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近況 2009年10月


 

10月1日


秋見えた 2009.10.1 撮影:今駒清則

2009年10月1日
 衣替えですが今までの雨続きの日が一転、入道雲が次々と生まれる夏日になりました。ただ台風などの影響でまたお天気は悪くなるようです。この9、10日の飛騨・高山祭にはどうしても回復してほしいものです。

 


題目立の厳島 (「大地の能」から) 撮影:今駒清則

 今日はニュースから。29日に発生した地震でサモア、トンガに大津波、救援が必要読売新聞記事、30日インドネシアでまたまた大地震、まだ多数の生き埋め読売新聞記事と大変な災害のニュースで、いち早い国際組織の救援体制を整備してほしいとつくづく思います。

 明るいニュースでは広島県福山市鞆の浦衛星写真地図の埋立・架橋工事事業を差し止める地裁判決があった読売新聞記事ことで、実に嬉しい知らせです。何度か行っていますし、あの歴史と景観の素晴らしい町が壊されることに心痛めていたのですが、「鞆の浦の景観は歴史的・文化的価値を有し、国民の財産というべき公益で、事業が完成した後に美的景観を復元することは不可能」読売新聞判決要旨記事pdfアーカイブと初めて景観価値を認めての判決、工事は何とか別な方法を考えていただいて地元の方の生活面をフォローする工夫をし、素晴らしい鞆の浦を守っていただきたいものです(鞆の浦の写真がすぐに出せませんでしたのでまたいずれ掲載します)。これは鞆の浦だけでなく、各地に存在する町並み保存の運動に対して大きな力になりますが、同時にその地域への生活支援も国政レベルで考えなければならない問題も生じたということです。ただ、もっと考えなければならないのは、今の生活が過剰に便利で贅沢になってしまっているのではないか、それを当然として例えば温暖化を加速させているのではないかということです。昔ながらの生活がすべて良いとはいいませんが、質素で無駄が無かった昔の生活をベースに考えてみると、便利さを追い求めてできた何処にでもあるような現代の町づくりや生活がすべて良いとは思えません。古い町並みを歩いていて常に考えていることですが、まずは自分の生活の中で何ができるかということから考えたいと思います。

 それに大和の山村で伝え続けてきた「題目立(だいもくたて)」が「祇園祭の山鉾」などと共にユネスコの無形文化遺産に指定された読売新聞記事)(奈良新聞記事こと。私も数年間これに通いましたが、奈良市上深川(かみふかわ)衛星写真地図の八柱(やばしら)神社で毎年10月12日に奉納されます。日本芸能の原点の一つで、神事芸能と通過儀礼を併せ持ち、宮座制のなかで青年たちによって中世以来堅実に伝えられてきた貴重な行事です。その宮座もまだ村の中で息づいている証しでもあります。これも実に喜ばしいことでした。ただ研究者でないとこの芸能の価値は分からないので観光的になることは無かったのですが、これから話題だけで見物客が多くなり、結果今までの状況・環境が維持できなくなって形態が変化してしまうことを危惧します。これもこれからどう対応するのか難しいことです。なおこの芸能については私の「大地の能」も併せてご覧下さい。web Gallery の中の「能楽」に掲載しています。(読売新聞記事はwebに1年間掲載されていますが、その後は読売新聞データベースで検索してご覧下さい)

 


 

津堂城山古墳 発掘


藤井寺市 城山古墳全景 前方部 2009.10.3 撮影:今駒清則

2009年10月3日
 久しぶりに古墳の発掘調査現地説明会に出かけました。いつも何かの用事と重なって行けないことが多いのですが、今日は大変に興味深い内容ですし都合も良かったので幸いでした。
 出かけた城山古墳は藤井寺市の古市古墳群の最北端にあり、4世紀後期と推定される初期大型前方後円墳です。二重の濠を持ち、その周縁をそのままの形で道路が通るその道を良く通りますのでなじみのある古墳です。衛星写真地図からも前方後円墳と、今は住宅地化されていますが周濠がよく確認できるところです。またその内濠にあった方形の推定祭壇遺跡から水鳥の埴輪が出土したことでも有名です。この古墳は後円部頂上以外は公園化もされていて自由に立ち入りでき、樹木も少ないのでかなり形は崩れているものの大型前方後円墳を歩いて実感できるところです。

 


藤井寺市 城山古墳 一段目斜面の葺石 2009.10.3 撮影:今駒清則

 内濠(写真上部)から立ち上がる墳丘の一段目斜面が川原石で葺かれているのがそのまま残っていました。

 


藤井寺市 城山古墳 テラスの円筒埴輪 2009.10.3 撮影:今駒清則

 その上の平らになったテラスの中央に上部が壊れた円筒埴輪が約40cmの間隔で並んでいます。これも埴輪列の原状を留めています。

 


