このサイトにあるすべての写真と文には著作権や肖像権があります。無断転載をお断りします。 写真家 今駒清則のお知らせページ HOME
10月1日、朝から昨日に続いて地図のなぞなぞ解きをし、昼から中之島の国立国際美術館で開催される「現代美術の皮膚」の開会式と内覧会に出かけました。興味深いタイトルなので期待していましたが、残念ながら私には×でした。現代美術の「皮膚」とは思想から社会的事象までを包容するもの、包むもの、と勝手に思い込んでいたのですが、展示されていたのは人間一体の皮がぶらさがっていたり、指が砕けていたり(もちろん本物ではありませんが)、切開手術の写真があったりで、「皮膚」は「皮膚そのもの」の表現作品が多く、私はこういうものを生理的に受け付けないので遠目に眺めて早々に出ました。こういうB級の世界があることは知っていますが、場所柄これを企画することもないのでは、と思います。コレクション展では初見の作品がかなり多く展示してあり、これは見ごたえがありました。写真のコレクションもかなり増えて、写真に携わる者としては嬉しいのですが、これをコレクションにするの?と思う作品もあり、キューレターの目も様々だなあと思った次第。ティのレセプションでトレーに盛ったクッキーがテーブルに置かれた途端、紙ナプキンへトレーの半分づつを一気に取り込み空にして立ち去ったお二人のご婦人が。こういう場でも大阪のオバチャンは健在でした。
1961(昭和36)年の第二室戸台風の翌日に浸水した中之島・土佐堀付近を撮影していましたので、今はどのようになっているかと思い、美術館を出てからしばらく歩き、幾つかの場所を定点観測で撮影してきました。この橋は土佐堀川に架かる越中橋(地図)ですが、現在の橋は1964(昭和39)年にかさ上げして歩行者専用橋に作り替えられていました。高潮対策でここまで高くなっています。背景の倉庫群はリーガロイヤルホテルなどに替わり、当時の建物は何一つありません。別の写真でも同じだったのは唯一堂島大橋だけでした。大都市の46年での変化というのはすごいものだと実感した日でした。夕方、5日に開催する日本写真芸術学会・関西シンポジウム講師の小林正典氏と打合せをして帰宅。夏の猛暑で冬眠(?)していたのですが、この気候になればフィールドワークが最適。計画は沢山あります。 2日、シンポジウムの準備でやはり終日デジタルワークで過ぎました。ここ数日生駒山から月が昇るのですが、用事があったり、雲が厚かったりしてなかなか見る機会がありません。 5日の日本写真芸術学会の関西シンポジウムのご案内をします。どなたでも当日聴講を受けますのでどうぞお越しください。写真の本質をドキュメンタリーから考えるシンポジウムで、人間を見つめ続けている世界的な写真家と、硬派写真グラフ誌の編集長によるトークです。
3日、終日厚い雲が覆う日、デジタルワークと地図探訪。夕刻から会議で市内へ。夜半に雲で諦めていた生駒山からの月の出がかろうじて見えました。赤銅色の半月です。明日の夜が生駒山の送信鉄塔群の背後から月が昇る計算で、晴れてくれると良いのですが。 4日、朝から小雨。野町和嘉氏と大学でシンポジウムの打合せとその他の準備。月の出は小雨模様で残念ながら撮影できませんでした。待っていたのに最も良い日が雨でしたが、写真の撮影とはこんなもので、次の機会まで待つことです。
5日、今日が日本写真芸術学会の関西シンポジウム。会場の大阪芸術大学に講師の先生方をお迎えする。早くから学会会員、学生など京都、大阪から会場にお越しになりました。「本物の写真」と佐伯剛氏が言う、野町和嘉氏、小林正典氏の国際的に取材されたヒューマンな写真だけでも説得力のあるものでしたが、現場で人間を見つめ続けてきた写真家から、佐伯氏の巧みな引き出しによって、写真とはなにか、ということに「後世でも通じる写真」という明解な価値判断が示されました。最近の日記風なコンポラ写真は「相手」を意識しない「自分だけ」の写真に社会的価値があるのかどうか、という点は、(私も常に抱いている不満ですが)最近の写真界の風潮(流行)に釘を刺す説得力のあるものでした。大変良いシンポジウムとなり、運営をしてきた甲斐がありました。
