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近況 2007年11月


11月1日、昨夜は比較的晴れていましたので生駒山山上から昇る月を待ち受けました。山上の送信鉄塔群の背後に月が現われるのを期待しましたが、わずかに位置が違っていました。今日は曇り一時雨の日でしたので今夜は多分難しいでしょうが、撮影できたとしてももう鉄塔群のかなり右(南)に昇りますので、また次回、ジャストに鉄塔と重なる12月25日に期待しましょう。
 同じ山でも山の東に住む人と西に住む人では一つの山に対して抱く感情は随分と違うと思います。この生駒山でも奈良からは日月の没する山、大阪では日月の出ずる山ですし、大和飛鳥から西方になる二上山
衛星写真地図は大津皇子が山上に葬られたとして、その悲劇を山と山に沈む日月に感慨深く思う人々が古来から多いのですが、二上山の東になる大阪側ではハイキングの山、程度の認識しかありません。数十キロ離れているだけですが、山一つで地域性も変わり、そこではぐくんできた文化も同じにはならないのです。

 今日は年賀状の発売日、たまたま用事があって郵便局に行きましたので購入しました。例年も早く買うのですが投函するのはいつもお正月になってからです。今年はなんとかして早くお送りしたいものだ、と思ってはいるのですが。


2日、終日デジタルワーク。夕日が沈んでからの夕焼けが色鮮やかでした。そのなかで一片の雲が赤く染まって漂っているのに心魅かれました。


3日、文化の日。このごろ晴れた日が続きますが、夜明けの雲がさまざまに変化をするので、それだけで1GB位撮影してしまいます。しかし8時頃には表情の乏しい空になってしまいそこで店じまいです。

 相変わらずのデジタルワークと資料調べ。次から次へと疑問が湧いてその謎解きに暮れてしまいます。目的の写真のテーマからどんどん逸れてしまい、それでも面白くてなかなか本流に戻れません。


堺の台場 1

4日、デスクワークが続いたので運動がてら、これも気になっていた所へ写真散歩に出かけました。堺市の阪神高速道路湾岸線・大浜料金所へ入る直前に左側には低い石垣が続いているのが見えます。右側は堺旧港と木造燈台があります。この石垣は大浜公園の外郭になるのですが、それが幕末の黒船対策に造られた台場の跡であることは知っているのですが、それがどこまでのものなのかを確かめるためです。

麓から見た蘇鉄山の登山道。もう山頂が見えています

 まずは大浜公園に入って公園事務所の横から蘇鉄山に登ってみます。蘇鉄山は1879(明治12)年に台場が払い下げられた後、公園として整備する時に人工的に築かれました。これは台場に築かれていた土塁を取り除いて西側に平地を広げるために、平削した土塁の土を積み上げたのがこの蘇鉄山になったのではないかと私は考えています。その後、近くにあった御陰山を平削した際に、そこにあった一等三角点をこの蘇鉄山に移しました。一等三角点をもつ山では日本一低い山で、高さはなんと6.9mの低山?ですから麓から山頂までは1分で登れます。国土地理院発行の2万5千分の1地形図・堺〔北東〕にはしっかり記載されています。しかもこの山を登る「蘇鉄山山岳登山会」なるものもあります。

山頂にある一等三角点の標石

 この蘇鉄山の山頂の一等三角点です。なお近くの大阪市にある天保山も二等三角点をもつ築山で高さは4.5m、国土地理院発行の2万5千分の1地形図・大阪西南部〔北西〕に記載されている立派な山で日本一低い山です。

南台場の石垣と土塁(南外面)

 さて本題の台場ですが、黒船に備えて幕府は大砲を備えた台場を各地に造らせました。堺では1854(安政元)年に堺湊(現在の旧堺港)の南側に築造、翌年に水路を挟んだ北側にも北台場を築きました。南台場は1864(元治元)年に改築し、周囲の一部に水濠を掘り、石垣で固めた土塁を回らせた中には海に向けた大砲と火薬庫、番所などがありました。参照古図絵は堺市立図書館・デジタル郷土資料展をご覧下さい。その「8.堺新御台場図(写)安政2年(1855)は北台場(図絵では北が左になっています)。「9.堺浦海岸砲台築造図絵(写)元治元年(1864)は南台場(北(子)が右になっていますのでご注意下さい)です。この9の図絵が現在の大浜公園衛星写真地図の東半分に相当します。