藤井寺市 城山古墳 二段目の斜面 2009.10.3 撮影:今駒清則

 テラスから二段目への斜面にも葺石がそのまま残されていました。斜面下には基底石もあります。写真上部は後円部の墳丘です。この位置の発掘調査では二段目以上は中世の城塞構築によるものや、大和川工事の採土などによって往時の状況は壊されていてあまり確認はできないとのことでした。この二段目斜面の上部は城塞による削平です。

 


藤井寺市 城山古墳 二段目斜面の葺石 2009.10.3 撮影:今駒清則

 その二段目斜面の葺石です。これから想定するとこの城山古墳も全面に石を葺いた古墳だったようです。往時の様子は復元された神戸市垂水区の五色塚古墳と重ね合わせれば、およそのイメージがつかめます。なお今まで墳丘は三段と推定されていましたが、今回の発掘で四段の可能性もあるとのことでした。

 


藤井寺市 城山古墳 中世城塞の石積み 2009.10.3 撮影:今駒清則

 この古墳は城山の名前の通り中世に小山城という城塞になっていました。ここの地名に後円部が「本丸」、前方部が「二の丸」、その南が「三の丸」、津堂八幡神社付近が「四の丸」という小字が残っていて、古墳西方が居館と推定できるとのことです。城造りのために古墳の中段は削平され改造されているため古代遺構は損なわれていますが、城塞の形態はかなり残っていて、これは城郭研究にとっては新しい発見になるとのことです。

 追記:近畿で開かれた考古学関連の現地説明会の資料や写真等を公開されている「現説公開サイト」に、この城山古墳を掲載予定だそうですので、現地説明の詳細はそちらでご覧下さい。

 


「大和川付け替え工事展」 松原市民ふるさとぴあプラザ 2009.10.3 撮影:今駒清則

 城山古墳見学の後、松原市の松原市民ふるさとぴあプラザで開催している「大和川付け替え工事」展へ。この会場は反正天皇の丹比柴籬宮伝承地にある柴籬神社の北に隣接しています。

 大和川の付け替えについてはこの「近況」でも再々採り上げていますが、1704(寶永元)年に洪水対策のために大和川を西へ付替えたその工事により、新川の川底になった河内の村々の意見書や嘆願書、また河川管理の命令書などの古文書、絵図などの展示です。新しい事実はあまり見ませんでしたが、実際の文書や絵図は実感がありました。現在問題になっている「八ッ場ダム」の住民の問題と同じことで、歴史は繰り返されるのです。またここには地域の古代から近世までの歴史をコンパクトに展望できる博物館があり、これはこれで良いのですが、歴史的に大きな遺産を持つ松原市へはもっと規模の大きい博物館を望みたいと思います。

 


中秋の名月 2009.10.3 撮影:今駒清則

 今夜は中秋の名月、朝は快晴でしたが午後からは雲が多くなり、夕刻に昇る月が雲間にわずか見えました。

 


 

アーカイブ 三十三観音


豊田市 性源寺 三十三観音 1960 撮影:今駒清則

2009年10月4日、日曜日
 所用があり豊田市へ日帰り。予定より早くに到着したので、以前から気になっていた所を探しに行きました。1960年に撮影した石仏が並んでいる写真ですが、ネガケースに撮影場所が書いていなかったので何処なのか覚えがありません。撮影したカットの前後からおよその見当をつけて心当たりの周辺を一巡。見かけたお寺に入りお尋ねすると多分近くのお寺ではないか、と教えていただきそちらへ。

 


豊田市 性源寺 三十三観音 2009.10.4 撮影:今駒清則

 近づくと写真と同じ風景が見えました。50年前とほとんど変わっていません。お寺は広川町の岡野山光照院性源寺(しょうげんじ)(衛星写真地図です。周囲はサッカーの豊田スタジアムなどができて大きく変貌していますが、お寺はあまり変化がないようです。普門示現(ふもんじげん)という、観音さまが三十三のお姿になって人びとを救済するという信仰が江戸中期頃から盛んになり、有名な西国巡礼だけでなく、このあたりでは三河三十三観音霊場などを始めとする霊場巡りもあり、霊場参詣が一ヶ所でできるためかなりのお寺に作られています。関西では四国八十八ヶ所と共に境内のあちこちに一体ずつ安置したりして巡りますが、こちらは一列に並んでいるのが多いようです。

 


