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元旦、祝日。新しい年の夜明け前に満月の月食、時々雲がかかるもののとてもクリアな夜空。02時15分に半影食の始め、03時51分に部分食の始め、04時22分が食の最大(写真)、04時53分部分食の終わり、06時53分が半影食の終わりで、銀色だった月がすっかり黄色くなっていました。続いて07時12分に日の出、18分に月が隠れ丁度月と太陽が入替りました。撮影中は冷たい風で手が痛いのと、強い風に吹かれて望遠レンズの揺れがなかなか止まらず苦労しましたが、これが今年の撮影初めになりました。 3日、日曜日。今年のお正月は出かけることもなく、のんびりとデスクワークで過しました。昨日散歩がてらに古本屋まで出かけ、またも両手に重い本を提げて帰宅。新刊本にはあまり購入意欲が湧かないのに古本には魅力的な本が多いのはなぜでしょうか。その本たちの中に「東海道」を詳細に解説したものがあり、所蔵の本と併せてざっと読んでいるうちに以前から疑問に思っていたことへの一つのヒントが見つかりました。以下に地図上から見た謎解きです。
Google Mapの衛星写真から見ると不思議な家並が見えます。時々出かける京都市岡崎の能楽堂・京都観世会館への通り道にあり、三条通の東海道に面しています。古川町(現・地下鉄東西線・東山三条)附近の道を歩いていてもこのことは分からないのですが、衛星写真からははっきりと分かります。京都のように整然と区画された家並からすれば斜めになっていて不思議な並びですが、これは道が使われなくなって、そこに住宅が建てられたのだろうとまずは推測できます。 1690(元禄3)「東海道分間之図」部分 絵図の上方が北、左は東海道の終点の鴨川の三条大橋で、右へは粟田口から蹴上、大津へ続きます。三条通の東海道に沿って街道の家並が続いていますが、三条大橋から中央の白川までに北へ向かう道はありません。 1696(元禄9)年「京都大絵図」部分 同じ頃の絵図で白川を東海道が渡る左の古川町辺りから北へ斜めに延びる道があり、問題の道のように見えますが、以後の地図でわかりますがこの道ではありません。多分古川町を通る古川町通(若狭街道)のようです。 1862(文久2)年「新増細見京繪圖大全」部分 白川と東海道が交差する左が古川町で、古川町通(若狭街道)が北に延びています。この附近から蹴上までの道は三条通のほかに無いので斜めの道は見当たりません。 明治になって正確になった地形図にもこの斜めの道は見当たりません。またこの地図の測量時(1890年・明治23年)に完成した琵琶湖疎水やインクライン、1895(明治28)年に開催された内国勧業博覧会会場(後に平安神宮)や東山通もまだありません。 1913(大正2)年「京都市街全圖」部分 1913(大正2)年「京都市街全圖」部分 古川町付近 この地図では中央に赤い点線で、三条通から斜めの道が右端の蹴上まで通っています。この地図が作成された前年の1912(大正元)年8月に京津(けいしん)電気軌道が三条通の古川町から札ノ辻まで開通しているからです。つまり斜めの道は鉄道の跡であった訳です。この時の京津線は最短距離である三条通を通れない何らかの事情があり、三条通の家並の北裏に敷設されたようで遠回りになっています。ただしこの1913(大正2)年地図には三条大橋から古川町までの京津線の印があることで、そこに京津線が敷設されたのは1923(大正12)年のことですから変なのですが、地図に記載してある初版発行が1913(大正2)年で、その後に改定発行された地図と考えれば納得できます。 1913(大正2)年「京都市街全圖」裏面の京津電車広告 大正初頭の京津電車(京津電気軌道)の広告です。京都・大津間の賃金(運賃)が片道17錢、往復28錢となっています。京都の駅は三条大橋、古川町、応天門通(神宮道)、広道(岡崎)、蹴上の順で、大津へ続いています。 1924(大正13)年「京都衛戍地図」部分 京津線が三条大橋から開通した翌年の地形図で、京津線がわかり難いので赤の点線を加筆しました。また河川も着色しています。この「京都衛戍地図」はあまり正確でなく、京津線が三条通から斜めに北へ曲がっているはずなのに直角近くになっていて、これでは電車が曲がることができません。