夜半、また生駒山から昇る月を待ちました。昨夜は雨で待っていた鉄塔越しの月は撮れませんでしたが、今夜は雲が多少あるのですがそれでも予定時間には赤い角が闇に沈んだ山の端から突き出てきました。音もなく(当然ですが)スーっと出てくるとドキっとします。三日月が山の端にかかっているのは約90秒間だけです。意外に動きは速いのです。なお月の入りでもこれと同じような写真になります(月は逆さまになりますが)。説明がなければ出か入りかはわかりません。月の入りや日の入りは出とはまったく違う感慨です。名残を惜しみつつ没し、その後に味わう余韻は入りの持ち味でしょう。それに比べると出の方は今か、今かと待っていて、突然に現われる月にはダイナミックな感動があります。古来から日の出を尊んできたのはそのせいでしょう。
6日、朝から快晴。雲もほとんどなく空の撮影はヒマです。そこでいつもの所に現われる独り雲でも、とカメラをセットして待ちました。今回は連続写真によるムービーで独り雲の消長をご覧下さい。写真は(映像は、と言ったほうが良いのかも)5秒間隔に撮影した12分間を4秒間のムービーにしています。右下の矢印ボタンでコマ送りができますので、お好きなシーンで停めてご覧下さい。 今日もデジタルワーク。日の暮れが早くなってきました。 7日、日曜日。大人気の大蔵流狂言、茂山狂言会を京都で撮影。茂山千作の米寿、七五三(しめ)の還暦を記念した二重祝賀の催しで、見ものは千作の稀曲「庵梅」(いおりのうめ)、梅の盛りに女たちが老尼のもとを訪れて和歌を詠み梅に掛けて酒宴、老尼も花のもとで舞うという雅な曲。普通は面をかけるのですが直面(ひためん)で演じました。特に違和感もなく、かえってあの表情が見られて楽しい舞台でした。 明日から飛騨高山に出かけるので、その間にできないことを先にしておかないといけないので直帰。徹夜になりそうです。いつも遠方に出かける前は徹夜になり、車中睡眠となります。 8日、休日。JRの事故で乗るつもりの電車が遅れ、電話予約していた高山までの直通高速バスの発車時刻に間に合いそうもないので、新幹線で名古屋まで、そこからJR特急ひだで高山まで行くことに急遽変更。車中でぐっすり睡眠、と目論んでいたのがフイになりました。
小雨のJR高山本線では霧が立昇る山並みと、飛騨川の飛水峡(地図)、中山七里(地図)の渓谷美を車中から楽しんだのでウトウトすることも無く、バスの予定より1時間ほど早く高山着(地図)。友人の古滝雅之さんの出迎えをいただきご自宅で休憩、高山祭の下見に市内を散策一周、夜、映像作家である彼の作品を鑑賞。明日からの祭と高山の文化についての事前レクチュアに感謝。
9日、昔からの念願がかなった高山の八幡祭、やはりとても素晴らしい祭りでしたのでざっとお伝えします。朝から櫻山八幡宮前の表参道(地図)への「屋台の曳き揃え」は時に小雨の降る天候に見合わせ、境内の布袋台「からくり」も同じく中止、しかしお昼頃から急速に天候が回復して急遽「からくり」も演じられ、屋台も出揃い、「御神幸」の行列も始まって一気に祭りモード満開。「からくり」は境内一面に人、人で埋められていましたが、友人のアドバイスで脚立を置いて先に場所取りしておいたので悠々と撮影。「からくり」は操る人が屋台に姿をまったく見せないで演じる見事なものです。
