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近況 2009年9月


 

上野の江戸


東京・上野 寛永寺 旧本坊庭園(東京国立博物館内) 2007.1.25 撮影:今駒清則

2009年9月1日
 台風一過の快晴、また暑さが戻ってきました。東京ではまだ蝉が鳴いています。うるさいクマゼミばかりの大阪と違って、「ミン ミンミーン」とか「オーシーツクツク」とかいろいろ鳴いていて爽やかです。

 朝から上野の東京国立博物館へ。「伊勢神宮と神々の美術」を見ていつものように東洋館へと思ったのですが工事中で、そこの展示品を移した表慶館(アジアギャラリー)で中国美術を楽しみました。この東京国立博物館は寛永寺の本坊跡に建てられたもので、本館の裏には旧本坊の池泉回遊式の庭園と茶室六窓庵などが残されています。博物館を出て、いつもは通りすぎている東隣の両大師堂と輪王寺へ足を運びました。衛星写真地図・明治昭和航空写真地図


東京・上野 寛永寺 旧本坊表門 2009.9.1 撮影:今駒清則

 寛永寺旧本坊にあった表門、通称黒門(重要文化財)は少し東に移して輪王寺にあります。寛永寺は今の上野公園一帯にあったのですが幕末の彰義隊の戦(上野戦争)でほとんどを焼失してしまい、この表門も少しばかり残された建物の一つです。


東京・上野 寛永寺 表門大戸の弾痕 2009.9.1 撮影:今駒清則

 寛永年間に建てられ黒く塗られた表門の扉には彰義隊の戦の時に被弾して傷んだ跡が140年を経ても残っていました。

      

東京・上野 阿部重次墓 2009.9.1 撮影:今駒清則

 ついでにこの輪王寺から少し北に行くと現竜院の墓地があり、三代将軍家光が1651(慶安4)年4月20日に48歳で病没した時、あとを追った重臣たちの老中・阿部重次、堀田正盛らと家臣の墓所がそこにあります。
墓地は一般の立ち入りができませんが通りから多少見ることはできます。53歳で殉死した岩槻藩主・阿部重次の墓石には戒名の「芳松院殿全巌浄心大居士」と家光が亡くなり重次が殉死した「慶安四年四月廿日」が刻まれていて、ここに江戸の歴史の一端に触れることができました。なお阿部重次を偲ぶ墨蹟は九州国立博物館の「対馬宗家文書データベース」で見られます。

 昨日来の冷え込みと、あちこちの冷房で少々体調が悪いところに朝からの猛暑で疲れ果てて江戸探訪はここまで。恵比寿へ出て東京都写真美術館で開催している「稲越功一の写真 心の眼」「北島啓三 1975-1991」「コレクション展  旅 第2部『異郷への旅』」を軽く見て、他の予定を中止し帰阪。

 


 

上野の江戸 両大師堂


東京・上野 寛永寺 両大師堂 2009.9.1 撮影:今駒清則

2009年9月2日
 東京国立博物館(旧寛永寺本坊)の東に両大師堂があります。この間の細い道はかって突き当たりにあった三代将軍家光の大猷院殿御霊屋への参道で、いま御霊屋の跡は林光院などの寛永寺子院が立ち並び、家光の謚(
おくりな)の「大猷院殿尊前」と刻まれた石灯籠に名残を留めています。
 家光の御霊屋やその西にあった四代家綱の厳有院殿御霊屋など、歴代将軍を祀る御霊屋は多くが火災で焼失し、現在徳川家関係のものは博物館北の徳川将軍家霊廟に統合されています。

 両大師堂はもと慈眼堂といい、いわゆる開山堂です。家光に願い天台宗寛永寺を開いた慈眼大師天海僧正を祀っていますが、後に天海の師である元三慈恵大師を祀ったので両大師堂と呼ばれています。昔からこの位置は変わらずにあり、境内は桜の木が多いので春の頃は賑わうことでしょう。


東京・上野 寛永寺 両大師堂の銅灯籠 2009.9.1 撮影:今駒清則

 両大師堂の境内には葵の紋のある銅灯籠が立ち並んでいますが、もとは大猷院殿御霊屋に供えられたもので、大名は十万石を境に石灯籠か銅灯籠を奉納しました。また両大師堂境内の鐘楼は御霊屋の水盤舎。鐘も移ってきているとのことです。

