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近況 2008年4月


富士山

雪煙をあげる富士山山頂 山中湖付近から 2008.4.1  撮影:今駒清則

4月1日、所用はすませたので昨日と同じコースで8時に出発して帰路につきます。低気圧のために電線がうなり声をあげる程の強風。高速道路ではハンドルをとられて常に修正舵が必要。しかし昨日と違って雲一つ無い快晴。首都高速からお富士さんが良く見えます。中央高速・大月から東富士五湖道路へ。真っ青な空に真っ白な富士。時々車を停めて撮影。強風で富士山頂の雪が吹き飛ばされるのがよく見えます。東名高速の由比PAで車を停めて風に波立つ海とお富士さんを撮影。廣重の「東海道五拾三次之内・由比・ さった嶺」のさった峠はすぐ近くにあるので浮世絵と同じ風景です(参考までに:静岡市提供富士山ライブカメラ)。休憩後はバックミラーの中でお富士さんが見送ってくれました。帰阪は17時。往復約1,200Kmの急ぎ旅でした。


お風呂屋さん

お風呂屋さんのサクラ 2008.4.2  撮影:今駒清則

2日、プリウスの定期点検にデーラーへ。預けてでき上がるまでその付近を散歩撮影。庭から大きなサクラの枝が伸びているお風呂屋さん、燃料高騰のためしばらく休んでいたようですが、近日から時間は短縮するものの営業開始するとの貼り紙がありました。燃料高騰、一転して道路特定財源の暫定税率期限切れで安価に、と無策政治のなさけない政府に振り回される庶民の一端があらわれていました。そういえば先日出かける時のガソリン代が1Lで150円だったのが、帰りには120円になっていました。これも暫定税率を放置していた無策のつけですが、撤廃を何時か一度はしなければならない事ですからこれで筋を通すべきでしょう。


花曇り

大阪上空のツエッペリンNT号 2008.4.3  撮影:今駒清則

3日、サクラは満開です。ですが花曇りでサクラの撮影にはあまり良くないので控えていましたが、近景だけでもと歴史的な探訪を兼ねて午後から出かけました。幾つかの収穫はあったのですが、帰る頃になって霞んでいるものの青空になりました。明日は良いのかもしれません。例の飛行船・ツエッペリンNT号が遊覧飛行に大阪都心部を周回していました。


大和の農村歩き 1

ツクシ 2008.4.4  撮影:今駒清則

4日、朝から快晴、ここ数年はかかると思える新しいテーマのロケハンで奈良・大和路の農村へ出かけました。一日被写体を探してのんびりとあぜ道を歩き続け、疲れて時々草の上に腰を下ろすと一斉に咲き始めた野草が目の前に広がります。歩いている目の高さでは気がつかなかった草花も沢山あることに改めてびっくりします。やはり大和は自然が豊かです。


大阪城

大阪城 水面下石垣の刻印 玉造口付近 2008.4.5  撮影:今駒清則

5日、桜花の映える青空の朝です。私のテリトリーの大阪城へサクラの撮影に出かけました。よく使っていただく「天守閣とサクラ」の写真を追加するためです。いつものコースで城内をくまなく一周して日が暮れました。今日は土曜日とあって花見の家族連れや観光客で人が溢れています。サクラは満開ですが写真にはホンの少し早かったようで枝先がまだ咲いていません。それにいつも撮影するサクラの木の周りは花見の人で絵になりません。またなぜか枝が折れたのが多くなってかたちの悪い木が増えました。これはまた数日後にも出かけることにしましょう。また外堀の水位がうんと下っていていつもは水面下にある石垣が白く輝いていました。大阪城の石垣はかなり煤けているのですが、ここは本来の石の色がよくわかります。それに普段では隠れていて見えない石垣の刻印(築造時の分担を示す)も見えていましたので早速超望遠レンズで記録です。