 上の写真の「南台場の石垣と土塁」の位置は、大浜公園の南東端付近にあり、北台場は衛星写真地図に「大浜北公園」と書かれた付近の緑地になります。この南台場の土塁の南には水濠があり、現在もその名残があります。堺市がその水濠を庭園風にして花などを植えていますが、水利が良くないのか水が死んでいて、植物も生気が無く、手入れも悪いのでかえって見苦しい景観になっています。ここはその役目がわかるように単に掘であったほうが良く、無駄な経費を使っているように思えます。土塁は少し高さがありますが、大方は崩れて低く、内側は明治末からの繁盛期に公会堂などの建物が建てられたため土が採られて平地になっています。(続く)


堺の台場 2

1988(明治20)年の測量地形図

5日、この台場は幕末の造成から25年ほどで役目を終え、1879(明治12)年に南台場の跡地は公園となりました。海岸縁の高い土塁の上に立つと、「住吉・堺名所豪商案内記」より「堺茅渟浦景況」1883(明治16)年や、「堺名所案内」より「大浜之図」1894(明治27)年にあるように大阪湾が一望に望め、眼下には堺港と木造燈台、海岸沿いには料亭などが建ち並ぶのが見えていました。1988(明治20)年の測量地形図には南北台場の土塁や水濠、また海岸縁にある料亭などが見えます。(これと現在の国土地理院地形図と比較してご覧下さい。)

 1903(明治36)年に第5回内国勧業博覧会が開かれると南台場は堺水族館となり大人気となって人々が押し寄せました。そこで1912(明治45)年阪堺電気軌道が南台場西側の大浜海岸まで路線を延長。翌年大浜潮湯開業。1922(大正11)年に大浜海岸から徳島(小松島市横須海岸)まで日本初の民間定期航空便を開設するなど、大浜公園は現在のディズニーランドのような盛況を極めましたが戦災で壊滅、戦後の臨海工業地帯造成の埋め立てで海岸を失うと1963(昭和38)年前後に海水浴場と水族館も閉鎖され、現在では常設の相撲場とテニスコート、市立体育館などがある広くて静かな公園になっています。

 このように明治から戦前にかけて南台場の跡地利用の賑わいから南台場の土塁は南東部と南西部を失っていますが、それ以外は幸いにもなんとか存在しています。これだけの跡地利用があったにもかかわらず残ったのは奇跡に近いでしょう。そしてこの繁栄当時の土塁はいろいろな資料に姿を残しています。例えば「堺水族館案内」(市役所パンフレット)1937(昭和12)年頃には東、北、西の土塁が遊歩道となって鮮明に描かれています。この様子は現在の状況とあまり変わっていません。また大濱汐湯・堺水族館(南海電車パンフレット)1937(昭和12)年には、右()に南台場跡の水族館や公会堂、中央には乗り入れた阪堺電気軌道大浜支線の浜寺海岸駅や料亭、木造燈台などが、左(西)の埋め立て地に大浜潮湯や歌舞場、遊園地などが、さらにその左には大浜海岸、左上角には定期航路の水上飛行機が描かれていて、全体はちょうど現在の大浜公園全体に相当します。(続く)

(上記リンク先は主に堺市立図書館・デジタル郷土資料展です)


堺の台場 3

大浜公園・南台場跡

6日、写真は旧堺港の南にある現在の大浜公園です。南台場の全景でもあります。手前が旧堺港の南護岸で雁木状のモダンな「親水性」(役所はこう言います)護岸になって防潮堤は以前より高くなっていますが、江戸から明治にかけて造られた護岸の石積みはもう南側のどこにも見られなくなっています。右端が旧港の出入り口で明治の木造燈台が高速道路の下にあります。