 この付近の江戸時代の地図は国立公文書館の日本輿地図「江都東叡山寛永寺地図1755(宝暦5)年に往時の寛永寺の全貌が詳細に著されていて、御霊屋や子院も詳しく、将軍の寛永寺参拝の時に付随する諸大名が子院へ詰める割当まで記載されています。
 またgoo地図・古地図江戸(切絵図)から「15-2 不忍池・上野駅周辺」でも見ることができます。これは尾張屋版切絵図「東都下谷絵図」
1862(文久2)年によるものです。
さらに国立公文書館の「東京上野公園地実測図
1873(明治11)年では公園整備される前の寛永寺跡や、失われたり移転される前の「徳川氏霊屋」や「徳川氏墳墓」の位置などが正確に測量されています。
 寛永寺を焼き払った上野戦争
Wikipediaの「本能寺合戦之図」<実は上野戦争を描いたもので、絵には右から黒門、山王社、清水寺、炎上する文殊楼が描かれています>)は1868(慶應4)年なので、これらの地図は戦争の直前直後を比較できる大変に良い資料です。次にはこれらの地図を参照しながら歩いてみるつもりです。
 なお今秋の「寛永寺 徳川歴代将軍霊廟と葵の間 特別公開」 は台東区ホームページをご覧下さい。また寛永寺の北に隣接する谷中霊園の徳川家墓所は昨年から解体撤去作業をしていて、ここに葬られた将軍家ゆかりの方々は合祀されてお墓は無くなるようで、現在の
Google Map(衛星写真地図)には丁度その工事状況が写し出されています。

 


 

冷房病


夕方の雨雲 2009.9.4 撮影:今駒清則

2009年9月4日
 東京では冷房続きの中にいたので体調を崩してこのところ休んでいます。冷房には弱いので気をつけて上着をいつも持参し”防寒”しているのですが。今夏も冷房は使わずに過したのですが最後に残念なことでした。
 日没後に黒雲と雷鳴。数回雷光があったのですがさほどでもなく明石から淡路島方面に移動して行きました。

 


 

満月


満月 2009.9.5 23:00 撮影:今駒清則

2009年9月5日
 今夜は満月、月の出の地平付近は黄金色でしたが夜半はクリアでつい撮影。本当は情緒的に撮影したいのですが、月だけでは下手な天文写真になってしまいます。


木星とガリレオ衛星 2009.9.5 23:06 撮影:今駒清則

 ついでに近くの木星にカメラを向けてみるとガリレオ衛星が見えました。気軽にデジタルカメラの望遠レンズで撮影すると、丁度400年前にガリレオが発見し観測したのと同じ程度には写ります。天文写真を撮影する方々は決して明るい街中で満月の夜に星を撮影するなんてことはしないでしょうが・・・。

 


 

残暑


落日 2009.9.7 18:16 撮影:今駒清則

2009年9月7日
 残暑が続いています。台風12号はあまり影響がないようで、天候不順で農作物があまり良くない時なのでホッとしました。
 大阪では日没の太陽が水平線に沈むのがここ数日見られます。というのは大阪はほぼ四方を山に囲まれていますので、水平線に沈むのは唯一明石海峡方面への落日に限られます。そして明石海峡大橋がシルエットになるのも今です。舞島の新夕陽ケ丘展望台
衛星写真地図に行けば大橋からはまだ遠いですが前に邪魔なものが無く大橋と落日が撮影できます。太陽は徐々に南に移って行きますからこれから神戸などからでも良くなります。それに明石海峡に近づけばより鮮明な大橋と太陽が狙えるはずです。写真は残暑の熱気で大気のゆらぎが強く不鮮明な夕陽になりました。

 


 

須磨浦と鉢伏山

神戸市 鉢伏山 2009.9.7 18:16 撮影:今駒清則

2009年9月9日、かなり涼しくなりました。ここに掲載する予定の幾つかのテーマ、「ダイセルのレンガ建築」とか「台場 堺旧港」を手がけていたのですが、急な所用で中断、また後ほどに掲載します。
 今日の日没も見事に真赤な太陽が明石海峡に沈みました。ですが明石海峡大橋をシルエットにした写真はあまり良い位置関係にならなかったのでまた明日でも撮影するつもりです。これは一昨年の10日、昨年の9日にも大橋と落日をここに掲載しています。それに大橋の隣にある山も赤くなっていました。今日の写真は大阪湾を隔てて見た鉢伏山
衛星写真地図です。麓は須磨浦公園、山上付近には須磨浦回転展望閣があり、ここからは大阪湾、明石海峡、淡路島を一望できます。

 


 

無限遠


有明の月 2009.9.10 撮影:今駒清則

2009年9月10日
 涼しくなってすごしやすくなりました。ぼちぼち外歩きが楽になります。
 デジタル一眼レフカメラのピント出しはライブビューが備わってから厳密にできるようになりました。朝の安定した大気の時に望遠レンズの無限遠のピントを決めておこうとちょうど見えていた宵月を手動の焦点調節で決め、ついでに撮影しました。


