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2009年10月1日
今日はニュースから。29日に発生した地震でサモア、トンガに大津波、救援が必要(読売新聞記事)、30日インドネシアでまたまた大地震、まだ多数の生き埋め(読売新聞記事)と大変な災害のニュースで、いち早い国際組織の救援体制を整備してほしいとつくづく思います。 明るいニュースでは広島県福山市鞆の浦(衛星写真地図)の埋立・架橋工事事業を差し止める地裁判決があった(読売新聞記事)ことで、実に嬉しい知らせです。何度か行っていますし、あの歴史と景観の素晴らしい町が壊されることに心痛めていたのですが、「鞆の浦の景観は歴史的・文化的価値を有し、国民の財産というべき公益で、事業が完成した後に美的景観を復元することは不可能」(読売新聞判決要旨記事/pdfアーカイブ)と初めて景観価値を認めての判決、工事は何とか別な方法を考えていただいて地元の方の生活面をフォローする工夫をし、素晴らしい鞆の浦を守っていただきたいものです(鞆の浦の写真がすぐに出せませんでしたのでまたいずれ掲載します)。これは鞆の浦だけでなく、各地に存在する町並み保存の運動に対して大きな力になりますが、同時にその地域への生活支援も国政レベルで考えなければならない問題も生じたということです。ただ、もっと考えなければならないのは、今の生活が過剰に便利で贅沢になってしまっているのではないか、それを当然として例えば温暖化を加速させているのではないかということです。昔ながらの生活がすべて良いとはいいませんが、質素で無駄が無かった昔の生活をベースに考えてみると、便利さを追い求めてできた何処にでもあるような現代の町づくりや生活がすべて良いとは思えません。古い町並みを歩いていて常に考えていることですが、まずは自分の生活の中で何ができるかということから考えたいと思います。 それに大和の山村で伝え続けてきた「題目立(だいもくたて)」が「祇園祭の山鉾」などと共にユネスコの無形文化遺産に指定された(読売新聞記事)(奈良新聞記事)こと。私も数年間これに通いましたが、奈良市上深川(かみふかわ)町(衛星写真地図)の八柱(やばしら)神社で毎年10月12日に奉納されます。日本芸能の原点の一つで、神事芸能と通過儀礼を併せ持ち、宮座制のなかで青年たちによって中世以来堅実に伝えられてきた貴重な行事です。その宮座もまだ村の中で息づいている証しでもあります。これも実に喜ばしいことでした。ただ研究者でないとこの芸能の価値は分からないので観光的になることは無かったのですが、これから話題だけで見物客が多くなり、結果今までの状況・環境が維持できなくなって形態が変化してしまうことを危惧します。これもこれからどう対応するのか難しいことです。なおこの芸能については私の「大地の能」も併せてご覧下さい。web Gallery の中の「能楽」に掲載しています。(読売新聞記事はwebに1年間掲載されていますが、その後は読売新聞データベースで検索してご覧下さい)
2009年10月3日
内濠(写真上部)から立ち上がる墳丘の一段目斜面が川原石で葺かれているのがそのまま残っていました。
その上の平らになったテラスの中央に上部が壊れた円筒埴輪が約40cmの間隔で並んでいます。これも埴輪列の原状を留めています。
テラスから二段目への斜面にも葺石がそのまま残されていました。斜面下には基底石もあります。写真上部は後円部の墳丘です。この位置の発掘調査では二段目以上は中世の城塞構築によるものや、大和川工事の採土などによって往時の状況は壊されていてあまり確認はできないとのことでした。この二段目斜面の上部は城塞による削平です。
その二段目斜面の葺石です。これから想定するとこの城山古墳も全面に石を葺いた古墳だったようです。往時の様子は復元された神戸市垂水区の五色塚古墳と重ね合わせれば、およそのイメージがつかめます。なお今まで墳丘は三段と推定されていましたが、今回の発掘で四段の可能性もあるとのことでした。
この古墳は城山の名前の通り中世に小山城という城塞になっていました。ここの地名に後円部が「本丸」、前方部が「二の丸」、その南が「三の丸」、津堂八幡神社付近が「四の丸」という小字が残っていて、古墳西方が居館と推定できるとのことです。城造りのために古墳の中段は削平され改造されているため古代遺構は損なわれていますが、城塞の形態はかなり残っていて、これは城郭研究にとっては新しい発見になるとのことです。 追記:近畿で開かれた考古学関連の現地説明会の資料や写真等を公開されている「現説公開サイト」に、この城山古墳を掲載予定だそうですので、現地説明の詳細はそちらでご覧下さい。