表参道には各町内から曳き出された絢爛豪華な屋台が並び、強い日差しに煌めいていました。飛騨の匠がその技と創意を競った屋台です。思いがけず外国人の旅行者が多く、このゆったりとして雅な祭りにすっぽりと包まれて日本の粋を味わっているようでした。
宵祭は夕刻から提灯に灯を入れ、家々の門先に祭り提灯が並ぶ町内を巡ります。かっては祭りの最後にされていたのですが、今は中心の行事となっても、ゆっくりとした囃子と、ノンビリとした巡行に、ゆれる提灯の灯で屋台の金物や飾り具が光り輝き、露地の闇から向こうの通りを行く屋台の灯が一層美しく情感のある光景でした。
10日、朝早くからお神輿を中心に御神幸の行列が町々を巡ります。本来のお神輿(鳳輦)は日本一といわれる大きなもので重さが2tもあるそうですから今は舁くこともできず、八幡宮の屋台会館に展示されています。お神輿の前後は神職、屋台の代りになる曳車と一文字笠に裃姿の警固の者、杖を持つのは刀の代わりでしょうか。行列の先頭付近は獅子舞や闘鶏楽などの芸能で賑やかに御神幸の到来を知らせます。
夕刻、御神幸が八幡宮に帰る頃、表参道に曳き揃えられていた屋台もそれぞれの町に帰ります。御神幸のお神輿は八幡宮で鉦や太鼓の乱打の中で還宮となり、神庭では闘鶏楽と獅子舞が延々と舞い続けられて祭りの終わりを惜しみます。 (リンク 櫻山八幡宮) 11日、朝からお寺が建ち並ぶ東山(地図)に向かいます。以前に訪れた時に十分に見ることができなかったので改めてゆっくりと見たいと思っての事です。友人宅から城山の方に向かって歩き。高山の町を改めて見ると、伝統的住宅から新工法の住宅へ多くが建替わっていますが、それでもそこここに飛騨の粋を込めた住宅を見つけることができます。工務店にも伝統的住宅を得意とする会社もあるようで、飛騨びとのこころがここにもうかがえます。
大雄寺(だいおうじ)境内の片隅にめざす十王堂はありました。建替えられたと見えて十王石像の背後にあった地獄極楽絵は無く、ただ石像群だけになっていて以前に感じた荘厳さがなくなっているのは残念です。十王像は延享4(1747)年(徳川吉宗の長子家重が9代将軍に就任直後)の刻字。他に奪衣婆(だつえば)や地蔵菩薩などもおられます。ここに掲げられている「十王堂由来」の説明から一部をお借りすると「人の命が終わると極善の者は速やかに天堂(極楽)に往生し、極悪のものは直ちに地獄に堕ちるという。はっきりせぬ中善中悪の者は次の世の生縁が熟するまで待たねばならぬ。この間を中有(中陰)といって七日目ごとに遺族縁者が供養会を設けて誦経念佛し亡者のために追善回向すれば、その冥福の勝縁をうけて善処に転じ極楽に生まれることができる。」とあります。つまり七日目(初七日)、泰広王の初回の裁判で善人は極楽へ、悪人は地獄行きが決まり、フツーの人は七日ごとに裁判が繰り返されて大体7回目までには行き先が決まります。有名な閻魔王は5回目の三十五日に担当。7回目は泰山王が受け持ち、それで忌明けとなるのですが、それでも決まらない者がいた時はさらに3回(百ヶ日、一周忌、三回忌)あり、都合最大10回の裁判を十王たちから受けて行き先が決定するのだそうです。でもどこかに堕ちていたとしても供養をすれば救済されるので滞りなく供養の法事をしなさい。というのをジオラマにしたもので、元は通りの多い寺の門前にあって分かりやすい説教をしていたことでしょう。この行き先とは地獄道・餓鬼道・畜生道、修羅道・人道・天道の六道(六地蔵はまたそれぞれから救う菩薩)で、どこかへ振り分けられ、生まれ変わる転生のことです。子供の頃からよく聞かされていたことですが、この頃の若い親は知らないようですので、ご自分のためにも子供によく教えておきましょう。能楽ではよくとりあげられ、悪道、修羅道に堕ちたシテが現われてその苦悩を見せると、ワキの僧が供養して救済するというパターンになっています。 午後、友人に送っていただいてJR高山駅から特急ひだで帰阪。途中向日町付近に事故があったようで、途中停車を繰り返して1時間遅れで大阪着。でも心地よい飛騨の旅でした。