なお、三条大橋の西側に高瀬川の船入がまだ幾つか地図上に残っています。 1938(昭和13)年「京都陸測図」部分 問題の京津線は1931(昭和6)年に古川町から北へ曲がっていたのを三条通に移したため、京津線の跡は道路や住宅となり、すでにこの頃でも一部がたどれなくなっています。前の1890(明治23)年京都陸測地図と比較してご覧下さい。 5日、一昨日の京都の東海道に続いて、大坂から京都へ向かう「京街道」のスタート付近となる京橋から京橋駅付近までを考えてみました(京都からは「大坂街道」になります)。先日京橋駅付近を散策した時、京街道の痕跡を探したのですが、さすがに繁華街となった現在ではその名残がなかなか見られませんでした。それで手持ちの各種の地図で京街道の道筋を推定し、そのうちにこれでゆっくり歩いて見たいと思っています。 京街道は大阪城の北西にある京橋(公儀橋)を始点として京都に至る重要な街道ですが、まず寝屋川(旧大和川)の京橋を渡り、鯰江川と寝屋川に挟まれた片町を通って鯰江川に架かる野田橋(公儀橋)を渡り、鯰江川沿いに進んで、現在の京阪京橋駅付近で北上し、守口からさらに先は淀川に沿って京都に向かいます。
江戸時代初期の絵図で、下の大坂城京橋口から「京はし」を渡り、街道の片側に家並が並ぶことから片町と呼ばれた京橋片原町(後に相生西町、相生東町)を抜け、その先で鯰江川を渡りさらに右へ続く道が描かれています。
貞享の絵図ですが、大坂南部に新大和川が開削される以前のものですから「京橋」は「大和川」に架かっています。この「大和川」は現在の寝屋川になります。
元禄時代の絵図です。この絵図だけ読みやすいように東を上にしました。 (追記 「野田橋を渡った所に大きな建物がある」のは、このあたりに「大長寺」があったことが分りました。この「大長寺」は1912年(明治45年)に、北へ300m程の中野2丁目1へ移転し、その跡は実業家の藤田邸となり、現在では太閤園や藤田美術館などになっています。
江戸時代後期の地図で、新大和川が通じた後なので大和川は狭くなり「古大和川跡井路川」と標され、そこに架かる「京橋」は「長五十間三尺八寸廣三間」、「鯰江川」に架かる「野田橋」は「十五間五尺五寸廣二間」と橋の大きさが記載されています。
明治の旧版地図では測量が行われてかなり正確な地形図になります。この時辺りまでは江戸時代の姿を留めているところに資料的に価値があります。
現代地図へ1887(明治20)年の旧版地図を正確に重ねて新旧の位置関係を確認し、Google
Mapで作成したものです。茶色は街道、赤色は橋、青色は鯰江川跡です。
上の地図で野田橋があった所の拡大です。青色は鯰江川が流れていた所。赤色は野田橋が架かっていた所に相当します。今はごく普通の道路ですが、大坂と京とを結んでいた重要な橋の名残りです。そのうちにこの辺りを歩き写真で見ていただこうと考えています。(続く)
6日、阪神・淡路大震災からまもなく15年目を迎えようとしています。いま阪神間をざっと見ただけではどこにあの悲惨な被害があったのか分からないほど復興しきれいになっています。そしてあの時に生まれた子どもたちも15歳を迎えます。したがって震災の状況をまったく知らない子どもたちも多くなりました。そこで子どもたちのための施設「こべっこランド」(神戸市総合児童センター)がいろいろな企画をしました。詳しくはホームページをご覧いただきたいのですが、そこに私の撮影した震災の被害状況や現在までの復興状況の定点観測写真を少しですが展示します。1月16日と17日です。写真展というほどではありませんが、それで防災意識が少しでも高まってもらえれば嬉しいことです。写真は主に web Gallery の「阪神大震災」に掲載している内容です。
7日。雨雲がどんどん流れてきて時々しぐれます。もう少し寒ければ雪降りになっているのでしょう。 午後から大阪・阿倍野の近鉄アート館で今日オープンした「井上博道の眼」展にでかけました。会場は盛況で多数の井上氏の作品が展示され、あの広い会場が狭く感じられるほどでした。氏のデビュー作「美の脇役」は淡交社から出版された最初の本や最近の文庫本も所蔵していますがプリントで見るのは初めてです。その時以来、鋭く強い氏の眼差しは相変わらずで、室生寺、東大寺に続き、そして最近少しほんわかとしてきた万葉や山頭火の作品も見ごたえがあります。それに佛像のカラー作品はプリントも良く見事でした。12日(火)までですのでどうぞお出かけ下さい。
