も豊富でマニアックな方が多いのですが、これはどのような分野であっても見習うべきことだと思います。

左が品川インターシティ、中央がセントラルガーデン、

右が品川グランドコモンズ   撮影:今駒清則

 写真展会場のキヤノンギャラリーSは品川駅の東側(港南口)に再開発された品川グランドコモンズにあり、セントラルガーデンをはさんで品川インターシティもあり、大企業のビルが軒(は無いのですが)を並べて新しいビジネスタウンになっています。この長大なセントラルガーデンはここが以前に貨物駅のターミナルであったことを物語っています。そしてそれ以前の明治までは海でした。

 この品川駅や品川周辺は歴史的に興味深い地域です。東海道品川宿は現在の品川駅の南方になります。旧東海道は京浜急行にほぼ沿った東側の道筋ですが、有名な廣重の東海道品川宿の風景からもわかるように昔は海が迫っている街道でした。品川は江戸からの最初の宿場であったことと、途中の高輪付近が寺の多い景勝地で、往来や遊山に来る江戸の人々で賑わいました。

東京品川海辺蒸気車鉄道之真景(三代廣重) 海辺から海中を通る蒸気機関車を見物しています

 明治になってここに鉄道を通すことになりましたが、鉄道用地を確保することが難しかったので旧東海道(現・第1京浜=国道15号)に沿った東側の海岸に鉄道を敷設しました。特に田町付近は兵部省の横槍があり海中に築堤して鉄道を敷かざるを得ませんでした。これは芝4丁目交差点の付近から田町駅を経て高輪2丁目の大木戸跡(史跡)までの当時の海岸になります。この様子は国立公文書館所蔵の「鉄道線路図」1872(明治5)年、「明治東京全図」1876(明治9)年でわかります。

国立公文書館所蔵 明治東京全図部分 1876年
Google Map 現在の品川駅付近、駅の右が港南

 大木戸跡から品川駅までは海岸沿いに、品川駅南の八ツ山(ゴジラが上陸した所!とか)付近からは海沿いに通る旧東海道を横切って内陸部に敷設しています。ですから品川駅は海岸にできた駅で、後に鉄道省が海を埋め立てて鉄道用地を広げ、それが最近の再開発で今の品川グランドコモンズなどになるのです。

 今夜は皆既月蝕なのですが、上京し東京都心の会場なので撮影するのは望み薄。それでも念のためにコンパクト400mmレンズと卓上三脚を東京まで持参しました。冷房には弱いのに早朝の新幹線から始まって終日冷房のきいた所にいたので体調不良、夕刻早い目に新大阪止の「のぞみ」へ乗車。車窓から皆既月蝕が少しでも見えるかと期待していましたが、疲れてすっかり寝込んでしまい、大阪に着いて雲間に見えた満月は月蝕が終わっていました。ただ各地ともにお天気が悪くて月蝕はあまり見られなかったようです。


29日、今日も雲が多いのですが時折大きな入道雲が現われて夏の暑さはまだ続いています。終日原稿に集中。時折、問題の異臭煙りの様子を観察。夜、撮影した写真を画像解析すると煙りが付近のマンションなどに漂っているのがわかりました。煙突が周囲の建物よりも低いためであろうと思います。工場が出来たときは周囲よりも煙突は高かったのでしょうが、現在では低いために煙突の役目を果たしていないのです。根本的には排出物の抑制ですが、それと共に煙突の高さを倍増させる必要があると思えます。


30日、大阪地裁で公判中の大阪経法大学懲戒解雇事件の傍聴支援に出かけました。大学経営者は職員が大学院に在藉して勉強していると「兼職」で就業規則違反になり、職務専念に反している、と常識外れの主張を堂々としています。最近の大学は入学者を増やすために社会人が大学や大学院に入学し易いように工夫しているのですが、この大学は相反する考えで深刻な労働問題を生み出しました。最近の大学では多くの労働問題が起きています。このような背景はどこにあるのでしょうか。それは大学経営者の質の低下と、経営監査制度が名目だけになっているからです。一般企業であれば消費者や株主による経営監視があるのですが、私立大学ではまったくと言ってよいほどそういった機能が働いていなくて、経営者の独善がまかり通っているところにあります。これには制度の見直しが必要です。ただそういった大学は今後の大学生き残り競争には残れるとは思えません。

撮影:今駒清則

 地裁の帰りに付近の撮影散歩を少ししてきました。古い家屋が解体されて一軒分が駐車場になる風景は大阪だけなく、あちこちにありますが、深刻なのは古都京都で、美しい町家の並びに所々歯が抜けたような景観になっているのは、私としては大変に気になるところです。
 水晶橋を渡り中之島公会堂へさしかかった時、公会堂のレストランで名物のオムライスを急に食べたくなり、久しぶりに入ってみました。公会堂の大改修で閉店するというレストランの最後のオムライスを食べましたが、改修後に入るのは初めてです。入替りに入居開店した新レストランには当初メニューにオムライスは無かったのですが、昔からのお客さんの要望が多かったので追加した、というエピソードがあります。お腹がいっぱいになったら写真を撮る気がなくなってしまい、そのまま帰宅しました。やはりハングリーの方が仕事ができるようです。


31日、入道雲が湧出る快晴。暑さが戻ってきました。終日デジタルワーク。


7月 07年8月 9月