大阪城西の丸 場所取り 2008.4.5  撮影:今駒清則

 大阪城の花見は昔と比べるとかなり変わってきました。出店の屋台は変わりませんが、大道芸が城内のあちことでやっていてそれぞれかなりの人だかりができています。土曜日のせいもあるのでしょうが会社単位の花見会が減っているようです。それでも少しは夜桜の場所取りに当番にあたった社員がシートの上でごろ寝しているのは相変わらずです。それに若い人たちの花見グループがとても多くなりました。また花見客に混じって中国系観光客がとても多くなり、中国語が城内のあちこちで飛び交っています。オオサカでの外国人観光客の一番の立ち寄り先は大阪城、二番目は日本橋の電器街、それにUSJだそうです。


大和の農村歩き 2

豪華な並木の高田川千本桜 2008.4.6  撮影:今駒清則

6日、日曜日。また大和の農村歩きに出かけました。花を求めてのことですが今日は花の収穫は特にありませんでした。ガイドも無くただただ歩き回って探す労力のいる撮影です。これで3日間連続で歩き回っていますが、明日からお天気が崩れるとのことですので少々疲れ気味ですが頑張っています。

 行く途中で高田川堤のサクラ並木に立寄って見ました。千本桜とよばれているようで見事な満開でした。川辺は日曜日ともあって大変な人出です。1949(昭和24)年に植えられたサクラですが、約1.5Kmにわたって両岸に咲き誇っています。地元でしか知られていませんが一見の価値はあります(近鉄大阪線「大和高田」駅、南大阪線「高田市」駅、JR和歌山線「高田」から西へ歩15〜20分、竹ノ内街道が高田川にかかる大中橋周辺が中心です。衛星写真地図

 かって高田川は大和高田市街の中央を通っており、水害が多かったので1932(昭和7)年から西側を流れていた太田川、小柳川を改修して付け替えられたものが現在の高田川です。その旧高田川は1954(昭和29)年に埋め立てられて道路となり、現在の「大和高田」「高田」の駅前を通る中央道路衛星写真地図、下街道(大和郡山から五条へ至る街道、下ツ道のさらに西を通っている)になっています。

 川辺のサクラ並木で私が最も好きなのは福井市の足羽川堤のサクラ並木です。いずれも古木で、すべてのサクラに風格があり、私は日本一だろうと思っています。再び訪れたい風景です。


低気圧

低気圧の雲 2008.4.7  撮影:今駒清則

7日、予報通り低気圧の通過で雨降りの日になりました。幸い大阪は穏やかでしたが、所によっては大荒れだったようです。春の嵐でサクラが散った所もあるかもしれません。

 ここ数日に撮影したかなりの量の写真データを整理しながら、別に一枚の書類を探す必要があって、以前片付けかけて中断していた作業も終日。しかしまだ見つかっていません。また明日も続行しなければ。


外来種

アカミミガメ 2008.4.6  撮影:今駒清則

8日、お天気は回復してきましたが、空は黒雲で撮影には向きません。昨日の続きでデータ整理と書類整理。目的の書類は別に整理をしなくてもよい所からフッと出てきました。整理のために分類して広げたままになった多くの書類はいまだ整理がついていません。

 写真は6日に撮影した大和の農業池で日なたぼっこするアカミミガメ(ミシシッピアカミミガメ)です。この倒木の上にずらりと並んでいました。近づくと警戒してダイビングし隠れましたが、このカメだけは首を伸ばして空を見つめたままピクリとも動かず日なたぼっこを続けています。この頃はどこに行ってもこの耳の赤いアカミミガメしか見かけません。すごい繁殖力で外来生物として制限をかけられているようですが、元は心無い放流からです。中之島や淀川で見かけるウオーターレタス(ボタンウキクサ)もすごい繁殖力で、繁茂して水面を覆うとイタセンパラなどの弱い生物が絶滅する恐れがあり、河川事務所では駆除しているようですがとても追いつかないようです。これも外来のもので温暖化現象がもたらしたものです。


モクレン

二上山 2008.4.6  撮影:今駒清則

9日、花曇りでお天気は悪くなる方向だそうです。書類作成などで外に出られません。ここ数日の雨などもあってサクラは散りかかって青葉に変わりつつあります。

 写真は6日に農家の庭でやっと見つけたモクレンで、よくこの時期まで咲いていてくれたと感謝です。遠くに見える二上山は大阪側から見るよりも大和からの方が姿は美しく見えます。