豊田市 性源寺 三十三観音 2009.10.4 撮影:今駒清則

 時代は確認していませんがやさしくなかなか良いお姿から文化・文政期前後ではないかと推測しましたが、またお訪ねした時にでも確認をいたします。今回は割と簡単に謎が解けました。
 最近NHKで「遠い時代の面影を写した一枚の写真。写真の中の懐かしい風景を求めて、旅が始まります・・・。」というキャッチフレーズで「こんなステキなにっぽんが」という番組があり、また古地図などを片手に古蹟を歩くという「ブラタモリ」という番組も始まりました。10月8日は東京・上野辺りを歩く予告で、どちらもいつも私がしているのと同じことなので興味津々です。

 


 

JPS展 関西展 始まる

2009年10月6日
 京都市美術館で「JPS展」が始まりました。プロ写真家のテーマ展「日本の住」と、一般公募展の二本立てです。最近では公募「JPS展」の入選を目指す写真クラブができているほどの人気です。11日の日曜日までですが、台風18号は9日には通りすぎて台風一過の晴れになりそうですからどうぞお出かけ下さい。初日の今日開催された桑原史成氏の 講演会も200人を超える聴講の方で盛況でした。テーマ展「日本の住」にはささやかながら私の一点もあります。

 


 

台風の中を高山へ

2009年10月8日
 強い台風18号が近畿地方に接近し昨夜から強い風が吹いています。9、10日が飛騨・高山祭なので取材に出かける予定ですが、JR高山線の「特急ひだ」は運休のようで自動車で行くことにしました。
 台風の速度が速いので祭日は通過後になるので大丈夫ですが、台風が来る前に高山に向かうのか、通過してから行くのか悩むところです。飛騨地方の以前の台風災害を考えると、台風通過後ではもしかして行けない障害が起きるかもしれないので台風の前を走ることにし、高速道路が通行止めになっていないことを確認して、南紀地方に台風上陸の予想からそれの3時間ほど前の午前0時頃に大阪を出発、さすがに強風と時々強い雨が降っていて高速道路は50キロ規制ですが走行にはなんら支障はありません。関ヶ原を過ぎると台風をおいてきぼりにしたようでそれから先も何事もなく、ゆっくり休みながらのんびり走って午前6時に高山着。約320キロでした。秋の高山祭の本宮である櫻山八幡神社近くに住まいする友人の映像作家・古滝雅之氏宅に今回も厚かましくも居候。朝早くから快く出迎えていただきありがたいことです。早速八幡さまに参拝。のち一休み。

 

鍋山


飛騨・高山 鍋山 2009.10.8 撮影:今駒清則

 台風は東にそれて高山はおだやかな天候。高山祭撮影のためのロケハンに出かけました。途中から北山公園衛星写真地図へ登り市内を俯瞰。この北山公園は史跡指定はされていないものの戦国期の鮎崎城跡(「近江の城郭・岐阜・鮎崎城」)で、その眼で見ると主郭、曲輪などが良く残っている山城です。ここから西方の市内を望み、宮川の向こうに見える山はこれも戦国期の松倉城跡のある松倉山衛星写真地図。転じて東を見るとスポットライトを浴びたように大鍋山と小鍋山衛星写真地図が見えました。ここにも戦国期の鍋山城跡があります。もちろん街の南には有名な城山衛星写真地図があり、高山城跡があるのは論を俟ちません。このように高山周辺には古城の跡も数多くあり、古い町並みだけでなく眼を広げれば歴史的にも価値のある所が多いのです。

 


飛騨・高山 上三之町の町並み 2009.10.8 撮影:今駒清則

 ご神幸の順路を一通り巡ってロケハン。幾つかの撮影ポジションを決め、夕刻に安川通りから古い町並みの続く上三之町衛星写真地図を見ると台風の影響なのか人通りもなく静かな佇まいでした。でも明日の高山祭には歩くのも苦労するほどの人出になることでしょう。

 


 

秋の高山祭 9日


高山祭 表参道の屋台 2009.10.9 撮影:今駒清則

2009年10月9日
 
櫻山八幡宮の秋祭、高山祭。いつものように各町から曳き出された屋台が表参道(地元では記念道路と呼びます)(衛星写真地図に並びます。台風の名残か空は雲が厚いのですが時々日が射して煌めきまぶしいほどです。おなじみの写真ですがやはり欠かせません。

 


高山祭 子ども警固 2009.10.9 撮影:今駒清則

 子どもたちの行列が幼稚園から出発しました。警固(けご)役もちょっと緊張してますがそれなりに一人前です。横に付くお母さんの方が必死です。

 


高山祭 子ども屋台 2009.10.9 撮影:今駒清則

 子どもたちの曳くミニ屋台も巡行します。小さい子たちはお散歩車に乗って行列に参加です。祭の伝承にはとても良いことです。

 


高山祭 中新町を行く「宝珠臺」 2009.10.9 撮影:今駒清則

 9日だけ屋台が昼巡行します。中新町、大新町衛星写真地図の家並の間から大亀と宝珠を戴いた「宝珠臺」(亀屋台)が見えました。

 