城山古墳見学の後、松原市の松原市民ふるさとぴあプラザで開催している「大和川付け替え工事」展へ。この会場は反正天皇の丹比柴籬宮伝承地にある柴籬神社の北に隣接しています。 大和川の付け替えについてはこの「近況」でも再々採り上げていますが、1704(寶永元)年に洪水対策のために大和川を西へ付替えたその工事により、新川の川底になった河内の村々の意見書や嘆願書、また河川管理の命令書などの古文書、絵図などの展示です。新しい事実はあまり見ませんでしたが、実際の文書や絵図は実感がありました。現在問題になっている「八ッ場ダム」の住民の問題と同じことで、歴史は繰り返されるのです。またここには地域の古代から近世までの歴史をコンパクトに展望できる博物館があり、これはこれで良いのですが、歴史的に大きな遺産を持つ松原市へはもっと規模の大きい博物館を望みたいと思います。
今夜は中秋の名月、朝は快晴でしたが午後からは雲が多くなり、夕刻に昇る月が雲間にわずか見えました。
2009年10月4日、日曜日
近づくと写真と同じ風景が見えました。50年前とほとんど変わっていません。お寺は広川町の岡野山光照院性源寺(しょうげんじ)(衛星写真地図)です。周囲はサッカーの豊田スタジアムなどができて大きく変貌していますが、お寺はあまり変化がないようです。普門示現(ふもんじげん)という、観音さまが三十三のお姿になって人びとを救済するという信仰が江戸中期頃から盛んになり、有名な西国巡礼だけでなく、このあたりでは三河三十三観音霊場などを始めとする霊場巡りもあり、霊場参詣が一ヶ所でできるためかなりのお寺に作られています。関西では四国八十八ヶ所と共に境内のあちこちに一体ずつ安置したりして巡りますが、こちらは一列に並んでいるのが多いようです。
時代は確認していませんがやさしくなかなか良いお姿から文化・文政期前後ではないかと推測しましたが、またお訪ねした時にでも確認をいたします。今回は割と簡単に謎が解けました。
2009年10月6日
2009年10月8日
台風は東にそれて高山はおだやかな天候。高山祭撮影のためのロケハンに出かけました。途中から北山公園(衛星写真地図)へ登り市内を俯瞰。この北山公園は史跡指定はされていないものの戦国期の鮎崎城跡(「近江の城郭・岐阜・鮎崎城」)で、その眼で見ると主郭、曲輪などが良く残っている山城です。ここから西方の市内を望み、宮川の向こうに見える山はこれも戦国期の松倉城跡のある松倉山(衛星写真地図)。転じて東を見るとスポットライトを浴びたように大鍋山と小鍋山(衛星写真地図)が見えました。ここにも戦国期の鍋山城跡があります。もちろん街の南には有名な城山(衛星写真地図)があり、高山城跡があるのは論を俟ちません。このように高山周辺には古城の跡も数多くあり、古い町並みだけでなく眼を広げれば歴史的にも価値のある所が多いのです。
ご神幸の順路を一通り巡ってロケハン。幾つかの撮影ポジションを決め、夕刻に安川通りから古い町並みの続く上三之町(衛星写真地図)を見ると台風の影響なのか人通りもなく静かな佇まいでした。でも明日の高山祭には歩くのも苦労するほどの人出になることでしょう。
2009年10月9日
子どもたちの行列が幼稚園から出発しました。警固(けご)役もちょっと緊張してますがそれなりに一人前です。横に付くお母さんの方が必死です。
子どもたちの曳くミニ屋台も巡行します。小さい子たちはお散歩車に乗って行列に参加です。祭の伝承にはとても良いことです。
9日だけ屋台が昼巡行します。中新町、大新町(衛星写真地図)の家並の間から大亀と宝珠を戴いた「宝珠臺」(亀屋台)が見えました。
夕刻からは屋台に提灯をつけて巡行し安川通り(衛星写真地図)へ並びます。宵祭のクライマックスです。昼の屋台よりみやびな雰囲気です。朱塗りの桜橋(衛星写真地図)で曳き別れて屋台蔵へ帰ります。祭提灯の灯だけになった下三町の古い町並みにゆらゆらと揺れる屋台の提灯。ゆったりとした時間が流れています。
2009年10月10日
昨日も御神幸が少しありましたが、今日は朝早くから町内をくまなく巡幸します。高山から越中へ通じる越中街道の大新町でも人びとが御神幸をお迎えに出ています。