低気圧

低気圧の雲 2008.4.10  撮影:今駒清則

10日、新学期が始まってピカピカの新入生をあちこちで見ます。皆さんがんばってください。

 相変わらずお天気が不安定で、お陰でいろいろな雲がやってきます。花の撮影にはだめですが空は変化して見ごたえがあります。来週の飛騨高山取材行き前に書類作成をしておくためにおおわらわです。


向井神社とクロガネモチ 4

11日、2月7日に掲載した堺市のけやき通りにあるクロガネモチの木の大阪府教育委員会、堺市教育委員会の説明看板に「この地はかっては方違神社の参道脇にあたりとあったので、新旧の地形図上から検証して8日に以下を掲載しています。

 (前略)従って行政の説明板は誤っているのではないでしょうか。クロガネモチが本来あった場所の説明には「この地はかっては向井神社の境内にあたり」とした方が適切でしょう。ただし、向井神社が明治末の廃絶から永らく空き地となり、旧向井神社境内の参道が方違神社へ通り抜ける道になっていた可能性があります。その脇にあったクロガネモチですから明治末からだけを考えれば「方違神社の参道脇」と言うのもあながち誤っている、とも言えませんが、それは歴史的にみていかがなものでしょうか。」

 その後に旧向井神社境内にある天王古墳の説明看板を見ると次のようになっていました。

(前略)向井神社は行基の開創と伝えられる向泉寺が別当で、向井領の氏神として広い境内でしたが、明治末年に方違神社に合祀されました。境内中央にあった常緑広葉樹クロガネモチは、胸高径1.1m、幹周3.5m、樹高12mの巨木です。樹齢400年以上と推定され、大阪府の天然記念物に指定されています。(東方50mの市道の西側歩道上にそびえます。)/堺市

 この説明ですと何の問題もありません。ほんの近くにある説明看板に矛盾した説明があるわけで、多分担当部所で見解が違っているのでしょう。

旧向井神社参道の松か? 2008.4.3  撮影:今駒清則

 今のけやき通りはその名の通りケヤキ並木です。ケヤキは通りができた1965(昭和40)年に植えられたものですが、そこに一本だけクロマツがあります。三国丘交番の前にあり、「和泉名所図会」で見ると参道の小橋のたもとになります。このクロマツは樹齢からいっても旧向井神社の参道のものと考えてもおかしくありません。「和泉名所図会」では桜並木になっている所ですが実際はこのあたりは松並木だったのかもしれません。

伝向泉寺・閼伽井 2008.4.3  撮影:今駒清則

 このけやき通りを南へ、竹ノ内街道に近い所の榎元町五丁衛星写真地図に向泉寺の閼伽井と伝えている史跡があります。向井神社、方違神社の別当をつとめた神宮寺で、三国山遍照光院向泉寺といい、743(天平15)年にここ三国丘に行基が仏さまにお供えする浄水の閼伽井を掘り、その周りに大堂宇を造ったと伝えられていますが、永正年間(1504−21)の戦乱で焼失、堺市市之町東に移転しましたが明治期に廃絶しています。写真はその中心にあった閼伽井と伝えられているものですが、最近に樹木を剪定したために今年のサクラは少々寂しい姿となっています。相当な規模であったといわれる向泉寺ですが、今は住宅や学校などになっていて現地で偲ぶものはこの閼伽井と方違神社境内の灯籠でしかありません。発掘調査も行われましたが確定できるものはなく、ここから北にある三国丘高校あたりまでが寺域であったであろうと推定されています。

方違神社境内の灯籠 2008.4.3  撮影:今駒清則

 地元にあった榎・向陵開発協議会が1995年に発行した「行基菩薩と向泉寺」という本には往時の姿が掲載されていて、竹ノ内街道から北の長尾街道までが向泉寺一円と描かれていますが、あくまでも推定のもので確証があって描かれたものでは無いようです。ただ方違神社には「向泉寺縁起」があり、堺の新在家町東3丁にある真言宗発光院におられた十ー面観世音菩薩像の「方違観音」さまは向泉寺の本尊であったといわれていますが、堺空襲で焼失しています。