高山祭 「仙人臺」 桜橋の曳き別れ 2009.10.9 撮影:今駒清則

 夕刻からは屋台に提灯をつけて巡行し安川通り衛星写真地図へ並びます。宵祭のクライマックスです。昼の屋台よりみやびな雰囲気です。朱塗りの桜橋衛星写真地図で曳き別れて屋台蔵へ帰ります。祭提灯の灯だけになった下三町の古い町並みにゆらゆらと揺れる屋台の提灯。ゆったりとした時間が流れています。

 


 

秋の高山祭 10日


高山祭 布引橋を渡る「鳩峯車」 2009.10.10 撮影:今駒清則

2009年10月10日
 朝、各町から出た屋台は今日も櫻宮八幡宮の表参道に曳き揃えられます。高山の中心を流れている江名子川南の町内の屋台は古い町並みが残る下三町から布引橋を渡って表参道へ向かいます。

 


高山祭 越中街道の御神幸 2009.10.10 撮影:今駒清則

 昨日も御神幸が少しありましたが、今日は朝早くから町内をくまなく巡幸します。高山から越中へ通じる越中街道の大新町でも人びとが御神幸をお迎えに出ています。

 


高山祭 日下部邸付近の獅子舞 2009.10.10 撮影:今駒清則

 御神幸前方の獅子舞が各戸を訪れて舞います。飛騨地方独特の意匠の獅子です。

 


高山祭 御神幸の警固  2009.10.10 撮影:今駒清則

 御神幸の列には臺名旗を立てた代車を連ねます。本来は屋台の巡幸なのですが現在では代車になっています。何年に一度かで良いので部分的にでも屋台巡幸となれば祇園祭に勝るとも劣らぬ祭礼になると思うのですが。代車の付近には一文字笠に裃姿の警固が粛々と付き添います。警固は町内氏子の出仕で数年に一度は務めますので、身に着ける裃や一文字笠、白扇、印籠、杖、紙緒草履などは皆常に用意しています。

 


高山祭 越中街道の宮地家前 2009.10.10 撮影:今駒清則

 越中街道の宮地家(左の家)前を行く御神幸、今は屋台を持たない町内からも代車は出ます。

 


高山祭 吉島家前の御鳳輦 2009.10.10 撮影:今駒清則

 日も傾いた頃、御神幸は古い町並みの大新町の吉島家日下部邸家を通り、一旦宮川を渡って宮前橋から櫻山八幡宮に御還幸されます。時代を超えた祭に魅了された一日でした。

 


 

飛騨・高山の歴史散歩

2009年10月11日、日曜日
 高山祭が盛大に終わり飛騨は秋めいてきました。台風の影響か、祭の最中は大変に寒く、地元の方々もそれぞれに口にしておられましたが今日もその寒さは続いています。今日は前から気になっていた所の歴史散歩に出かけました。

 

飛騨・高山 万人講

 越中街道(鰤街道)が宮川を渡る町並みの端の河原には、明治に編まれた「飛騨編年史要」に1675(延宝3)年に大飢饉があり、「飛騨前年に続き飢饉。大凶荒。高山城下餓死するもの数万に及ぶ。」と記されている犠牲者を埋葬したので万人坑と言われていました。また遊女を葬ったり、罪人を処刑したりもしたところです。いま万人坑は万人講と呼ばれています。


飛騨・高山 万人講付近の宮川の河原 2009.10.11 撮影:今駒清則

 今は幹線が走り住宅地になっていますが、そこにはこれらを悼む供養塔などが数多く建てられています。衛星写真地図

 


飛騨・高山 万人講 大原騒動処刑者供養石塔 2009.10.11 撮影:今駒清則

 その一角には大原騒動(1771〜1788)でここで処刑された義民を追悼し「南無三世諸仏」と刻んだ1796(寛政8)年建立の大きな石塔もあります。

 


飛騨・高山 万人講の六地蔵 2009.10.11 撮影:今駒清則

 墓地に常に立たれている六地蔵の一体、ほかの地蔵尊の光背には寛政十□年の銘があります。近くの万人橋の架設や周辺歩道の整備で昔の場所からは再々移動させられました。

 


 

飛騨・高山 東照宮・松泰寺の能舞台

 「高山市史」に東曜山松泰寺には能舞台があったことが記録されていましたので訪れてみることにしました。今は松泰寺は無く東照宮のみで飛騨東照宮と呼ばれていますが、地元では東照宮より松泰寺の方が通りが良いようです。衛星写真地図