 南台場の土塁は樹木が茂って公園の周りを取巻いています。左端は先に書いた南の土塁と堀になります。この南台場の様子はまた後日に続きを書きますが、北台場を調べているうちに詳細は不明ですが大変なことがわかりました。この旧堺港の北半分も防災のため防潮堤を高くし、南側のようにする工事の大阪府調査が始まった、ということです。2008(平成20)年完成、との事ですから工事図面はできているのだろうと思います。というのは北台場のある北波止町は護岸の石積みが幕末から明治のままに現在もあるからです。また北波止町そのものも北と西側は埋立地ができて工場が並んでいますが、波止の付近や地形などはほぼ幕末のままにあります。そこにあった北台場跡や高燈籠跡は阪神高速道路・湾岸線を造った時に跡形もなく平地にして人気もない公園になりました。次の工事で来年には旧堺港の水辺の歴史的な景観はまったく失われてしまうでしょう。堺市はこの台場について、歴史的には存在を認めていますが(当然ですが)、現地には台場の表示や説明等はほとんどなく、その存在を周知するような姿勢はありません。これは旧堺港についても同様です。歴史的景観としてはさほど重要なものであるとは考えていないようです。(続く)


堺の台場 4

北波止の渡し場

7日、旧堺港の北波止町へ行ってみました。以前にも訪れたことがあるのですが、今回は歴史的な護岸と北台場を中心に見てきました。堺の港は大和川開削以後大和川の流出する土砂で埋まり、港の浚渫と改良工事の連続だった苦労の歴史堺市立図書館資料参照)があります。その歴史の集積がいまあるのですが、これが来年には失われてしまいそうで、今のうちに写真と脳裏に留めておき、そのうちwebで公開しようと思っています。写真は旧堺港の水路を挟んだ対岸の大浜公園へ渡す渡し場の石段衛星写真地図で2ヶ所あります。戦前まで使われていました。石段は当然対岸の大浜公園側にもあったのですが、新しく造られた親水性護岸に覆われて失われてしまいました。この石積みは幕末から明治にかけての名残を残し、石積みは角が丸みをおびて造成されていますが、これが新しくなると角張ってきます。これらが失われるのは残念で、防災と歴史的景観とを両立させる良案でなんとか残して欲しいものです。(続く)


淨得寺の焼け焦げた柱

8日、堺市ではいま文化財の特別公開が行われています。普段は公開していない文化財が気軽に拝見できるので幾つかの寺院を廻ってみました。堺の環濠内東部は寺院が建ち並んでいます。特に北部は堺大空襲で焼けなかったので寺院や民家にも往時の堺を偲ぶものがあります。写真の淨得寺(地図)はかって海船御堂と呼ばれて堺の七道浜にあったのが、1598(慶長3)年に現在地に移転した時の本堂のようで街中の小さなお寺です。公開しているのは石山合戦の陣中に安置されていた「親鸞上人御影」や、三日月に乗る「法然上人御影」などで、歴史都市堺の奥深さを見ました。その本堂は堺大空襲の時、かろうじて焼け残りましたが、その空襲の被害が柱に刻まれています。ついでにその他のお寺も多少廻ってみましたが、かなりの数のお寺なのでまたこれから少しづつ訪ねて見ようと思います。公開の各寺院では観光ボランティアの方々が親切な案内をされていてこれはとても良い企画です。


山口家外観
山口家土間の大梁と小屋組

9日、時間を作って昨日に続き、堺の文化財をまわってきました。山口家住宅は最も古い町家の一つで、江戸初期の住宅です。今まで一般への内部公開はされていませんでしたが、最近堺市に移管され、今後耐震、修復工事の後、一般公開される予定とのこと。大坂夏の陣で堺が丸焼けになった直後に建てられ、以後増改築をして、第二次世界大戦の大空襲にも遭わないで残ってきた民家です。庄屋も務めたという町屋は式台、座敷、茶室、庭、土蔵を持つ居宅でした。

南宗寺庭園
実相庵茶室

 次は堺環濠の南端にある有名な南宗寺へ。方丈、実相庵茶室以外は普段いつでも拝観できるのですが、今回公開した方丈から枯山水庭園が眺められたのは初めてです。実相庵内部は残念ながら公開していませんでした。残念。

 特別公開は11日までですので、11日にも行くつもりです。


涌泉能

10日、京都の涌泉能に出かけました。大江能楽堂で、ここは数少なくなった桟敷席の能楽堂で座布団を敷いて座ります。涌泉能は京阪神で唯一の喜多流・高林家の公演です。涌泉能では三代にわたる能が同時に舞われます。これはちょっと珍しいしおめでたいことです。その様子を今後も少しづつここ掲載したいと思います。まずは初回、演者の紹介を。涌泉能と曲目の説明は涌泉能ホームページでご覧下さい。