御神幸前方の獅子舞が各戸を訪れて舞います。飛騨地方独特の意匠の獅子です。
御神幸の列には臺名旗を立てた代車を連ねます。本来は屋台の巡幸なのですが現在では代車になっています。何年に一度かで良いので部分的にでも屋台巡幸となれば祇園祭に勝るとも劣らぬ祭礼になると思うのですが。代車の付近には一文字笠に裃姿の警固が粛々と付き添います。警固は町内氏子の出仕で数年に一度は務めますので、身に着ける裃や一文字笠、白扇、印籠、杖、紙緒草履などは皆常に用意しています。
越中街道の宮地家(左の家)前を行く御神幸、今は屋台を持たない町内からも代車は出ます。
日も傾いた頃、御神幸は古い町並みの大新町の吉島家、日下部邸家を通り、一旦宮川を渡って宮前橋から櫻山八幡宮に御還幸されます。時代を超えた祭に魅了された一日でした。
2009年10月11日、日曜日
越中街道(鰤街道)が宮川を渡る町並みの端の河原には、明治に編まれた「飛騨編年史要」に1675(延宝3)年に大飢饉があり、「飛騨前年に続き飢饉。大凶荒。高山城下餓死するもの数万に及ぶ。」と記されている犠牲者を埋葬したので万人坑と言われていました。また遊女を葬ったり、罪人を処刑したりもしたところです。いま万人坑は万人講と呼ばれています。
今は幹線が走り住宅地になっていますが、そこにはこれらを悼む供養塔などが数多く建てられています。(衛星写真地図)
その一角には大原騒動(1771〜1788)でここで処刑された義民を追悼し「南無三世諸仏」と刻んだ1796(寛政8)年建立の大きな石塔もあります。
墓地に常に立たれている六地蔵の一体、ほかの地蔵尊の光背には寛政十□年の銘があります。近くの万人橋の架設や周辺歩道の整備で昔の場所からは再々移動させられました。
「高山市史」に東曜山松泰寺には能舞台があったことが記録されていましたので訪れてみることにしました。今は松泰寺は無く東照宮のみで飛騨東照宮と呼ばれていますが、地元では東照宮より松泰寺の方が通りが良いようです。(衛星写真地図) 高山の能舞台は「市史・下巻」によれば、高山城内二之丸にあった金森家六代頼時の母・庭樹院の屋敷内に能舞台があり、元禄年間の「庭樹院殿屋敷図」には能舞台や鏡の間が描かれています。<
高山市史編纂事業 > 高山城下町絵図の(40)「二之丸庭樹院殿屋敷平面図」を参照>。 金森氏は1692(元禄5)年、金森頼時の時に出羽国上ノ山に転封となり、107年続いた金森氏の高山統治が終わりました。なおこの年に頼時、庭樹院によって松泰寺が勧請されて建立されています。 松泰寺にあった能舞台は何時建立されたのか分りませんが、「市史」の記録だけ見ると1818(文化15)年4月15日の東照宮大改修の翌年の4月17日に、 しかし明治以後は他の寺社・各所での演能の記録が少しあるものの、ここで能楽が催された記録は見られないので、徳川幕府の大政奉還による東照宮の衰退、「神仏分離令」などによる松泰寺の廃寺など何らかの影響を受けて能楽堂は失われたものと思われます。詳しくは「陣屋文書」「町年寄日記」などの古文書などにあたらないとわかりませんが、そのことはそれぞれの専門家にお任せすることにしましょう。
松泰寺が廃寺となり、東照宮と名称を変えた今でも高山ではここを松泰寺と呼ぶことの方が多く、春秋の行楽の名所になっています。松泰寺の資料も乏しく絵図も無いままで出かけたので境内をくまなく観察しましたが、もちろん能舞台は無く、多分そこにあったであろうと思われる所には神楽殿がありました。
東照宮は境内の長い石段を登りきったところにあります。1619(元和5)年に金森重頼が高山城外に「東耀山御宮」という東照権現を祀って以来、金森氏の篤い加護を得ていましたが、1692(元禄5)年に金森氏の転封と共に東照権現は移り、1758(宝暦8)年の郡上一揆騒動で金森家が断絶となると高山へ帰り、松泰寺で東照権現を祀っていましたが寺は衰退し荒廃していました。その様子から江戸住の金森家が高山の御役所、有力商人の協力を得て大改修し、1818(文化15)年4月15日に東照宮が落成、17日の例大祭を迎えましたがその日は大雨が降った、と「紙魚のやとり」は記録しています。またその時に高山を築いた初代藩主・金森長近を祀る金龍神社も造られました。これが現在見られる東照宮です。この時の普請大工は水間相模他11人、いわゆる純粋な権現造ではなく、またきらびやかな装飾もない社殿ですが細部には飛騨の匠の技が見えます。