神戸市 鉢伏山 2009.9.10 18:15 撮影:今駒清則

 夕刻、明石海峡大橋に沈む太陽を撮影、あいにく手前の工場からの排熱で大気が揺れ、ゆらゆらの画像になってしまいました。朝に無限遠を決めておいたのにこれでは意味がありません。撮影場所を変えないと・・・。

 前から話題となっていたライカM9が発表されました。フルサイズの1,800万画素です。ただし光学ファインダーが相変わらずツインフレームなのでそれで購入意欲を無くします。シングルフレームにしてもらえれば即購入なのですが。なお中判のSシステムも発表。45×30mmのCCDで3,750万画素。300万円位とか。

 


 

堺 開口神社 八朔祭 宵宮 2009年9月11日


「三村大明神社 密乗山大念佛寺」 住吉名勝圖會 岡田玉山画 1794(寛政6)年

 

2009年9月11日
 関西から九州にかけて「布団太鼓」という「やま」があります。祭礼に町内を巡行し神社に宮入りするのですが、「だんじり(地車)」と併せ持つ地域もあります。秋の祭で早いのは堺市にある
開口(あぐち)神社衛星写真地図の八朔祭で、堺を代表する布団太鼓の祭ということで出かけました。明日の本祭を予定していたのですが天気予報が降雨を告げていますので一日早い宵宮です。

 開口神社は大寺(おおでら)さんと呼ばれることの方が多いそうですが、往時は寺社混在で大念仏寺の方が名高かったからなのでしょう。明治の「神仏判然令」で寺は廃され開口神社(三村大明神社)となりましたが、堺大空襲までは三重塔などの仏殿がありました。上の「住吉名勝圖會」は200年ほど前の様子で東を上部に描いています。
 山之口の西門
(左下)を入ると大鳥居、右に三重塔と幾つかの子院、左に仏殿、正面に神社の拝舎と西向きの社殿があり、背後には摂社・末社が立ち並んでいます。今も西門辺りは旧状を偲ばせますが、東端の摂社があった所は現在広い道路となっていて、そこから出入りできる東門が新しく作られています。南側の子院は高層マンションなどの住宅地になっていますが南門のあった南口は露地となって健在で、また北門も存在します。現在の本殿はほぼ仏殿のあったあたりに南面して再建されていて、この図絵とはすっかり様相は変化しています。


堺 開口神社八朔祭 布団太鼓を待つ小屋  2009.9.11 撮影:今駒清則

 宵宮の開口神社境内に入ると南端には大甲濱、隅田濱、新在家濱、芦原濱の4基の布団太鼓が二夜を過す小屋が飾り立てて設営されていました。
 各地の太鼓蔵を出た布団太鼓は町内を巡って神社周辺に集まり、東門のある大通りを練ったあと順序に従って東門から宮入りします。


堺 開口神社八朔祭 宮入り 本殿前でさし上げる芦原濱の布団太鼓 2009.9.11 撮影:今駒清則

 境内に入った布団太鼓は本殿の前でも威勢よく練って小屋に入り再び気勢をあげたあと解散となります。
 堺環濠内の旧市内でもかっては近隣と同じようにだんじりだったのですが、明治期にだんじりの鉢合わせから死傷事件が発生したためだんじりの曳行が禁止され、後に身動きの良い布団太鼓で復活したことから旧市内ではだんじりは無く布団太鼓だけになりました。

 各町に相当数の布団太鼓があったようですが、その後の堺大空襲で焼き尽くされて現在では開口神社へは4基、菅原神社へは2基が宮入りします。なお布団太鼓に「濱」とつけられているのは堺の地域と海との歴史的な絆を伝えるものでしょう。それらの布団太鼓の詳細は「山車・だんじり悉皆調査」の「大阪府・和泉・堺市・堺・北支所」に詳しくあります。また布団太鼓やだんじりの祭については「堺百町」をご覧下さい。


堺 開口神社八朔祭 宵宮 乗り児の祝儀袋  2009.9.11 撮影:今駒清則

 布団太鼓には「太鼓叩き」と「柱持ち」の子どもが乗ります。芦原濱布団太鼓の乗り児たちの背や腰には袴のように祝儀袋がつけられていました。太鼓台によってそのつけ方はいろいろのようです。


堺 開口神社八朔祭 小屋に納まった布団太鼓 2009.9.11 撮影:今駒清則

 小屋に納まった布団太鼓は翌朝の宮出しまで境内で夜を過します。納まった途端にパラパラと雨が降り出しました。明日は例大祭ですので雨が止んでくれると良いのですが。なお雨が降っても布団太鼓は透明なカバーをして宮出しをするそうです。