仕舞「岩船」 高林昌司

 高林昌司 1995年生まれ(生まれてすぐに阪神大震災)。高林呻二嗣子。3歳で初舞台。最近ではしっかり腰が入った大きな舞いを見せます。


「班女」 高林呻二

 高林呻二 1963年生まれ、高林白牛口二嗣子。1999年「道成寺」披き。喜多流中堅で東西で活躍。本年能楽会会員。


「錦木」 高林白牛口二

 高林白牛口二(こうじ)、1935年生まれ、硬骨の能楽師・高林吟二嗣子。喜多流・京都堀池家の芸風を涌泉能で見せる。主宰涌泉能は孫も舞う三代能となっています。


水野鍛練所鍛練工房の古式鍛練
海会寺の土塀

11日、日曜日。今日が最終日なので朝一番から堺の文化財特別公開に行ってきました。普段非公開の所が気軽に見られるので楽しみです。堺の寺院や町並みに興味深いことが多いのでいろいろと調べていましたから良い機会でした。まずは鉄砲鍛冶屋敷、線香の薫主堂水野鍛練所鍛練工房、ついでに近くの河口慧海誕生地付近の町並み、紀州街道、菅原神社開口神社の薬師社(本地仏を祀っているので社になっています)、そこからまた南下して南環濠地図にある大安寺、最後に海会寺とそれで時間切れとなりました。沢山の見学者で時には順番待ちで並ぶことも。堺に大空襲が無かったならば、奈良、京都に並ぶ中・近世の文化財や伝統的文化の宝庫であっただろうと思います。戦争は人命のみならず歴史をも破壊しています。


12日、冷たい気流が流れ込んで天候が不安定です。秋が深まってきましたが、紅葉の様子は例年より遅れてあまり良い状況ではない、と写真家の友人からメール。連日の出歩きでデスクワークが山積みです。夜、流れるような雲が妖しい景色を見せていました。


13日、地図のデーター化と読み取りで暮れてしまいました。1887(明治20)年の測量地形図と、現在の地形図をデータ化して重ねて見ると120年間の変化がいろいろな物語を語ってくれます。明治20年は例えば幕末の安政元年から33年間しか経っていません。明治始めに西洋文明を学んで日本の文明開化が始まりましたが、それは東京を始め大都市では政治や科学機械工業などが短期間に大きな変革をしましたが、日本の大勢を占める農山村や都市近郊はそれほどでもなく、江戸期に描かれた絵図と、正確に測量された明治20年の地形図を比較すると、あまり変化をした形跡はありません。ということは江戸期には正確な測量地形図が無かったので、この明治20年の地形図がほぼ江戸末期を表した測量地形図と言っても過言ではないのです。

 例えば、よく旧街道の紹介で町並みの写真が紹介されていますが、時々間違った道やすっかり改修されてしまった道で撮影されているものがあります。改修された道筋であっても「旧街道」と行政が表示しているせいもあります。旧街道は江戸期の古地図を見ても詳細な道筋はたどれません。村と村を結んだおおよその線で表されているだけですから、それを参考に現在の地図に落とし込んでも正確な旧街道はたどれないのです。古地図とこの明治の地形図と現在の地形図をオーバーラップすることで正確に旧街道が浮かび上がってきます。道は地形の高低や水路などに沿ってうねってはいますが、大体は村と村を結ぶ最短距離で自然にできたものです。それが明治の地形図にはよく出ています。明治以後は少しづつ道は改修されて、自動車が走るようになると道幅が広げられて道筋の家は軒切りを余儀なくされ改造されます。道筋は多少の高低は無視してうねりは無くなり直線化されていきます。新道ができるとその影響で旧道が消滅したり付け替えられて大きく変わります。また旧道は無くなっても集落の中だけは一部に旧道が残っている例は各地によく見られます。そういった変化が地形図から読み取れるのです。それを見てそれが変化した原因は何であろうかと疑問を持ち、解明していくことは推理小説よりも面白いのです。