その一つに透塀があります。本殿や中門の控えめながらも江戸期の仰々しい装飾でなく、すっきりとした銀杏すかしの意匠は見事なものです。
明治の廃仏毀釈により松泰寺は解体され、不動明王像は国分寺へ、聖観音菩薩像は霊泉寺などへ移されましたが、佛堂は内部を改修して社殿に転用、本地堂は稲荷社、菅公廟に、山門は金龍神社神門に、庫裏と客殿は社務所として現存しています。廃仏毀釈の影響を間近に見られる好例でもあります。なお松泰寺墓地には飛騨に馬鈴薯を輸入したといわれる代官幸田善太夫の墓があり、また北にある小糸坂には御庭焼の小糸焼の釜跡があります。
東照宮・松泰寺は松倉山の麓近くにあり、松倉山山中には松倉観音堂(衛星写真地図)と松倉城(衛星写真地図)があるので行ってみました。松倉観音堂は馬頭観音さまをお祀りしていて、かっては近郷の養蚕農家の信仰が厚く、また付近で町といえるのは高山だけで周りは農山村ですから農事の働き手だけでなく荷を担って飛騨の山道を越えるのにも牛馬は欠かせません。大事な家族と同じですから健康で働いてもらえるようにこれも松倉観音堂に祈願しました。
松倉山の道端にも馬頭観音さまが参詣の人の安全を見守っていました。細面のやさしいお顔です。
8月9日、10日の松倉観音のお祭に昔は牛馬をつれて参詣したといいます。この整備された参道の山道のほかにも険しい山道があります。
いまは牛馬の代わりに絵馬で祈願をします。8月に入ると松倉観音堂だけでなく高山の市内でも絵馬市が開かれます。
岩窟の普門院に馬頭観音さまが祀られていますが、8月9日のお祭には高山の素玄寺から三面八臂のご本尊が登ってこられ法要が夜通し行われます。そこで絵馬をいただき家に掲げます。いまでは高山の商家に欠かせない歳事です。
2009年10月11日
松倉観音堂から登る山道は搦手口になります。最初に出会う立派な石垣は三の丸の北西角の石垣で、それを過ぎると三の丸で、本丸の帯曲輪(外曲輪)の高い石垣が前を塞ぎます。
頂上部を平坦に削平した南外側が三の丸と二の丸になります。通常ここは広く造られるのですが、山が急峻なためかさほど広くはありません。しかしいずれも側面は堅固な石垣で固められています。
本丸の南と西の周りには中段に帯曲輪を造って防御しています。本丸の北側は急峻な斜面となっているので帯曲輪は造られていません。本丸に入るにはこの帯曲輪を通って上がることになります。
本丸の石垣は帯曲輪も含め周囲を高石垣で固めていて見事です。本丸もさほど広くはありませんが見晴らしは良く三等三角点があります。東側が大手口になるため二の丸の南東の尾根筋に削平した虎口跡があり、門があったのではないかと思われます。また本丸の北東尾根にも出丸風の場所が散見されます。
松倉城跡からは高山の町が一望できます。写真左下は櫻山八幡宮と北山、右端下は高山城跡の城山、遠くに乗鞍などの北アルプスが見えます。絶景と言えるでしょう。
2009年10月14日
2009年10月17日
さほど珍しいものではないのですがそれでも何となく嬉しい気分。20分ほどで消えていきました。
2009年10月18日、日曜日
2009年10月21日
2009年10月22日
2009年10月26日
2009年10月27日
そこでまた撮影して掲載のために写真の処理をしているうちに、明度調節の加減で上のような写真に。天文ファンには怒られそうなのですが、いつも輝いていてきれいな月なのに、これは宇宙に浮かぶ星の実像のように見えます。それになんとなく可愛い子どもが地球を見ているように見えませんか。
2009年10月29日
2009年10月30日
日没頃には十三夜の月が。雲に隠れてしまう前に撮影。今日は汗ばむほどの好天で夜も晴れるとは思いますが、良い時に押さえて(撮影して)おくのも写真家の心得の一つです、手前にススキなど入れると情緒が出るのですが、梅田のビル街にはススキは残念ながら生えていません。この後の月は「栗名月」とか「豆名月」と言うので、特別な月見飾りはしませんが「大福」を買ってその代わりとしました。名月を見ながらいただきます。
2009年10月31日
会場の京都観世会館を出ると目の前が岡崎の疎水です。川端の銀杏や桜が紅葉し東山には待宵月も上り水面でゆらめいています。京都もこれから紅葉の見頃です。
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