 高山の能舞台は「市史・下巻」によれば、高山城内二之丸にあった金森家六代頼時の母・庭樹院の屋敷内に能舞台があり、元禄年間の「庭樹院殿屋敷図」には能舞台や鏡の間が描かれています。< 高山市史編纂事業 > 高山城下町絵図の(40)「二之丸庭樹院殿屋敷平面図」を参照>。
 その位置は高山城二の丸公園駐車場の最奥の遊具がある辺りになります。

 金森氏は1692(元禄5)年、金森頼時の時に出羽国上ノ山に転封となり、107年続いた金森氏の高山統治が終わりました。なおこの年に頼時、庭樹院によって松泰寺が勧請されて建立されています。
 その後高山は幕府直轄となり、高山城は1695(元禄8)年に徹底的に破却され、庭樹院の屋敷も取り壊されたので能舞台も失われました。
 この能舞台はこの時に庭樹院と縁の深い松泰寺、または他へ移築された可能性はありますが不明です。仮に松泰寺に移されたとしても、代官、郡代が治めた高山では大名の藩と違って、能楽が公式行事として催される機会は少なかっただろうと思われます。

 松泰寺にあった能舞台は何時建立されたのか分りませんが、「市史」の記録だけ見ると1818(文化15)年4月15日の東照宮大改修の翌年の4月17日に、
「御宮御祭礼参詣、今年も諸寺院拝礼之儀御沙汰に付去年之通罷出候也、御祭礼朝之間管絃有之、晝より能狂言有之候」(「加藤歩簫記(紙魚(しみ)のやとり)」 注:加藤歩簫(1743〜1828)
とありますので1818(文化15)年の大改修の時の建立ではないかとも考えられます。さらに「市史」には
「毎年4月17日高山西郊松泰寺の東照宮例祭に際し、奉納能楽の挙式があって、代官或いは郡代等の高山陣屋の首脳を始め、一般同好者の非常な熱意を以て鑑賞したものであった。」
とあり、その後
「1831(天保2)年3月に松泰寺の能舞台を修繕した。」(「松泰寺能舞台普請日記」)
「1836(天保7)年の東照宮祭礼には高山の者のみで能舞した」
ともあります。

 しかし明治以後は他の寺社・各所での演能の記録が少しあるものの、ここで能楽が催された記録は見られないので、徳川幕府の大政奉還による東照宮の衰退、「神仏分離令」などによる松泰寺の廃寺など何らかの影響を受けて能楽堂は失われたものと思われます。詳しくは「陣屋文書」「町年寄日記」などの古文書などにあたらないとわかりませんが、そのことはそれぞれの専門家にお任せすることにしましょう。

 


飛騨・高山 東照宮神楽殿 2009.10.11 撮影:今駒清則

 松泰寺が廃寺となり、東照宮と名称を変えた今でも高山ではここを松泰寺と呼ぶことの方が多く、春秋の行楽の名所になっています。松泰寺の資料も乏しく絵図も無いままで出かけたので境内をくまなく観察しましたが、もちろん能舞台は無く、多分そこにあったであろうと思われる所には神楽殿がありました。
 ここでは春の例大祭には「湯立」や「神楽」のほか「神楽獅子」や「おかめ舞」を奉納するようで、そのための舞台になるのでしょう。外見しただけですが柱が細く能舞台の構造にはなっていませんので能舞台を継いでいるとは思えませんが、いずれもっと調べて見たいと思います。
(追記:2008年4月の「氏神百年記念大祭」で神楽殿のおかめ舞などが「カズランアルバム」に記録されていて、神楽殿内部の様子もわかりますので紹介します。)

 


飛騨・高山 東照宮 本殿と中門 2009.10.11 撮影:今駒清則

 東照宮は境内の長い石段を登りきったところにあります。1619(元和5)年に金森重頼が高山城外に「東耀山御宮」という東照権現を祀って以来、金森氏の篤い加護を得ていましたが、1692(元禄5)年に金森氏の転封と共に東照権現は移り、1758(宝暦8)年の郡上一揆騒動で金森家が断絶となると高山へ帰り、松泰寺で東照権現を祀っていましたが寺は衰退し荒廃していました。その様子から江戸住の金森家が高山の御役所、有力商人の協力を得て大改修し、1818(文化15)年4月15日に東照宮が落成、17日の例大祭を迎えましたがその日は大雨が降った、と「紙魚のやとり」は記録しています。またその時に高山を築いた初代藩主・金森長近を祀る金龍神社も造られました。これが現在見られる東照宮です。この時の普請大工は水間相模他11人、いわゆる純粋な権現造ではなく、またきらびやかな装飾もない社殿ですが細部には飛騨の匠の技が見えます。

 


飛騨・高山 東照宮の透塀 2009.10.11 撮影:今駒清則

 その一つに透塀があります。本殿や中門の控えめながらも江戸期の仰々しい装飾でなく、すっきりとした銀杏すかしの意匠は見事なものです。

 