向井神社跡、旧向泉寺推定地付近 航空写真(クリックで拡大) 2000  撮影:今駒清則

 今までの内容を含む地域の航空写真です。大山陵上空から北方を望んだもので鉄道、旧街道なども記入してあります。

 この三国丘は摂河泉の境であったというだけでなく、北方の住吉大社、熊野街道、境王子、長尾街道、方違神社、向井神社、向泉寺、竹ノ内街道、そして周辺の天皇陵・大王墓群、西方の堺の湊と歴史的に不思議なつながりを持っている所のようで、もっと注目されても良いところではないかと考えています。


涌泉能

大江能楽堂 2008.4.12  撮影:今駒清則

12日、「涌泉能」の公演に京都の大江能楽堂衛星写真地図へ。大江能楽堂は1909(明治41)年に観世流・大江竹雪が建てたもので100年近くの歴史ある能舞台です。桟敷席の能楽堂で、京都ではここと河村能舞台などが桟敷席です。室町にあった旧金剛能楽堂も桟敷席の古い能楽堂で私はそこへ約40年も通いましたが、今は御所の西に移転して椅子席の能楽堂になりました。各地にある個人所有の稽古舞台は桟敷席が普通ですが、流儀や公設の能楽堂はいまやそのほとんどが椅子席になっています。この大江能楽堂は大戦時、防火帯にするための強制疎開で住宅や楽屋を取壊したところで終戦となり、能楽堂だけは無事残りました。近年耐震化工事をし、また客席最前列付近だけ椅子を置くようになりましたが、昔ながらの佇まいで風情があります。旧金剛能楽堂もそうだったのですが、時に西側の窓からの西日が舞台上まで射し込んで美しいコントラストを見せる時もあります。

涌泉能 「弱法師」高林呻二 2008.4.12  撮影:今駒清則

 「涌泉能」は喜多流京都の高林家の公演です。舞台写真は後ほどこの web Gallery の能楽「公演から」に掲載しますが、とても良い収穫がありました。能「弱法師」を演じた高林呻二が私の好きな喜多流らしい芸風を見せてくれたことです。写真は型どころでなく、ただ正中での立ち姿ですが、喜多らしい良い姿です。最近の喜多流は他よりも優れた舞台を見せることで評判ですが、現代能楽らしく表現を押さえて内に込めた気力で見せるようになりました。それは芸術としてより洗練されて昇華して行くことでそれはそれで宜しいのですが、ただ私としては剛直に内外に気力を発して演ずる、かっての喜多の芸風が好みなのです。これを久しく見なかったのですが今日は堪能しました。


落羽松

ラクウショウ 2008.4.11  撮影:今駒清則

13日、日曜日。天候が回復したと思ったらまた雨模様の日曜の夜です。でもすぐに回復するもようで一安心です。というのは明朝から飛騨高山にでかけます。日本三大祭りの一つといわれる春の高山祭取材です。ですのでここ数日はこの「近況」の更新をいたしませんが、帰り次第高山祭りを掲載したいと思います。

 時々ここに登場する落羽松(ラクウショウ)。秋には美しい紅葉を見せ、冬に落葉して枯れ木のようだった細い枝からのびた側枝が春の日差しに輝いていました。(07年11月27日、29日、08年1月20日の「近況」を参照下さい)


春の高山祭 14日

春の高山祭 2008.4.14  撮影:今駒清則

14日、飛騨・高山の祭。お決まりの写真ですが中橋衛星写真地図に並ぶ春の高山祭の屋台です。

高山 江名子川のサクラ 2008.4.17  撮影:今駒清則

 サクラは満開にはなっていませんでしたが、それでも所どころで咲いていました。写真は高山の中心を流れている江名子川(えなごがわ)、春の高山祭は安川通りの南側、秋の高山祭はこの川を含む北側の町内のまつりです。

幸い好天に恵まれて14・15日は高山祭、16日は高山の少し北にある古川付近へ、17日は雨降りでしたが高山の東山付近のお寺巡りでした。(17日記)