 参考までに今年の開口神社八朔祭の行事次第を掲載します。

2009年 開口神社八朔祭の行事次第

9月11日(金)
午後1時 渡御順路のお祓い/午後5時30分 宵宮祭#午後7時 布団太鼓の宮入/午後7時40分 大甲濱/午後8時15分 隅田濱/午後8時50分 新在家濱/午後9時25分 芦原濱


9月12日(土)
午前10時 例大祭
午前10時〜 布団太鼓宮出
午後1時 渡御祭/午後1時30分 渡御出発(御鳳輦・神輿巡行) /午後3時 子供神輿舁ぎ出し/午後6時30分 還御祭
午後6時〜 布団太鼓宮入/午後7時30分 担ぎ合い/午後9時 新在家濱/午後9時15分 芦原濱/午後9時30分 大甲濱/午後9時45分 隅田濱


9月13日(日)
午前10時 田実神事/午後2時 物故総代霊名簿奉安
午後3時頃 布団太鼓宮出

 


 

堺 菅原神社 八朔祭 宵宮 2009年9月13日


「堺天神社」(部分) 和泉名所圖會. 秋里籬嶋 1796(寛政8)年

 

2009年9月13日、日曜日
 開口神社に続いて堺では菅原神社
衛星写真地図の八朔祭が13日から15日に行われます。
 八朔祭は豊饒と安寧を願う祭で、堺では町の中央を東西に通る大小路の北側は摂津国の堺北庄で菅原神社へ、南側は和泉国の堺南庄で開口神社へ詣ります。
 菅原神社(天神社)は天台宗威徳山天神常楽寺にあったのですが。明治期に寺は廃絶、上の「和泉名所圖會」では左下隅が紀州街道(大道)、上部が東になります。楼門(随身門)を入ると西向きの本殿があり、楼門の左には常楽寺の仏殿がありました。ここでも堺大空襲で楼門と金毘羅宮を除いて社殿などを失い、現在では相当に境内が縮小されています。


堺 菅原神社八朔祭 宮入り 本殿前でさし上げる北戸川の布団太鼓  2009.9.13 撮影:今駒清則

 菅原神社への宮入りは海船濱と北戸川の布団太鼓の2基ですから宮入り時間は少し遅く、それまで神社周辺を練っています。神社の西側から宮入りすると本殿の前でさし上げをし、気合いを入れます。
 境内の片隅に設けられた仮設の舞台では布団太鼓の熱気とは無関係にカラオケや舞踊の演芸大会が大音量で催されています。


堺 菅原神社八朔祭 本殿で御祈祷を受ける海船濱の衆 2009.9.13 撮影:今駒清則

 本殿で一同揃って豊作と町内安全などの御祈祷を受け御幣をいただきます。


堺 菅原神社八朔祭 頂いた御幣をふとん太鼓に掲げる 2009.9.13 撮影:今駒清則

 御幣は布団太鼓の正面に掲げ、一年間の平安を願います。


堺 菅原神社八朔祭 小屋に納める北戸川 向こうは海船濱のふとん太鼓  2009.9.13 撮影:今駒清則

 境内に設けられた小屋へ向かい宵宮最後の気勢をあげて納め、明朝の本宮の宮出しを待ちます。

  参考までに今年の菅原神社八朔祭の行事次第を掲載します。

2009年 菅原神社八朔祭の行事次第

9月13日(日)
午後2時 宵宮祭/午後4時 子供神輿/午後6時 奉納カラオケ
午後8時〜 ふとん太鼓宮入 北戸川/午後9時 海船濱


9月14日(月) 本宮
午前中〜 太鼓台宮出/午後1時 例大祭 渡御旅所祭 (七道ヶ濱、 北波止の御旅所)
午後7時 奉納カラオケ
午後8時〜 ふとん太鼓宮入 海船濱/午後9時 北戸川


9月15日(火)
午前10時 太鼓台宮出
午前11時 田実祭/敬老祭

 


 

月の出


生駒山上から昇る二十六夜月  2009.9.14 0:15 撮影:今駒清則

2009年9月14日
 夜中の月の出、生駒山上の送信鉄塔をシルエットにしての二十六夜月です。
 船の舳先のような先端が山の端から見えるとドキッとします。それに今夜はこの月の右上に火星が大接近。撮影をしましたがここの掲載サイズでは火星が見えませんので残念ながら割愛しました。

 


 