飛騨・高山 東照宮 稲荷社・菅公廟 (元薬師堂、また本地堂) 2009.10.11 撮影:今駒清則

 明治の廃仏毀釈により松泰寺は解体され、不動明王像は国分寺へ、聖観音菩薩像は霊泉寺などへ移されましたが、佛堂は内部を改修して社殿に転用、本地堂は稲荷社、菅公廟に、山門は金龍神社神門に、庫裏と客殿は社務所として現存しています。廃仏毀釈の影響を間近に見られる好例でもあります。なお松泰寺墓地には飛騨に馬鈴薯を輸入したといわれる代官幸田善太夫の墓があり、また北にある小糸坂には御庭焼の小糸焼の釜跡があります。

 


 

松倉観音堂

 東照宮・松泰寺は松倉山の麓近くにあり、松倉山山中には松倉観音堂衛星写真地図と松倉城衛星写真地図があるので行ってみました。松倉観音堂は馬頭観音さまをお祀りしていて、かっては近郷の養蚕農家の信仰が厚く、また付近で町といえるのは高山だけで周りは農山村ですから農事の働き手だけでなく荷を担って飛騨の山道を越えるのにも牛馬は欠かせません。大事な家族と同じですから健康で働いてもらえるようにこれも松倉観音堂に祈願しました。

 


飛騨・高山 松倉観音参道の馬頭観音石佛 1829(文政12)年 2009.10.11 撮影:今駒清則

 松倉山の道端にも馬頭観音さまが参詣の人の安全を見守っていました。細面のやさしいお顔です。

 


飛騨・高山 松倉観音堂への参道山道 2009.10.11 撮影:今駒清則

 8月9日、10日の松倉観音のお祭に昔は牛馬をつれて参詣したといいます。この整備された参道の山道のほかにも険しい山道があります。

 


飛騨・高山 松倉観音 奉納の幡  2009.10.11 撮影:今駒清則

 いまは牛馬の代わりに絵馬で祈願をします。8月に入ると松倉観音堂だけでなく高山の市内でも絵馬市が開かれます。

 


飛騨・高山 松倉観音堂 2009.10.11 撮影:今駒清則

 岩窟の普門院に馬頭観音さまが祀られていますが、8月9日のお祭には高山の素玄寺から三面八臂のご本尊が登ってこられ法要が夜通し行われます。そこで絵馬をいただき家に掲げます。いまでは高山の商家に欠かせない歳事です。

 


 

松倉城

2009年10月11日
 松倉山の松倉観音堂を下って東の山に登ると松倉城跡
衛星写真地図があります。永禄年間(16世紀中期)に三木自綱が築き、後に金森長近に攻められて落城。高山を築いた金森氏の高山城に相対してあり、高山の町や西方がよく見えるために出城として再構築されたと思われます。

 

飛騨・高山 松倉城図(現地看板)

 

 松倉観音堂から登る山道は搦手口になります。最初に出会う立派な石垣は三の丸の北西角の石垣で、それを過ぎると三の丸で、本丸の帯曲輪(外曲輪)の高い石垣が前を塞ぎます。

 


飛騨・高山 松倉城跡 三の丸の南側石垣 右上は本丸 2009.10.11 撮影:今駒清則

 頂上部を平坦に削平した南外側が三の丸と二の丸になります。通常ここは広く造られるのですが、山が急峻なためかさほど広くはありません。しかしいずれも側面は堅固な石垣で固められています。

 


飛騨・高山 松倉城跡 本丸外曲輪の石垣 2009.10.11 撮影:今駒清則

 本丸の南と西の周りには中段に帯曲輪を造って防御しています。本丸の北側は急峻な斜面となっているので帯曲輪は造られていません。本丸に入るにはこの帯曲輪を通って上がることになります。

 


飛騨・高山 松倉城跡 本丸 南側の石垣 2009.10.11 撮影:今駒清則

 本丸の石垣は帯曲輪も含め周囲を高石垣で固めていて見事です。本丸もさほど広くはありませんが見晴らしは良く三等三角点があります。東側が大手口になるため二の丸の南東の尾根筋に削平した虎口跡があり、門があったのではないかと思われます。また本丸の北東尾根にも出丸風の場所が散見されます。

 


飛騨・高山 松倉城二の丸跡から高山を望む 2009.10.11 撮影:今駒清則

 松倉城跡からは高山の町が一望できます。写真左下は櫻山八幡宮と北山、右端下は高山城跡の城山、遠くに乗鞍などの北アルプスが見えます。絶景と言えるでしょう。
 高山城は廃城の時に石垣までも取り壊し今は僅かな痕跡しか残していないのですが、この松倉城はかなり高い山頂に造られているにもかかわらず、立派な石垣や、わかりやすい縄張りがほぼそのままの姿で保存されており、高山の戦国、江戸初期の史跡としてもっとクローズアップされて良いと思います。