春の高山祭 15日

高山の中橋 2008.4.15  撮影:今駒清則

15日、飛騨高山の写真です。中橋衛星写真地図は高山市街の真ん中を流れる宮川の代表的な橋で、高山陣屋と上三之町あたりをつないでいます。春の高山祭ではこの橋のたもとにお旅所があり、祭の中心になりますので混雑するのですが、朝も早ければ静かな佇まいです。

高山の上三之町 2008.4.14  撮影:今駒清則

 高山祭の上三之町、歩くのも大変な人出です。高山らしい民家群ですが、ほとんどが観光客向けの店になっていて落ち着きがありません。それより下三町あたりの方が高山らしさを見せています。高山はミシュランの観光客向けガイドブック「必ず訪れるべき観光地」で最高ランクにされているようで、欧米人観光客がすごく多くなり地元もびっくりしているようです。(18日記)


春の高山祭 からくり

19日、引き続き高山祭で、屋台で演じられるからくり人形のクローズアップです。秋の高山祭も櫻山八幡宮で屋台のからくりが奉納されましたが、春は陣屋前のお旅所で3台の屋台がからくりを奉納します。他の屋台にもからくり人形はあるのですが、現在は演じられていないのが残念です。

高山祭 「三番叟」 2008.4.15  撮影:今駒清則

 まずは「三番叟」屋台の「三番叟」、烏帽子姿の童子が面箱に顔を伏せ、顔をあげると黒式尉の面を着けているのが見せ場、その後扇と鈴を手に取るのも難しそうですが、無事扇を手に取って開くと紙吹雪が出るのも観衆を喜ばせる趣向です。能「翁」を元にしたと思われる囃子が演奏されますが、操りはなかなか難しい技の連続のようで、時に失敗もありますが、それも人の為すこと、コンピュータ仕掛けのロボットにしてしまっては意味がありません。

高山祭 「龍神台」 2008.4.15  撮影:今駒清則

 二階より高い屋台の前につけた橋樋の先へ唐子が壺を置きます。突然に壺から紙吹雪を撒き散らして龍神が飛び出し、「竹生島」の謡で荒々しく舞うという「龍神台」のからくり、人形を操る綱方は屋台の中に隠れて姿を見せず、屋台では人形だけが動いている所が素晴らしいです。

高山祭 「石橋台」 2008.4.15  撮影:今駒清則

 「石橋台」では獅子口にみたてて扇を頭に着けた美しい女性が舞ううちに突然本性の獅子に変身、また女性に戻ってボタンの花を持って舞うというもの。能「石橋」を元にした長唄「英執着獅子」を取り入れたものといわれますが、演出は能「望月」をヒントにしたもののようです。早変わりが技の見せ所ですが、獅子の荒々しさとやさしい女性の舞いのコントラストが面白いところです。写真では獅子の裾から人形を操る綱が見えています。


高山の墓地

高山 北ヶ洞墓地 無名氏之墓は中央の山裾にある 2008.4.17  撮影:今駒清則

20日、日曜日。飛騨・高山の墓地歩きで知ったこと。東山の北ヶ洞墓地衛星写真地図に「無名氏之墓」というのがありました。その碑文は以下の通りです。

高山 北ヶ洞墓地 無名氏之墓 2008.4.17  撮影:今駒清則

 「閏四月十二日小児一人薦包に致し新町河原に抛(ほうり)捨有之候 当国のものか他国のものか相分らす候得共 貧窮に迫りて致し候事と相見え誠に可憐の事に候 大政復古視民如子天下の民一人も其所を失はさる様と深く被思召候折柄 拙者当国の人民を預り不行届より右様非命に死し候もの有之 全く拙者相殺し候訳に相当り 上は対朝廷、下は国民に不相済次第 其罪逃るへからさる事に候 因て既往の事致方無之 聊(いささ)か葬祭の印を致し墓を建て其霊魂を慰し且謝し候也 / 慶応四年戌辰七月 罪人 速水 建之」
  (碑文は「高山市史・上巻」より転記、読みやすくするためにふりがなとスペースを追加)

 高山県の初代知事として1868(慶応4、明治元)年に赴任した梅村速水は、高山の河原に薦に包んで遺棄されていた女児があったことを知り、政治の至らぬことからこのようなことがあるのは我が罪である、として謝罪、「無名氏」としてお墓を建て慰霊したものです。