12日、飛騨の余韻がまだ続いています。高山で真っ先に感じたのは程良い湿気でした。都会の乾いてざらざらとした空気ではなくて、しっとりと包み込んでくる心地よい空気です。山に囲まれて草木も多く、街中を川が流れています。身ぎれいにした町に程良いノイズがあります。暮らしと自然の心地良い調和がここにはあるんだ、と改めて思いました。高山で心地良いのは自然だけではありません。いろいろなものに造形力が高いのです。有名な伝統的建造物群は当然ですが、街中のそこここに見る造形物、あわせて高山全体に造形力があります。京都もそうだったのですが、現在では都市の雑多なものに埋没してしまい、その面影はあまり見られなくなりました。高山の文化は京都と江戸の文化が融合した、と言われているようですがそれはどこでも同じで、高山が今も優れた文化と造形力を持ち続けているのはやはり飛騨の匠たちが磨き上げてきた伝統と美意識が生活の中に根づき続いているからでしょう。 13日、再び飛騨高山関連。と言っても11日の高山からの帰りの話です。特急ひだ34号に乗りました。4時間ほどの乗車です。ほとんどが自動車で動いている私としては、いわゆる在来線に長く乗るのは久しぶりです。京阪神のJR、私鉄以外は新幹線だけですので鉄道については音痴なのですが、この特急は「ワイドビユーひだ」という人気がある特急で、西村京太郎が「特急ひだ3号殺人事件」という小説を書いたそうです。行きはその3号に乗って行きました。この特急は気動車でどれ位の出力のエンジンなのかと見たら350PSを2機搭載しているだけなのです。この頃はこの辺りの出力を持つ国産乗用車も現われてきましたから、これで特急列車4両を走らせているとは驚きでした。それに先頭車両は前方の展望がとても良く、運転席との仕切りも全面ガラスで、横の窓も大きく車内から外の景色はとても良く見えます。ただし、これだけ窓が大きければ車体強度は弱いわけで、とりわけ最前車両となれば、福知山線の脱線衝突事故を思い出すと怖い思いをする特急です。 それはともかく、その車両の3列目が私の席。折角だから多少は前方の景色でも眺めよう、と思いますが、1、2列目はグループ旅行の8人のご婦人たちが折角の最前列のシートを後ろ向きにし、向い合せにして談笑しているので近寄りがたく、シートから立てば運転席も前方も良く見えるのですが、立ってばかりもおれません。列車が中山七里にさしかかってもご婦人達のおしゃべりは止まらぬどころか、ますます賑やかになって騒がしいことこの上もありません。亭主が、息子が、嫁が、誰それが、と真っ向一刀両断、撫斬りが続きます。そのうち運転士と車掌は若くてハンサムね、とか話が飛び散って飛騨の旅の話などはどこかに行ってしまっています。なぜかご婦人は3人連れが多いのですが、その3倍近いグループですから、話は3倍どころか3乗にもなります。岐阜近くまで辛抱しましたが、たまりかねて車掌に事情を話して離れた後方の席へ替えてもらいました。そのうち車掌はご婦人グループへ行き何やら話をしていましたがパタッとおしゃべりが止まりました。車掌もみかねたのでしょう。静かになったのでちょっとウトウトしていたのですが、騒がしいおしゃべりで目が覚めました。若くてハンサム、の効能も小1時間ほどであえなく粉砕。1時間遅れで着いた終点大阪までおしゃべりは続いたのです。やはり大阪のオバチャンは最強でした。
14日、日曜日。朝から厚い雲が広がっています。特に予定が無いので高山の撮影のデータなどデジタルワーク。夕刻大阪空港行きの航空機がしきりに通ります。日曜日のせいでしょうか。長時間露光で生駒山の西を通る航跡を撮ってみました。