 


 

久しぶりの雷さん


雲間の雷光 2009.10.14 撮影:今駒清則

2009年10月14日
 夕刻に遠い西の空がピカピカと光ってきました。所用があって出かけていたのですが丁度キリの良いところだったので急いで帰宅。帰り着くと同時に雨と雷さんの襲来。今年は何時になく雷さんが少なかったので久しぶりの撮影です。今日のは高い空を飛び回る様子で落雷は少なく、雷雲は一時間ほどで東の方へ去って行きました。

 


 

虹の出た日


虹 2009.10.17 15:35 撮影:今駒清則

2009年10月17日
 時々雨雲が通りすぎますがさほど悪いお天気ではないので、出かけようと思うと雨が降ってきます。何度かそんなことがあって外に出てみると突然の雷鳴。分厚い黒雲からドロドロと鳴り響いていますが雷光はありません。また引き返してデスクワーク。傾きかけた太陽の陽射しが突然に射してきたので北東を見るとやはり虹がかかっていました。

 


虹 2009.10.17 15:44 撮影:今駒清則

 さほど珍しいものではないのですがそれでも何となく嬉しい気分。20分ほどで消えていきました。

  


 

京都


御所の空 2009.10.18 撮影:今駒清則

2009年10月18日、日曜日
 舞台撮影で京都へ。紅葉にはまだ早いので人出もさほどではありません。能は金剛流「豊春会」、「烏帽子折」豊嶋幸洋、能にしてはドラマチックな内容であまり上演されない曲。「乱」豊嶋三千春は古希記念の祝言曲、金剛流猩々の独特な足遣いが見もの。楽しい舞台でした。終了後まだ明るいので金剛能楽堂の前の京都御苑
(京都御所)をカメラ散歩。空が開けているのは気持ちの良いものです。御苑でいくつか興味深いものがありましたが、内容を少し調べてからいずれ掲載しましょう。
 ここ数日はオリオン座流星群が見えるので東の空にカメラを向けてみましたが、残念ながら雲が多く流星は見えませんでした。

 


 

夕月


夕焼けの夕月 2009.10.21 撮影:今駒清則

2009年10月21日
 ここしばらく高山取材の整理や新しく湧いてきた疑問などの調べ事で忙しくしています。ここにも少しですが高山記事は追加掲載します。
 この頃は夕焼けがきれいですね。景色の良いところへ行って撮影すると良いのですがなかなかできません。月が三日月から夕月になり、朝昇って夕方に沈んでいます。夕方にしか月が見えないのですが今日は夕焼け雲の間に顔をのぞかせました。
 この30日は十三夜です。10月に「中秋の名月」と「後の月」が見られるのはあまりないので月見の当たり月です。

 


 

見事な太陽柱


太陽柱 2009.10.22 17:23 撮影:今駒清則

2009年10月22日
 日没前に東の空が夕焼け、生駒山と夕焼け雲というなかなか無いチャンスで、これを撮影していて振返ってみると西の空には見事な太陽柱。この季節には珍しい現象ですし私が見た中では最大の太陽柱。すぐに撮影をしたのですが数カットで消えていきました。もう少し早く気がついていたら、と悔やまれるのですがそれでもなんとか撮影はできました。
 この「近況」に飛騨・高山取材の幾つかを掲載しています。「高山祭」「万人講」「松泰寺の能舞台」を今日までにアップしました。まだこれから「松倉観音」「松倉城」も掲載を予定しています。
 8月から掲載写真のサイズを大きくしましたが、最近さらに大きく見えるのにお気づきになったでしょうか。写真の縦横の比率を今までの3:2から4:3に変更しましたので短辺が大きくなり、面積比で1.125倍も大きいのです。さらに8月以前の掲載写真と比べると約2.5倍の大きさになっています。

 


 

2009年10月26日
 やっと飛騨・高山の歴史散歩を遡って掲載しました。その代わり日々更新が暫く停まってしまいました。

 


 

月と木星の接近


月と木星が接近 2009.10.27 17:45 撮影:今駒清則

2009年10月27日
 昨日は台風の影響で一日雨でしたが、台風はかなり東を通過して今日は快晴の一日になりました。夕方に宵月と木星が接近しているのが見えたので撮影、右下にポツンと見えるのが木星です。次に接近するのは11月23日、関心のある方は「はまぎんこども宇宙科学館 /(財)横浜市青少年育成協会」の「月と木星の接近表」をご覧下さい。その後は雲に隠れてしまいましたが夜半にまた顔を出しました。