 梅村速水は明治新政府の改革を急進的に行ったがために保守的な町民と軋轢が生じ、1869(明治2)年には「梅村騒動」という一揆が起き、その責任で免職、翌年収監されたまま29歳で病死したといいます。「梅村騒動」については江間修が小説「山の民」(春秋社)を著していますが、この「無名氏之墓」の碑文の「速水」の2文字が叩き潰されていることからも高山町民の怒りが偲ばれます。新政府の先鋒となって若干27歳の知事が地方で為した施策は功罪が多々あったのでしょうが、その意気込みだけは現在の為政者が見習うべきものがあるのではないかと思うのです。

高山 素玄寺墓地 大原父子の墓 2008.4.17  撮影:今駒清則

 またこの付近の素玄寺墓地には天領時期の代官・大原彦四郎、亀五郎父子の墓もあります。1771(明和8)年から1788(天明8)年にかけて多大な処刑者、処分者を出した一揆の「大原騒動」の遺恨からか、その墓石も傷めつけられています。なお高山付近のどこへ行っても「大原騒動」の犠牲者を慰霊し顕彰する碑が建てられていて、出会うたびに歴史の傷跡を実感します。


不思議な雲?

不思議な雲? 2008.4.19  撮影:今駒清則

21日、またある仕事に専念していますのでここの掲載更新がなかなかできません。
 写真は19日の早朝ですが、いつものように朝の空を撮影しようと南の方を見ると不思議な雲が出ています。妙だな、と思いながら取りあえず撮影して、よく見ると煙のようです。それも黒い煙ですので火事か、どこかの工場の排煙が不備な状態かと目をこらすのですが、遠いようなのでよく分りません。お昼近くになってニュースで、プラスチック・リサイクル工場の火災ということが分りました。工場が線路際だったようで電車も止まってしまっていたようです。


「南画って何だ?!」

会場入口 2008.4.22  撮影:今駒清則

22日、朝一番から兵庫県立美術館が開催する美術展「南画って何だ?!」へ。兵庫県ゆかりの村上華岳、水越松南の生誕120年を記念した南画の世界を江戸時代から現代まで展覧したものです。特に最近になるほど自由で楽しい南画になり、伝統技法を使いながらも作家が時代を築いていくことがよくわかります。またコレクション展の今年度の最初は「こどものための美術鑑賞術」、いくつかのテーマを決めて分りやすいように工夫した展覧会で、現代美術はどうも、というおとなにもよろしいのでは。


落羽松とブラシの木

ラクウショウの側枝 2008.4.22  撮影:今駒清則

23日、またまたラクウショウ(落羽松)の写真。側枝が日ごとに伸びてきて実にきれいです。

ブラシの木 2008.4.23  撮影:今駒清則

 昨年6月6日に掲載したブラシの木もどんどん大きくなってきました。あと一月余りで花が咲きます。


満月

満月の空 2008.4.20  撮影:今駒清則

24日、掲載の機会がなくて遅くなりましたが20日の満月、雲がありましたがよく見えました。デジタルカメラですとこういう写真がチョロッと撮れてしまいます。フィルムでこのように写すのはなかなか大変なのですが。
 このところ能楽や飛騨高山、地域の歴史写真、サクラなど大量に撮影はしたものの、デジタル処理やデータ整理に手がつけられず溜まってしまいました。これもフィルム時代とは違うところです。