 わずかな夕焼けの反対側には薄雲に隠れそうな三日月がボヤっと滲んで輝いていました。


14日能楽写真家協会の能楽写真展が11月23日(祝日)から豊田市能楽堂で開催されます。能楽堂では能楽堂まつりが開催され同時開催です。その後、早稲田大学演劇博物館で12月3日から開催します。私の作品は1970年に大阪万博の鉄鋼館ホールで開催され、今や伝説にもなっている観世寿夫の「善知鳥」の舞台写真と、1996年に前宗家の金剛巌が京都・金剛定期能で舞った最後の舞台「羽衣」の写真を出品しています。豊田市の方は私の出身地でもあり、写真展会場に会期の3日間いるつもりです。お近くの方はぜひお越しください。


15日、豊田市の能楽写真展のためのいろいろな準備と、市史などの歴史資料調べ、書類作りで日は暮れてしまいました。空もあまり変化がないのでさっぱり撮影はできません。かろうじて夕方に独り雲と琥珀色の太陽を撮影できただけです。

 現在16日の午前4時半、寝るに寝られない状況です。酷使しているApple iBook内蔵のハードディスクの音が最近大きいな、と思っていたら起動しなくなりました。外付けハードディスクをつけて起動し、DiskWarriorでテストをするのですが、途中で止まってしまいます。繰り返してもだめなのでかなり重症です。ハードディスクの音がもう少し大きくなってきていますので、どうもハード的なエラーのようで、手持ちのソフトでは無理な気がします。しかしマウントはしませんがディスクは認識しますので一縷の望みはあります。バックアップを調べて見ると6月にとっていますのでデータの大体は大丈夫なのですが、それから今までの間のデータが無くなるのが残念です。今ならハードディスクを外して修理屋さんでデータの読み出しをして貰えるだろうと思いますが、多分10万円程かかりそうです。それだけを払うだけのデータでもなし、ここは根性でなんとかしてみよう、というわけでここ数日、DiskWarriorで数回試みますがやっぱり途中でダウンしてしまします。先日出かけたときに替えのハードディスクは買ってありますし、最新OSのLeopardも買ってあるので、あきらめてぼちぼち入れ替えの作業しようかな、と思い、壊れてモトモトの最終手段でチャレンジ。まずはDiskWarriorがダウンするまでにIBookの向きをいろいろな向きに置いて試します。横にしたり、縦にしたり、斜めにしたり、です。ハードディスクのハードエラーのようですので、ハードディスクの姿勢でアクセスができる偶然を狙ってのことです。iBookを後ろに倒して、つまりディスプレーがテーブルに寝て、ハードディスクの入っているキーボード部分が垂直になっているポジションにしてトライしてみると、なんとDiskWarriorは最後まで作動しディレクトリーを読みだしました。普通ならそれからハードディスクのディレクトリーを書き換える修復作業になるのですが、さすがにそこまではできません。DiskWarriorではプレビューモードで読みだしたデータを外のハードディスクにコピーできる機能がありますので、これでデータは読みださせます。すべてが完全なデータではないでしょうが、必要なものは多分大丈夫?でしょう。ヤレヤレです。根性ですね。というわけで30GBほどあるデーターを現在吸いだしているのですが、元が壊れかかっていますので、時々エラーデータのところで引っ掛かっているようで読み出しに時間がかかっています。仕事をさせておいて寝てしまっても良いかもしれませんが、たまにピィーーーとか変な音がしますので、もしかして火でも吹いたら、と心配でもあります。という訳で寝られないのです。まあ最終の手段はしないでもなんとかなりました。最終手段とはなにかと言いますと、ダメモトでハードディスクを叩いてやるのです。誰でも不具合の物を叩いたら直ったなんてことはありますよね。私は大昔にハードディスクを叩いて直した経験があるんです。それで一時的に動いている時にバックアップをしました。しかしまた動かなくなります。それでも大切なデータが残せたのですから大成功です。

 と、書いている時(午前5時半)に外で消防車のサイレンが鳴り続き、ホンの近くのようです。外に出てみると向いのマンションに消防車が8台ほど来ています。消防士が火元をしきりに探していますがわからないようで、消火活動はしていません。誤報でしょうか。