 


宵月 2009.10.27 撮影:今駒清則

 そこでまた撮影して掲載のために写真の処理をしているうちに、明度調節の加減で上のような写真に。天文ファンには怒られそうなのですが、いつも輝いていてきれいな月なのに、これは宇宙に浮かぶ星の実像のように見えます。それになんとなく可愛い子どもが地球を見ているように見えませんか。

 


 

古書


飛騨・高山 櫻山八幡宮の蔵 2009.10.8 撮影:今駒清則

2009年10月29日
 飛騨・高山で歩いたり撮影していて分からなかったことなどを手持ちの書籍であれこれ当たっているうちに、参考文献として紹介されている書籍を読みたくなって、私には禁断のサイトながら「日本の古本屋」で探したところすぐに見つかり、さらに関連の書籍を検索したら良さそうな書籍や地図なども目に入ったので慎重に選んで注文、もっぱら大阪の図書館では見られない郷土出版や自家出版の書籍。先ほど配達されざっと眼を通したところです。良い本ばかりでした。
 明日の夜は十三夜、お月見ができると良いのですが。

 


 

十三夜


ズラリ! Canon EOS-1D Mark IV 2009.10.30 撮影:今駒清則

2009年10月30日
 JPS技術研究会で一ヶ月後に発売予定のCanon EOS-1D Mark IVをテーマにして開かれたので、会場の大阪・西梅田のキヤノンへ出かけました。最近は新機種発表にはweb上に詳細なデータが掲載されるので、昔のように新製品発表会へ出かけてカタログを入手し読む必要がなく、ご案内を頂いてもあまり出かけなくなりましたが、今日の研究会には開発技術者の方々が来られるとのことなので、技術者がどう写真に(カメラに)取り組んでおられるのかがお聞きできるからです。このカメラはプレスやスポーツ向きに作られているので、私の仕事用には今はあまり必要が無い機種ですが、新しい機種には新しい機能が盛り込まれてくるので、そのテクノロジーから将来の展開を知ることも大事なことなのです。会場にはご覧のようにその新製品のデモカメラがズラリ、試写ができます。良くできていますが最近はこのカメラがちょっと重く感じるようになりました。

 


十三夜 2009.10.30 16:55 撮影:今駒清則

 日没頃には十三夜の月が。雲に隠れてしまう前に撮影。今日は汗ばむほどの好天で夜も晴れるとは思いますが、良い時に押さえて(撮影して)おくのも写真家の心得の一つです、手前にススキなど入れると情緒が出るのですが、梅田のビル街にはススキは残念ながら生えていません。この後の月は「栗名月」とか「豆名月」と言うので、特別な月見飾りはしませんが「大福」を買ってその代わりとしました。名月を見ながらいただきます。

 


 

大曲 「花子」


茂山狂言会 「花子」茂山茂・七五三 2009.10.31 撮影:今駒清則

2009年10月31日
 大曲の「花子
(はなご)」の披きが京都の茂山家の狂言会でありました。人間国宝・千作の孫二人が演じます。狂言の数ある曲の中でも演じるのが大変難しい曲です。歌舞伎の「身替座禅」のもとになった曲といえばわかりやすいでしょうか。
 愛人の花子の所へ行くのに座禅をするからと妻に言って太郎冠者にさせ、帰ってから座禅をしている太郎冠者にその逢瀬のさまを聞かせたのですが、その太郎冠者は妻に代わっていた、という筋。逢瀬の様子や別れの情を情緒たっぷりに謡う中盤からが難しいのです。今日演じた茂山茂は汗が滴り落ちるこれ以上ない熱演でこころ打たれましたが、情緒の点ではさすがに若さが出ました。前々日には茂山宗彦が同じく「花子」を披きましたが、私は所用あって見ていませんのでそちらはどうだったのでしょうか。
 これに先だって22、23日に東京で演じているので京都では二度目の上演になります。また1月2日の「天空狂言」でも親世代の茂山七五三
(しめ)がこの「花子」を演じます。狂言人生でそう何度も演じることの無い「花子」の競演。こうやって親子・兄弟・従兄弟らが競い合って成長し、また円熟していくのを長年かけて見ていくのも楽しみです。そう言えば、先代千作から先日初舞台を勤めた竜正(たつまさ)・虎真(とらまさ)まで五代にもわたって茂山家の狂言を撮影させていただいていることになります。

 


京都・岡崎 疎水の待宵月 2009.10.31 撮影:今駒清則

 会場の京都観世会館を出ると目の前が岡崎の疎水です。川端の銀杏や桜が紅葉し東山には待宵月も上り水面でゆらめいています。京都もこれから紅葉の見頃です。

 


9月 09年10月 11月