レンガ建築の解体

解体工事中 2008.4.25  撮影:今駒清則

地下のレンガが姿を現した 2008.4.25  撮影:今駒清則

25日、保存を願って話題になっていた堺市のダイセル化学工業・大阪製造所堺工場(衛星写真地図)の工場敷地にあったレンガ建築群とプラントが一棟を残してすっかり姿を消しました。2日前にはまだ外壁だけはあったのですが、今朝行ってみるとすっかり解体されています。かなり以前にこのレンガ建築は撮影しているのですが、すぐに写真が取り出せませんでしたので、「夜来香」さんの「レトロな建物」から「ダイセル本社工場」をリンクさせていただきましたので少し前までの姿をご覧下さい。工場の解体は、阪神高速道路が4号湾岸線三宝から大和川沿いに14号松原線までつなぐ新線の6号大和川線堺市ホームページを建設するために、工場の最北部が高速道路用地になるのと、スーパー堤防大和川河川事務所ホームページにするためですが、この際にダイセル化学工業ではこの大阪製造所堺工場を廃止し、事業所を広島県大竹市と兵庫県姫路市に移し、本社は大阪・梅田に移しています。このダイセル化学工業の歴史は古く、1919(大正8)年にセルロイド製造8社が合併して大日本セルロイドとして創立、私たち写真家になじみの深い富士フィルムは1934(昭和9)年にこの大日本セルロイドの写真フィルム部門を分離して設立されたものなのです。

 これによりこの付近では南島町、並松町、遠里小野町などの大和川沿いの建物の撤去が続いています。この衛星写真地図・Google Mapの航空写真を大和川南岸沿いに眺めるとその予定路線が読み取れます。ただし南海高野線以東、常磐町まではトンネルとなりますのでわかりにくいのですが、その東は接続される地点の14号松原線・松原市三宅中衛星写真地図までは一直線に建物が撤去されているのがわかります。このためにこの付近では文化財の発掘調査も行われていて、大和川今池遺跡、池内遺跡、三宅西遺跡の調査概要は大阪府文化財センターの「文化財調査」で知ることができます。


交通事故

バイクと軽自動車 2008.4.19 21:37  撮影:今駒清則

26日、ある交差点、最近衝突事故が続いています。上の写真は19日に信号を無視して西から南へ右折したバイク(写真右端)に、南から東へ右折しようとした軽自動車が交差点の中央で衝突しました。私は事故の直前からバイクを危ないなあと思って見ていましたので衝突の瞬間を見ていましたが、軽自動車は右折するために前方から直進する車に集中していて、まさか横(西)からバイクが来るとは思っていなかったのでしょう。歩行者の方がすぐにバイクの運転手とバイクを歩道に寄せて携帯電話で救急の連絡をとっています。バイクの運転手は歩道に座り込んでいますが、その後救急車が来たときは自力で歩いて救急車に乗りましたから大きな怪我はなかったようです。

歩行者と軽自動車 2008.4.26 21:21  撮影:今駒清則

 こちらは本日の事故。救急車が到着した時からですので事故の目撃はしていないのですが、横断歩道の歩行者を軽自動車がはねたようです。写真は歩行者を乗せた救急車が現場から発進したところで、当てた軽自動車の運転手がバイクの警官に状況聴取されています。同じ交差点で同じ頃の時刻、それに軽自動車、と妙に要件が符合しています。事故は被害者、加害者共にどちらにも何も良いことはないので、十分に用心して運転したいものです。


金剛定期能

金剛定期能 「須磨源氏」 金剛永謹 2008.4.27  撮影:今駒清則

27日、日曜日。光源氏の舞いです。京都・金剛定期能の「須磨源氏」(シテ・金剛永謹)。今は天上にいる光源氏が須磨に現われ、在りし日を偲んで舞いを見せるという優雅な能ですが、能楽で光源氏をテーマにしたものは幾つかありますが、舞台に姿を見せるのはこの曲と「住吉詣」だけです。「住吉詣」では光源氏はツレ役ですから、光源氏がシテ(主役)になるのは「須磨源氏」だけになります。「源氏物語」の中でも特別な存在である光源氏を見せるのでなく、周囲の人物との葛藤から光源氏へ想いを馳せるのが能らしいゆき方ですが、すでに存在していたと思われる曲を世阿弥が風雅な演出にして光源氏を登場させました。それが須磨という山と海が迫った鄙びた所を舞台地にしたのは、光源氏が逼塞していた時期を思い起こさせるためでしょう。栄華と没落を表裏に思わせる中世びとの創作力は素晴らしいものです。なお京都では今年を「源氏物語千年紀」京都府ホームページ源氏物語千年紀委員会としてさまざまな事業が展開されるようで、これもそれに相応しい演目でしょう。