 相変わらずiBookからなんとかデータを読みだしています。まだ2時間以上かかることでしょう。明日は(今日は)ハードディスクの入れ替えです。iBookのハードディスク入れ替えはiBookの分解が非常に難しいそうで、ヨドバシに依頼してもやらないそうです。まあこれもボチボチやってみればなんとかなるでしょう。外すハードディスクは時間をかけて完全消去して廃棄するのですが、今回は多分アクセスをもう受け付けないでしょうし、外したら水に浸けて錆びさせ物理的に動かないようにして廃棄します。携帯電話もしかりです。

 7時半、ついにハードディスクがピー・キュルキュル・キュルという音を出して停止してしまいました。でもそれまでに大事なデータは取り出せています。ハードディスクの回転が遅くてもムラでもデータはある程度読めるのですね。発見でした。やれやれ。これから少し休んで仕事に出かけます。


16日、遅かった紅葉が身近になりました。一寸忙しいので写真だけ。


17日、昨夜の食事の何かがおかしかったのか神経性なのか、お腹の様子が悪く終日読書と休息。しなければならないことが多いのですが。


18日、日曜日。木枯らし一番が吹きました。めっきり冷え込んで風が強いのですが、冷たさがなんとなく爽快です。空も遠くまで澄んでいます。夜、これが大阪の空?というほど星が見えました。写真は南の空、オリオン座付近を1分間写したものです。星は流れている方がきれいですね。


19日、急に冷え込んできたせいか、何となく体調がすぐれません。半日ほど休息しました。今日は昨日ほど澄み渡っているのではないのですが、それでも遠方はよく見えます。そこで朝早く生駒山衛星写真地図にさす光線の具合を見て撮影し、その山容がわかるように撮影データを画像処理してみました(モノクロの方がよくわかります)。いつもは山のスカイラインしかわかりませんが、こうしてみると生駒山の山容も厳しいもので印象もかなり変わって見えます。


20日、朝は晴れていましたがだんだんと雲が厚くなって午後には一時小雨が降りました。黒雲が時々来るのですが、雲間から降る光がいろいろと変化して面白く撮影を続けました。黒雲、白雲といっても雲に色が付いているはずがなく、雲はなんら変わらない水蒸気の白さなのですが、太陽の光を遮る雲の厚みで名前が付けられてしまうわけです。水をたっぷり含んだ黒い雲がやってくると空にドラマが始まります。


21日、朝から快晴。例によって外出のための数日分を段取りするのに日が暮れてしまいました。


停滞している車中から見た伊賀の山並み

22日、朝から能楽写真展の会場となる豊田市へ向かいました。大阪から西名阪高速道路、名阪道路(25号線)で進むと、この先柘植付近で10Kmの渋滞との情報、しかし柘植の手前から完全な停滞、車はほとんど動きません。何十年もこの道を通っているのですが初めてのことです。豊田市には12時半位に到着予定のつもりをしていましたが、これではまったく見通しがつきません。午後から写真展の展示準備ですので、さて、と考え、並行する旧25号線で行っても当然渋滞しているだろうから、柘植で名阪道路を降りて北上、国道1号線へ出て関市へ迂回することにしました地図。柘植から昔撮影に来たことのある油日神社を通って1号線に出て、鈴鹿峠のトンネルを越え順調に関市に向かったのですが、沓掛でまたも渋滞、どうも関市近くまで停まっているようで、こちらもギブアップ。やむなく1号線から時々外れて旧東海道をジグザ抜け、関市街を迂回してなんとか東名阪高速道路の関から入り伊勢湾岸高速道路で豊田市へ、予定より約2時間遅れで豊田市能楽堂へ到着しました。会場では豊田市能楽堂の方と、能楽写真家協会の杉浦賢次会員で作業が進んでいましたが何とか間に合いました。途中通った旧東海道の沓掛はいかにも山間の宿場町といった佇まいで、紅葉も見頃で走り抜けるのが惜しかったのですが今回は止むを得ません。また今度はゆっくり行ってみたいものです。展示作業終了後、旧友の写真仲間、都築昇さんと会食、8×10inchの大判フイルムで撮影している作品を拝見。学生時代から撮影をしておられて地元で確実に仕事を進めておられる姿勢に感服。10月に訪ねた高山の映像作家・古滝雅之さんともども教えられることが多いことでした。