秋めいて


沈む太陽  2009.9.16 18:00 撮影:今駒清則

2009年9月16日
 1961年の第二室戸台風
(台風18号)から48年、大阪は高潮と強風で大きな被害になりました。台風14号が近づいて来たようですが、今年は台風の襲来はやや少ないようです。私の見た第二室戸台風については web Gallery の「アーカイブズ」に掲載しています。今日は晴れから曇り、秋らしい日になってきました。ぼんやりとした西の空に扁平になった赤い太陽が地平にとどくまでに消えて行きました。

 民主党・鳩山内閣が発足しました。日本の癌である官僚たちの酒宴を止めさせることができるか、見守りましょう。

 


 

薄型ディスプレイ


近つ飛鳥博物館の液晶ディスプレイ 2009.9.18 撮影:今駒清則

2009年9月18日
 大阪の近つ飛鳥博物館で全国を巡回する文化庁の「発掘された日本列島2009」が開催されていて、
出品目録(PDF)に興味深いものが幾つかあり、それらをゆっくりと見てきました。
 中でも和歌山市・岩橋千塚古墳群の「大日山35号墳」から出土した古墳時代の珍しい「胡ろく型埴輪」、「翼を広げた鳥埴輪」、「両面人物頭部」が特に見事です。鳥の埴輪には水鳥が多く魂を天に運ぶと考えられているのですが、より具体的に翼を広げて飛ぶ姿の埴輪は初見です。また興福寺の阿修羅像のように顔を前後に持つ埴輪も珍しく、あどけない眼の穴が前後から見てもぴったりと重なって貫かれていることに何か意味があるのかと考え込んでしまいました。大阪ではあとわずかで終了します。(岩橋千塚古墳群については「和歌山県立紀伊風土記の丘」の「岩橋千塚古墳群の紹介」をご覧下さい)

 会場の展示にこの博物館では珍しく一ヶ所だけささやかながら液晶ディスプレイで説明をしていました。すでに美術館では映像作品は勿論のこと、動画やスライドショーで作品の解説などを工夫していますから、割に保守的な博物館でもこれからは紙メディアのパネル説明から電子的な薄型ディスプレイに変わって行くことでしょう。
 そこで学芸員を始めとするスタッフにはこれに対するプレゼンテーション能力も問われてきます。これは「デジタルサイネージ」(電子看板)と呼ばれ、すでにいろいろな場所で使われています。
 駅や電車内、公共機関などのインフォメーション、広告では屋外看板が大型ディスプレイに代り、店頭の看板やメニューも時間帯、客筋によって内容を瞬時に変えられますし、タッチパネル式にすればお客さんが内容を選び詳細な情報を得ることができます。メディアとしては液晶のほかプラズマ、有機EL、FED(Field Emission Display)などの薄型パネルもどんどん開発されていますから、この流れはますます加速されるでしょう。そうなるとこのあたりを制作するデジタルクリエーターに大きな需要が生じてくる可能性があります。

 


 

堺 船待神社 秋例大祭 2009年9月19日

2009年9月19日
 布団太鼓や地車
(だんじり)の出る祭がこの頃から河内、和泉付近でも続きます。
 各町内の屋台や山車、地車、布団太鼓などで囃し立てて鎮守や産土神の神社へ氏子たちが春と秋に「宮参り」するのが農村の一般的な「お祭り」で、その宮参りのさまが華麗で、勇壮で、派手であればあるほど氏子は勿論のこと、近郷近在の人々までも神社へ参拝や見物に集まります。ですから「お祭り」といえばそればかりが喧伝されて、近ごろでは何のために宮参りするのか知らずに祭に参加している若者もいるようです。

 大都市の中の神社でも春秋に祭を行うのは、神々に春は農事の豊作祈願、秋には収穫の感謝をするためで、つい近年までは農村であった名残なのです。ちなみに説明は省きますが山村では冬、都市では夏に祭をするのが多く見られます。その秋の祭のごく普通の祭を取材させていただきました。今日19日に行われた船待神社秋例大祭の「田実(たのみ)神事」です。幸い宮司様、氏子総代様のご理解と協力をいただき詳細に記録しましたが、ここでは主なものだけを掲載します。

 


1887(明治20)年陸軍測量局仮製地図(1885年測量)の堺、湊村付近(彩色は加筆)

 

 船待神社(上の1887(明治20)年地図では赤色に着色)は環濠(水色)に囲まれた旧堺市の南に隣接する西湊町衛星写真地図にあり、堺市内の中央を南北に通る紀州街道(茶色)が市南端の環濠を越えるとすぐに神社です。堺の紀州街道は大道とも呼ばれ、今は「チン電」と親しまれている阪堺電車(右側の緑色)が通り今でも幹線道路です。
 環濠の所で紀州街道から右
(東)へ分かれている道は小栗街道(熊野街道)です。この付近を湊と云い、集落は西から出島、西湊、東湊の地区があります。(位置関係が分かりやすいように明治の地図に当時には無かった道路や鉄道を緑色で加筆しました。左から旧国道26号線(府道34号線)、湊駅と南海本線、「文」は新湊小学校、そして阪堺電車です。)