15日、終日デジタルワーク。夕刻の夕焼けはきれいでした。雲が火炎のように燃え上がるか、という凄まじい夕焼けで、太陽が淡路島妙見山に沈んだあと、太陽柱のような光が現われました。雲の水蒸気に屈折。反射しておきるもので、冷たい大気が来たようです。
16日、かなり涼しくなって本格的な秋模様です。空もさまざまな雲が現われて空の撮影も楽しくなり、鳥たちもあまり見かけなかったのが時々近くまで飛んでくるようになりました。季節は確実に移り変わっています。終日デジタルワーク。夕刻に火事が。手前のマンションの蔭になって火元は見えませんが、古い木造2階建てのアパートが全焼しました。けが人などはなく一時は空高くまで火の粉が上りました(小さな写真では火の粉は分かりにくいのですが)。寒さに向かって火の用心です。
17日、古絵図を見てから気になっていた遠里小野(おりおの 大阪市住吉区 地図 衛星写真地図)の歴史散歩に行ってきました。上の絵図は「住吉神社境内領地絵図」のうち、住吉大社の東に書かれている江戸時代(年代不明、大和川開削以後)の遠里小野村です。ご覧のように環濠集落になっています。環濠集落では稗田(奈良県大和郡山市)、今井(奈良県橿原市)、平野(大阪市東住吉区)、堺(大阪府)など環濠が残っていて有名ですが、この辺りの摂津、河内の村でも環濠をもつ集落があまり知られていませんが沢山ありました。外敵から村を守るのと用水確保が目的でしたが、明治までには大体埋め立てられて道路や農地となり、今では環濠があったことを知らない人もいます。なぜ環濠が一斉に姿を消したのかは分かりませんが、何らかの社会改革があったのでしょう。 この優雅な名前の遠里小野の村は南北280m、東西320m程で、村の中央を熊野街道が通り古くからの集落であることがわかります。まだここについて勉強をしていないので詳細は分かりませんが、平安期、鎌倉期と思われる文化財や、江戸初期の墓碑などが多くあることから付近の農村より繁栄した村であったことは確かです。また村の南には最近発掘された遠里小野遺跡(発掘資料PDF)があります。 この絵図をきっかけに、安永7(1778)年の「遠里小野村大絵図(写)」(これらの絵図はいずれも堺市立図書館・デジタル郷土資料を参照)と、明治18(1885)年の測量地図と、現代地図を重ねると環濠のあった場所がはっきりと特定できました。そこでとりあえず現地の下見に出かけた訳です。遠里小野村は宝永元(1704)年の大和川の開削で村の南部が分断され、農業水路の流れも変わったはずですが、それでも安永7(1778)年「遠里小野村大絵図(写)」には水濠が存在しています。しかし明治18(1885)年の測量地図では無くなっていますので、この間に水濠は埋め立てられたものでしょう。これだけの水濠を埋め立てるには大量の土が必要ですが、近くの天井川である大和川を浚渫すれば一挙両得になりますからそこから運んだものと思われます。埋め立てが150年ほど前のことと推定して、今では大都市の中に組み込まれているこの村が大きく変貌して環濠の跡は失われているものと思いきや、町内は建物の建替えや道路幅が多少広がった程度で江戸時代から何ら変わっていませんでした。水濠は町を取巻くような道になっていて、そこここに名残の石垣や段差があり、十分に往古を偲ぶことができます。写真でその一部をご紹介します。この下調べで他にもなかなか興味深い歴史も見つかり、今後時間があればさらにこの遠里小野を調べて見たいと思っています。ただこれらは映像化することは難しいようで、これも私の知的遊戯に終わりそうな気配でもあります。