23日、勤労感謝の日-24日豊田市能楽堂能楽写真家協会写真展が始まりました。10時から杉浦賢次会員と会場で受付応対。「能楽堂まつり」もあって多くの方に見ていただきました。子供連れのファミリーが多く、能楽写真の能面に見とれている子供が多いのに気がついたことでした。会場は私の出身地での写真展とあって、旧友が続々と駆けつけてくれました。もう大変に嬉しく感謝しています。中でもそれこそ半世紀ぶりに会う級友たちが一目でわからず申し訳ないことでもありました。しかし少し話していると昔の面影があって長い空白の時間が感じられないのは不思議なものです。

楽器の体験をする子供たち

 豊田市能楽堂の「能楽堂まつり」は大変良い企画をしていました。数多い企画があり、能面・能装束などの展示、市民演能のほか、能楽を体験できる催しが人気でした。予約もなくその場で能舞台に立って「羽衣」や「棒縛」の一部を教えてもらうとか、能囃子の体験、紙能面作りなどができるので子供たちが熱心に取り組んでいて、一度身体で経験したことは何時かその思い出が能楽への関心へとつながることだろうと思います。


鞍が池の小さな柿

25日、展覧会場に詰めていてあまり写真を撮影していないので朝早く豊田市街の東にある鞍が池公園地図に行ってみました。この付近の紅葉の名所は香嵐渓ですが、道路が集中渋滞して展覧会までに帰れそうにないので近くにしたのです。紅葉の名所ではないのですがそれでも秋の風情はあちこちに見られます。朝なので池や林から靄が立昇って穏やかな水面に映えていました。

 そのまま豊田市能楽堂へ。今日も旧友や知人が途切れなく訪れてくれます。この3日間、立ち詰めなのですが不思議に疲れを感じません。楽しい3日間でした。能楽写真展はこの後、東京の早稲田大学・演劇博物館で12月3日から開催予定です。

 連休最後の夜ですから道路は混みあっています。交通情報を聞いて渋滞を避けるよう食事などして遅めに豊田市を出発。往路と同じく伊勢湾岸、東名阪、名阪、西名阪で帰阪。すべてを制限速度の上限でオートクルーズドライブ。時々上り坂の重量物を積んだトラックを追い越す以外は前車を追い越すこともなく、渋滞もなくノンビリと夜中に帰ってきました。


26日、留守中にできた用事を片づけて今日は休息日、ちょっと疲れがでてきたようです。夕、朧月を見とれていました。


27日、ここに時々登場する落羽松(ラクウショウ)が最も美しい時で、実がこぼれて落ち始めました。沖縄付近にまだ台風があり、黒潮の流れが変わっていて今年の気象はいろいろと変ですが、秋は確実に深まってきました。


28日、終日一面に厚い雲の日でした。仕事が忙しくなかなかこのホームページのギャラリーを充実させることができません。いろいろ準備中ですので気長にお待ち下さい。


落羽松の果球

29日、27日の写真の落羽松(ラクウショウ)はメタセコイアではないか、というメールをいただき確認に出かけました。メタセコイアの側枝の葉は規則正しく対生し、落羽松は互生する。また実(球果)がメタセコイアは小さく、落羽松は大きい、ということだそうで、観察の結果やはり落羽松と思われます。改めて勉強する機会をいただきありがとうございました。少し離れて見ればカラマツかメタセコイアか落羽松か区別はしにくいですがなかなかきれいな樹木です。今日はもう側枝が落ち初めて樹下が黄色くなっていました。


30日、夜明けに妖しい雲。でも久しぶりに晴れてきて暖かい日でした。近くの古書を扱う書店で3,500円均一古書セールがあり、早速のぞいてみました。いつもは100円均一とか200円均一とかですが、今回は3,500円だけに大冊が多く、いろいろと欲しい本があって、結局万円の買い物。一度に持てず2回に分けて持ち帰りました。お値打ち本から相当本、中には高めの本も取り混ぜてあるところが商売です。ネット古書店は内容がわからないかわりにすぐに探せ、価格の比較などをして購入は慎重なのですが、書店では内容を見てしまうので即決してしまいます。もう地誌、美術本、能楽本の古本屋を開店してもおかしくない蔵書で、もうこれ以上増やさない、とはいつも思うのですが。


10月 07年11月 12月