 堺の南部一帯はかって和泉国大鳥郡塩穴(しあな、しはな)郷、また塩穴荘と呼ばれていました。塩穴とは塩湯浴の穴すなわち塩風呂からきているといわれます。群書類従 巻第237 権中納言定頼卿集に「さか井」で「しほゆあみ」をしたとあり、以来戦前まで堺の潮湯は有名でした。その塩穴の天神社が現在の船待神社です。ご祭神は農業の神様・天穂日命(あめのほひのみこと)で、併せて菅原道真をお祀りしています。これは道真が九州へ左遷の途中この地で船待をした時、祖神を祀ったこの天神社に参拝したことから道真を祀り船待神社に改称した、と社伝にあります。

 船待神社のある湊村はもと海辺にあり、明治の地図から見ると大浜から続く遠浅の浜にはまだ魚港がありません。浜近くにある出島地区の周囲は砂地で主に漁業、他の地区は街道沿いに民家が並んで周りは一面の田畑でした。明治20年ですが江戸時代とほとんど変わりはないと思えます。
 湊という地名から漁師町を直ぐに思い描きますが、実際はほとんど農村であったわけで、市街地化した現在の地図からはこの環境が読み取れないので明治の地図を使用しました。今日の祭はかっての農村にある船待神社の「田実神事」です。

 

田実神事


堺 船待神社 田実神事の祭典  2009.9.19 撮影:今駒清則

 船待神社の例大祭の祭典は9月15日にすでに執り行われていて、ごく通常の祭典とのことでした。今日行われる「田実神事」は先日に掲載した近所の開口神社、菅原神社の八朔祭でも行われているものですが、秋の収穫、初穂や新穀をお供えして神に豊作の頼み(田の実)と感謝をするもので、船待神社では特別に仕立てた御膳を供えます。かっては氏子中から上がってきたのですが今では神社で設えているとのことです。


堺 船待神社 田実神事の御膳 2009.9.19 撮影:今駒清則

 神前に供えられた御膳は大小の赤飯、焼魚、酢の物、味噌汁など質素ですがおいしそうなものばかりでした。


堺 船待神社 直会 2009.9.19 撮影:今駒清則

 祭典を終えると直会(なおらい)です。宮司が神の使いで先の御膳を氏子代表たちに配膳します。神の召し上がった御膳を頂くことで神と人との絆が強くなり、また神の加護を頂くことができるのです。

 

布団太鼓と獅子舞


堺 船待神社 例大祭 布団太鼓の宮出し 2009.9.19 撮影:今駒清則

 午後になると境内に人が集まって賑やかになります。昨夜の宵宮に宮入りしていた3基の布団太鼓の宮出しを見るためです。船待神社では出島、東湊、西湊地区の布団太鼓が順番に大鳥居を出て紀州街道を通り、地域をくまなく巡ります。


堺 船待神社 例大祭 紀州街道の子供獅子踊り 2009.9.19 撮影:今駒清則

 その後新湊小学校から猿田彦(天狗)を先頭に、獅子頭を載せた笠の子供獅子踊り、傘踊り、獅子舞と紀州街道を船待神社に向かってパレードします。新湊小学校の子どもたちが一所懸命に舞い続けて、その健気さと可愛さに感動です。


堺 船待神社 例大祭 子供の獅子舞 2009.9.19 撮影:今駒清則

 パレードの最後尾は獅子舞です。朝から町内をくまなく廻っていたのですが行列の最後尾に加わっています。神社へ宮入りすると獅子は神社の拝殿へ真っ直ぐに駆け込みます。
 なおこの堺では獅子舞をあまり見ません。南島町の月洲神社には神楽獅子がありますが、どこの祭でも行われている獅子舞を堺で見ないのは歴史的なものなのか宗教的なものなか、何かの理由があるのかもしれません。いずれ調べて見たいと思います。


堺 船待神社 例大祭 宮入り 2009.9.19 撮影:今駒清則

 夕刻、環濠の土居川沿いの大通りで交通を遮断して3基の布団太鼓が集まり担ぎ合いが始まります。広い道路を埋め尽くしてそれぞれの布団太鼓に声援を送り熱気が渦巻きます。小さな神社の祭にしては驚異的な人出で、もしかすると堺一番の「お祭り」かも知れません。
 担ぎ合いが終わると神社への宮入りです。紀州街道に入ると旧街道特有の微妙に曲った道筋に提灯がうねりながら遠くまでずっと続いていてそれだけでも祭の情緒たっぷりです。その街道をも埋め尽くした人々をかき分けて布団太鼓が神社へ練り込み境内の小屋に納まります。
 (続く)