御所の細道

御所の細道 2008.4.27  撮影:今駒清則

28日、昨日の金剛能楽堂は京都御苑(京都御所)の隣にあります。能の帰りに御苑で手入れの行き届いたマツの新芽を少し撮影、時々能楽堂の鏡板の松に新芽が描かれたものがありますが春のマツを描いたものでしょう。御苑のマツはもう少しするとミドリ摘みされるのでしょうがまだ枝一面に輝いていました。その御苑には一本の線がずっと伸びています。御苑は砂利が厚く敷きつめられていますので少し歩きにくいのですが自転車はなおさらです。そこでここを通り抜ける自転車は前車の轍を踏んで通りますので自然にできた細い道になるのです。「御所の細道」とか「自転車道」とか呼んでいるようですが珍しいものです。御苑を管理する事務所では神苑の整備をする時にこの道を砂利でならしてしまいますが、また自然にできてしまいます。これは衛星写真地図(Google Map)にもクッキリと写っています。

 中国・内蒙古自治区のホロンバイル草原をジープで取材の時、地平線が見える無限のような草原はどこへ行ってもよさそうに思えるのですが、やはり草原の草を保護するためにむやみに走るのでなく前車の轍の跡を走っていました。モンゴル族の牧民が夏に放牧をする夏営地の区画は政府から指定してもらっているようで、さすがに何も目印の無い所ですので、その証明書には北緯○度○分○秒〜○○、東経○○〜○○、というように緯度経度で区画が書いてありましたが、牧民は別に測って夏営地を決めている様子はなく、昔からの所に包(パオ、モンゴル族のテント)を据え、適当にやっているようです。ですから草原は何処もどなたかの管理地になっているのでむやみに走り回れるものではなく、草原にもかすかな轍の一本道が続いているのです。


大阪弁の仮面ライダー

仮面ライダー 2008.4.29  撮影:今駒清則

29日、祝日。春らしい優しい日差しの休日です。ショッピングセンターの屋上で子供たちを集めて「仮面ライダー○○○」のショーをやっていました。最初に出てきた悪者?が大阪弁丸出しで呼びかけると子供たちはあっけにとられ、親たちからは笑い声が。それでも格闘シーンで負けそうになると大きな声援が、勝つと拍手が、子供たちは純粋に一所懸命です。私は全くわかりませんが「仮面ライダー」にも沢山のキャラクターがあるようで、もう40年近い人気が続いているそうです。

 仕事用に使っているMacintosh G4が何となく引っ掛かるような感触がするので徹底的にチェック。結局ディレクトリーの一部に不具合があるようなので、この際にアプリケーションのテストであれこれインストールしているのを大掃除するのを兼ねてフォーマット(初期化)。仕事で使うものだけをインストールし、アップデートを確認。スリムになって快適稼働です。OS Xになってからは以前のOS9までのOSのように機能拡張のコンフリクト(衝突)はなくなったようなので、安心してアプリケーションやユーティリティをどんどんインストールしていましたが、さすがに飽食状態になっていたようです。それでもこれをするだけで丸一日かかってしまいました。


長靴

長靴 2008.4.25  撮影:今駒清則

30日、大型連休の最中、といわれますが周囲はいつもとあまり変わりません。初夏、といえる暑い日でした。数年前の5月始め、屋上で阪神大震災の追跡で復興状況を撮影していたところ、軽い熱中症になったことがありますのでこの季節は油断ができません。

 最近安物ですが長靴を購入しました。スキーの時のスノーシューズとかはありますが長靴というのを購入したのは初めてのことです。この先の雨期に大和の農村歩き撮影で畦道やぬかるみ歩きに備えてのことですが、マムシ対策でもあります。時に薮や手入れしていない野道に入りますので用心のためです。まだ東塔しかなかった1970(昭和45)年頃の薬師寺で、その東塔の東に聖観音さまがおられる東院堂がありますが、その裏は薮が観音池まで続いています。お寺からあの薮にはマムシがいるから入らないように、と言われたことがありました。今は大伽藍となってとても奇麗になっているのですがその後どうなのでしょうか。また雨の撮影ではかって上高地で3日間雨中で水浸しの梓川沿いの撮影を続けましたが、それで革靴が溶けたようになってだめになってしまったことがあります。長靴だったら大丈夫だったでしょうに。


3月 08年4月 5月