18日、子供たちへの事件が多発しています。痛ましいことです。しかも加古川の小2女子の事件は防犯のモデル地区で起きたのだそうです。親殺し子殺し、取り締まる立場の警官犯罪、社会保険庁の無軌道さと無責任さ、公金横領でも犯罪とは思わない首長、脱法して天下りする官僚、エスケープする首相、ヤクザ口調の反則ボクサーにTVメディアが肩入れ、沖縄戦集団自決記述の教科書検定に文科省役人の関与と大臣のごまかし発言。すっかり鏨(たが)が外れた日本になってきました。昨夕大阪私立学校教職員組合の大会があり、大阪の大学などで労働事件が多発している報告がありました。大阪芸術大学、大阪経済法科大学、大阪工大摂南大学、甲南大学、関西外国語大学、初芝学園などで、何れも裁判、労働委員会などでその不法を糾すというものです。いずれも経営者の社会的倫理感の欠如から生じています。大学が生き残り競争にさらされている今、最高学府という大学の本質を忘れてなりふり構わない経営施策や不当労働行為を行っている大学には未来はないと思います。
夜半、雲間に隠れる月が妙に美しく見えました。禅の教えに「月は仏の教え」というのがあるそうです。月を指さした指だけを見ても何も無い(指は経典、経典だけを読誦していても何も分からない)、その先にある月に求めるものがある、という意味だそうです。
19日、この新川(新大和川・現在の大和川)が開削された当時、橋が架けられたのは大和橋(地図)だけでした。大和橋は大坂高麗橋から住吉大社を通り和歌山へ海岸沿いに通る紀州街道に架けられた公儀橋です。紀州徳川家や岸和田などの大名の参勤交代が通る道であり、住吉大社の頓宮が堺にあるように堺と住吉大社が密接な関係にありましたので新川の完成と同時に唯一橋が架けられたのです。そこで少し調べて見ましたが他の道、例えば高野街道でもやはり渡し舟を使っていました。高野街道は京都から生駒山麓、石川沿いに南下する東高野街道、湊がある堺から高野山へ向かう西高野街道が主な高野街道で、その中間にある中高野街道やこの話題の下高野街道は村から村を結んでいる道がいずれはどちらかの高野街道へ合流する、といった程度の街道なので、第一級の紀州街道とは比べものにはならない街道には橋が架けられることはなかったのです。 新川計画中の1676(延宝4)年に、柏原村・船橋村から安立村までの村々が奉行に差出した陳情書には、治水や農業水利の悪化を縷々説明している外に「新川御堀被為成候へハ、柏原村から手水橋迄之内、往還六筋其外ニも在々道筋数多御座候、然ハ往来之諸人難義可仕候御事」(新川を掘ると柏原村から紀州街道・手水橋までの六つの主要道路の外にも多くの道で通行に不便をきたします)というのもあります。新川開通後は危惧した通り、道も分断されて「難義」をしたのです。 その後明治になって新川に橋が架けられれるようになり、1887(明治20)年の測量地図で確認できるのは、川下から大和川大橋、大和橋、高野大橋、明治橋、新大和橋だけで下高野橋はありません。(川を付け替えた柏原村付近を通る東高野街道の新大和橋(地図)は1874(明治7)年に初めて木橋が架けられました。)1908(明治41)年測量の地図にはこの下高野橋が記載されていますのでこの間に架けられたものでしょう。およそ200年近く渡し舟で往来していたことになります。 実は28日に現地に行った時、橋が架けられたと思っていたので、この下高野街道が突き当たる大和川堤防の上から橋の跡を探しました。橋杭などが少しはあるかと思っていたのですが、まったくその痕跡がなかったので変だなとは思っていました。そこで流れ橋ではないかとも考えたわけです。しかし実際は渡し舟で川を渡っていたのですから渡し場の痕跡では見つけることは難しいでしょう。ではこの渡しを何と呼んでいたのでしょうか。下高野街道にあるのですから「下高野の渡し」でしょうか。さらに調べて見ます。 なお下の写真の手前は左岸の河川敷ですが、この河川敷は開削以前の農地がそのままに堤防の内側にあります。発掘するとすぐ下には古代・中世の遺跡(例:松原市・大和川今池遺跡の屋敷地跡)が出てきます。新川の開削方法がこれで分かると思います。それとここは昭和末まで廃車の山と豚舎が不法占拠していましたが撤去されて現在は奇麗になっています。