 


 

堺 船待神社 秋例大祭 2009年9月20日

御神幸


堺 船待神社 例大祭 神輿 2009.9.20 撮影:今駒清則

2009年9月20日、日曜日
 今日の船待神社は朝早くに可愛い子供布団太鼓が新湊小学校から紀州街道をパレードして宮入りしました。その後に御神幸となります。
 御神幸は神様が神輿に遷り、氏子町内を巡って浄め、人々に安寧を授け、お旅所までお出ましになる神事で、神様の通る町内では門口を浄め祭提灯を掲げ神輿をお出迎えします。御旅所での祭祀はむかしむかし神様が遠来し降臨したという遠い記憶がお旅所へ出向く神事として伝わっているのではないかと考えています。

 船待神社の御神幸はすべて自動車に乗って町内を巡ります。開口神社や菅原神社もそうなのですが、布団太鼓を担ぐ氏子たちのあの熱気が神輿にまで及ばないのが残念です。布団太鼓は町内氏子の催しで、御神幸は神社の主催なのでそうなるのでしょうか。
 住吉大社も自動車巡行でしたが近年堺・宿院までの御神幸
(往路)は輿丁(よちょう)が担ぐようになり良い祭に復活しました。(この「近況」バックナンバーの2008年8月1日「住吉大社 御輿渡御祭」をご覧下さい)。

 ご神幸にあたって宮司が御神霊を神輿と鳳輦へお遷ししていよいよ宮出しとなります。


堺 船待神社 例大祭 紀州街道を行くご神幸 2009.9.20 撮影:今駒清則

 御神幸はまずは社前を通る紀州街道から氏子各町をくまなく巡行します。
 堺大空襲の難を逃れたこの付近には所どころに昔の佇まいが残っています。ただ町内で神輿をお迎えする姿は少なく、都市近郊の住宅地となったこの辺りではそういう意識が薄いのかもしれません。また御神幸の自動車の速度が割に速いのでスピーカーの奏楽が聞こえてからでは門口に出ても間に合わないこともあるようです。
 少し前まで飛騨高山の高山祭では自宅前の道路中央へ赤土で丁度センターラインの様に神様の通り道を作りました。中にはそこから門口まで赤土で線を引き、神様が自宅においでいただけるようにした所もあったそうです。今では門口に赤土を盛る家が僅かに見られるだけになりましたが、飛騨びとの御神幸への想いが伝わる話です。


堺 船待神社 例大祭 御旅所の巫女舞 2009.9.20 撮影:今駒清則

 午後に埋立地の中にある出島漁港の御旅所(衛星写真地図に着き「渡御祭」が執り行われます。神饌を供え祭典と巫女の舞が奏されます。神社、氏子関係者以外の者は私ただ一人でした。ひと気のない場所柄もあるのでしょうが、誠にもったいないことです。


堺 船待神社 例大祭 御還幸の鳳輦 2009.9.20 撮影:今駒清則

 祭典が終わると御旅所から神社へ還幸されます。鳳輦の背後はヨットハーバー化された出島漁港。最近では「とれとれ市」で人気があります。

 神社では御神幸の間に布団太鼓が最後の宮出しをし、境内で子供獅子踊りが奉納されて神様のお還りを待ちます。御神幸の列が宮入りすると「還御祭」が執り行われ例大祭は終わります。なお宮出しした布団太鼓は夕刻まで町内を巡行し、土居川付近で最後の気勢を上げた後各町内に帰ります。

参考までに今年の船待神社例大祭の行事次第を掲載します。

2009年 船待神社例大祭の行事次第

9月15日(火)
午前10時 宵宮祭祭典 本殿/午前10時30分 秋季例大祭祭典 本殿

9月18日(金)
午前9時 獅子舞 地区ご家庭廻り/午後9時 ふとん太鼓 宮入祈祷

9月19日(土)
午前9時 獅子舞 地区ご家庭廻り
午前11時 田実神事祭典 本殿
午後4時15分 獅子踊りパレード 紀州街道/午後5時15分 宮入り
午後7時 ふとん太鼓三台担ぎ合い 土居川筋/午後9時 ふとん太鼓宮入

9月20日(日)
午前8時 獅子舞 地区ご家庭廻り
午前8時30分 子供ふとん太鼓パレード 紀州街道/9時 宮入り
午前10時30分 ご神幸 遷御祭 境内/11時 渡御出発
午後1時 ふとん太鼓宮出し
午後2時 子供獅子踊り奉納 境内
午後2時30分 渡御祭 御旅所
午後3時 渡御着輿 還御祭 境内
午後7時 ふとん太鼓 ご陵前〜各地区へ 

 

御旅所


1912(大正元)年大日本帝国測量部地図(1909年測量)の堺、湊村付近、出島漁港の推移(彩色は加筆)

 緑色の線は左から当時には無かった阪神高速4号湾岸線、旧国道26号線(府道34号線)、阪堺線を加筆しています。また、薄い水色の着色は当時の海面と環濠、濃い水色の点線は昭和初期からの出島漁港、濃い水色は現在の海面で主に出島漁港です。

 船待神社(右下の赤色)の御旅所(左上の赤色)は先に書きましたように現在は出島漁港(左上の濃い水色)の先にあります。上図の1912(大正元)年の地図では海上になってしまいますが、これは大阪湾の埋め立てによるものです現在の衛星写真地図

 この辺りの神社の御旅所は何れもかっての海辺に設けられていて、例えば開口神社は芦原御旅所(衛星写真地図、菅原神社は七道ヶ浜(衛星写真地図と北波止(衛星写真地図にあります。これは神々が海から来られたという伝承と関係が深いものでしょう。また各神社の社殿も海を望む西に向いています。

 船待神社の御旅所も出島浜、また出島漁港にあったといわれています。出島漁港は現在は大きいのですが、昨日掲載した1887(明治20)年地図にはまったくその姿は無く遠浅の浜が続いているだけです。そこで明治、大正、昭和と地図を重ねて出島漁港の位置を確かめてみますと上図のようになりました。
 1912(大正元)年地図では南海本線が開通していて、その湊駅の西に浜を開削して船溜り(薄い水色)ができていました
衛星写真地図。(現在は埋め立てられて出島海岸通り1丁11の住宅地になっています。)
 1924(大正13)年に国道26号線(現在の大阪府道34号線)建設の影響でその国道の西(濃い水色の点線部分)へ移動しました
衛星写真地図。(現在は埋め立てられて出島浜通1の堺市下水道部とグランドになっています。)
 その後1958(昭和33)年から堺泉北臨海工業用地造成事業が始まり、1962(昭和37)年に現在の出島漁港(濃い水色)が完成すると御旅所も埋立地に動座(移転)し現在に至ります
衛星写真地図。船待神社の御旅所は海辺を追って現在の所に移動していったものと思われます。

 


 

高田誠三写真展


高田誠三写真展「憧景響く」 富士フィルムフォトサロン大阪 2009.9.25 撮影:今駒清則

2009年9月25日
 シルバーウイークと呼ばれる大型連休は撮影に出かけても人出と渋滞でまずは仕事にならないので撮影目的の下調べに専念。それに休息をたっぷり。これからは良い季節になるので出かけることが多くなると思います。

 今日から富士フィルムフォトサロン大阪で高田誠三写真展「憧景響く」です。夕刻からは祝賀会もあり出席。300人を超す方々で大盛会。高田誠三氏もお元気な姿を見せ、久しぶりにお会いしてご挨拶。閉会まで沢山の方と懇談し良い時間を過しました。高田氏の写真展は10月1日(木)まで大阪、その後9日(金)から15日(木)まで東京展です。(追記:9月22日読売新聞記事「心に響く風景写真60点 25日から高田誠三さん作品展」

 


 

木星と月


木星と宵月 2009.9.28 19:21 撮影:今駒清則

2009年9月28日
 またまた締切近しの原稿でここが手付かずになっています。
 上の写真は28日に雨雲の隙間から見えた木星と月でかなり近づいています。30日の夜が最も接近して大阪では木星が15時27分、月が15時31分に昇ります(実際は明るくて見えませんが)。日没は17時44分ですからその後にランデブーが見えることでしょう。悪いお天気の予報ですが少しでも晴れてくれるのを祈るばかりです。

 


 

ボラの子


ボラの子 2009.9.19 撮影:今駒清則

2009年9月30日
 秋の長雨、というような季節になってきました。木星と月が大接近しているはずですが雨雲で見えません。まあ時々ありますからまたの機会に。

 汽水域の川面にボラの子供が群れています。季節的に何時が多いというようなことは無いようでいつもいます。最も多い時はビッシリと埋め尽くして川が沸騰しているように見えることがあります。この辺りの環境では食べるような魚では無いのですが、よく見るとなかなか美しい姿をしています。

 


8月 09年9月 10月