20日、仕事の調査と準備に集中。この「近況」の更新まで気が回らないでいます。しばらく写真中心にします。
21日、日曜日。「堺まつり」の日。パレードなどあるようですが、いつも舞台撮影と重なって行ったことがありません。比較的新しいお祭りらしいのですが、100年もすれば「伝統的な」お祭りというようになるのでしょう。「豊春会」能楽撮影で京都に出かけました。
22日、終日デジタルワークと調べごとで過ぎました。時々うろこ雲が流れてきます。
23日、これ、ソテツの実です。びっくりする位大きいのです。実をくるむ宝珠は60cm位もあります。実は4cm程で薬になるそうですが、そのまま食べると天国に行くこともあるとか。
24日、資料調べとデジタルワークで暮れました。夕方夕焼け雲に月が輝いていました。
25日、購入した古地図をスキャナでデジタル化。パソコンで地図を見る方が拡大・縮小できて解析に便利です。レイヤーで色付け、書き込み、現代地図と合成など紙よりも応用が利きます。 駐車場の白線引きです。見事な技で、つい見とれてしまいます。
26日、時々強いにわか雨。南方の和泉葛城山の雨脚。夜には晴れて見事な満月が輝きました。 写真家の太田宏昭さんのホームページがオープンされたとご案内をいただきました。どうぞご覧下さい。
27日、朝から台風20号の影響で雨。午後南海高野線浅香山駅付近の線路に小型ヘリが墜落。6、7機の取材ヘリがトンボの群れのように夕刻まで飛び回っていました。最も低空飛行したのがこれ。大和川上空を利用して1回だけゆっくり飛びました。低空飛行をあまり続けるとすぐに苦情の電話が航空会社に入るのです。背景が642mの生駒山やマンションと比較すると最低安全高度ギリギリ?の飛行。低空飛行は国土交通大臣の許可がない場合、遵守すべき最低安全高度は人または家屋の密集している地域の上空では、航空機を中心として水平距離600mの範囲内の最も高い障害物の上端から300m。ここの場合15階建マンションが約45mとして345m以上で飛ばなければならないのです。ただし広い水面の上空では地表面または水上の人または物件から150m以上となっていますが、現場直近の大和川は川幅が280mしかなく、周囲は人家が密集していますから多分これには該当しません。私もかってヘリ撮影でギリギリの高度までよく降りてもらったことがありますので取材カメラマンの気持ちは良くわかります。
28日、日曜日。朝から青空。少し暖かいのは台風の影響か。金剛定期能の撮影に京都へ。能「雨月」、舞台に軒の破れた作り物が出されて能が始まります。西行法師が住之江に来て民家に宿泊を請いますが、老夫婦は軒の壊れた貧しい家なので断ります。この軒は姥が秋の月を愛でるのに良いからといって直させません。翁は軒に降る雨音を楽しむのに修理したいといいます。風雅な夫婦の争いです。翁は下の句「賎が軒端を葺きぞわずらう」に対して、上の句を付ければ宿を貸そうと言います。西行は「月は濡れ雨はたまれと、とにかくに」と付け、夫婦は感心して宿を貸します。実はその翁は住吉の神であった、というのが後半の物語と舞いで、秋の名曲です。 (作り物:能では舞台へ簡素な細工の象徴的な舞台装置や小道具を出すことがあります。「雨月」では板屋根の家が出されます) 29日、朝から鼻と喉の様子が悪いので風邪をひいたようです。昨日の疲れは風邪だったのかもしれません。午後からだるくなったので休息。時々歴史資料の読書。19時40分頃に生駒山から月が昇るのでカメラを用意しましたが、雲があって月の出は見えませんでした。その後早めに就寝。 30日、まだ喉と鼻は少し変ですが、だるさは無くなったのでデスクワーク。午後に梅田の堀内カラーへ。今日は紀伊国屋書店で少しだけ本を探して早めに帰りました。夕刻から降雨。月の出は望めません。明日は最も良い場所から月が昇るので期待しましょう。 ガソリン代がまたまた値上げのようですね。この写真は私の車、ハイブリッドカー・プリウスのディスプレーです。燃料消費がバーグラフで表示されます。この右の数字は5分間でレギュラーガソリン1リットルで走った距離Kmを表しています。さらにそれの過去30分間が表示されます。下の左側は燃料を入れてからの積算平均値、右は積算走行距離です。この状態では609Kmを走行した平均燃費が1リットルあたり24.5Kmというのを表示しています。バーグラフではほぼ30Km/Lを指していますが、この時は阪神高速道路を渋滞無く制限速度で走行した時のものです。現在通算で16.000Km程走行していますが、その平均燃費は22Km/L位です。40Km制限の市街地と高速道路では燃費が悪くなり20Km/L前後、60Km制限の幹線道路が燃費が良く25Km/L前後です。大体普通の乗用車の半分ぐらいの燃費で、満タン44リットルでほぼ1,000Km前後が走行できます。ガソリン代が近々1リットル150円になる、と報道されましたが、今までの車の2倍ほど走れますので75円位で買えるとも考えることができます。プリウスのグレードはGツーリングで、純正で車高を少し低く、硬くしていますのでプリウスの中では燃費が悪い方だと思います。走行距離が多ければ多い程経済的になる車です。 30日、私のプリウス評価。現段階では時流の先端を行くテクノロジーで、ガソリンエンジンの自動車とはかなり違っていてなかなか面白いのです。エコランをするのはガソリンエンジンでもその車の特性を理解して操縦すれば1割、2割位なら燃費を良くすることができますが、プリウスではそれをコンピュータ制御して自動的にエンジンストップするなどし、それに蓄電エネルギーを付加することで誰でもで簡単にエコランできるところが優れています。走行能力は見かけによらず意外に良くて、バッテリーが充電されていればかなりの走りができます。1,500ccのガソリンエンジンプラス軽自動車のエンジン位のモーター出力がありますし、モーターのトルクが強力ですから、これはまったく新しい感触です。ただ今まで背の低い車に乗り続けてきましたので、プリウスの背高にはいまだになじめません。特にドライビングポジションのセッテイングが変で、少し寝て座ると足許が詰まりますし、シートを後ろに下げればハンドルが遠くなります。結局真っ直ぐに正しく座って運転するしかありません。これには疲れます。外国でも多く販売している車ですですが、足の長い外国人はどうしているのでしょうか。国内外で違えているようにも思えないのですが。
31日、気持ち良く晴れた日です。久しぶりに偏光フィルターを持ちだしてデジタルカメラでいろいろとテストをしました。このところ新しいテーマの下調べに歴史資料や古地図とにらめっこが続いていて、その気分転換にこの古くて新しい道具を改めて試しています。デジタルカメラでは偏光効果が即時に比較確認できることと、偏光フィルターをつけると出る色の偏りが、デジタルカメラのオートホワイトバランスで自動的に調整してくれて、かなりすっきりとした写真になります。何となくフィルムより偏光効果が強く利くように思えるのですが、まだいろいろとテストをしてみます。 |
9月 | 07年10月 | 11月 |