阿倍野、天王寺は実に久しぶりです。いつも地下鉄で通りすぎてしまうので地上の様子が分からないのですが、交差点の角にあった近鉄百貨店がすっかり無くなっていました。高層ビルに建替えるようで、今のところ左の新館で営業しています。お天気が悪かったのですが工事中をとりあえず一枚。
写真展を見終えて近鉄百貨店を出るとすでに暗くなっていて、天王寺公園の暗闇の向こうに通天閣がひときわ明るく輝いていました。これも私には久しぶりに見る光景です。周辺で最も高い建造物だったのですが高層のビルやマンションができてきてここも景観は一変していました。
8日。お正月気分もあまり味わうことなく相変わらずデジタル処理のデスクワーク。この先に幾つか予定されている仕事の準備です。ストックしてある膨大なフィルムから目的の写真を探すのは実に大変なのです。テーマが限られていればさほどではないのですが、そうでないいろいろなものは日付で整理しています。それがいつ頃のものだったか、頼りなくなった記憶と日誌やカレンダーを頼りに見当をつけて総まくりです。デジタルの場合はブラウザーで素早く見られるのですが、フィルムの場合はファイルをめくって見ていくので手間がかかります。探しだしてもルーペでコマを確認しなければなりません。デジタルならすぐに幾つかの写真を一度にさっと拡大して確認できます。デジタルの有難みをこんなところでも感じます。 今日は一日雪雲が往来しました。日中は6度前後だったので雪は降りませんが、和泉葛城山から金剛山にかけていつものように雪雲が通って行きます。日没の真赤な夕陽に垂れ込めた雪雲が真赤になりました。
金剛山の上部は一日中雲に隠れていましたが夕方から雲がきれると霧氷で真っ白になっていました。それに夕陽がさすと一段と赤く映えた山容になりました。
9日。5日に地図を掲載した京街道をその地図を片手に高麗橋から京橋、片町、東野田、京橋駅まで歩いてみました。詳しくは整理してまた掲載します。今回は京阪京橋駅が京街道と大和街道(古堤街道)の分岐点であった頃の道標です。「左 京みち」「右 大坂」「右 大和 なら のざき」「文政九丙戌年九月吉日」と雄渾な筆跡で刻まれています(文政9年は1826年)。
11日、成人の日。127万人の若者たちが大きな責任を背負って羽ばたきます。期待しましょう。 朝、飛行船が頭上を過ぎました。ツエッペリンNT号が点検のために鹿児島に向かって飛行中です。9日埼玉県桶川市のホンダエアポートを出発、10日中部地方から大阪・岸和田、11日大阪から瀬戸内海、12日九州から鹿児島市七ツ島への列島縦断飛行です。ボデイには某大学の広告がついています。今回の写真は船尾。船尾にあるエンジンで推進用と横推力用の2基のプロペラを動かしています。
京街道の起点を京橋として鯰江川に沿って京橋駅付近まで歩きます。大阪城の京橋口近くの京橋に並んで新しく大坂橋という陸橋が架かっていて、そこからは下に京橋、右から大阪城天守閣、レンガ建築の旧砲兵工廠化学分析所、旧大和川の寝屋川、片町、その向こうに
OBP (大阪ビジネスパーク)のビル群が良く見えます。
寝屋川に架かる京橋を渡った左側にはかって川魚市場がありました。今はそこへ寝屋川橋が架かり、片町から土佐堀通が通っています。左側が大川(淀川)との合流点になります。京街道は京橋の北詰を右に進みます。
寝屋川を渡る京阪本線の鉄橋ですが、旧鯰江川は埋め立てられて京阪本線の軌道になったのでこの部分が旧鯰江川と寝屋川との合流点になります。
京街道は京橋から東へ向かうのですが、真っ直ぐ進むと京阪本線の下をくぐる地下道があります。この付近が公儀橋の「備前島橋」があった所です。そこをくぐると大川に出ます。川向かいの天満方面へ行く川崎渡があった所で、そこには川崎地蔵尊が祀られていました。立派なお堂です。
川崎渡には新しい川崎橋が架かっています。自動車は通れないモダンな橋です。向かいは造幣局の通り抜けがあります。かっては水運を利用した幕府の材木蔵があったところです。両岸ともに桜の名所で春には賑わいます。
少し戻って片町(旧相生町)を東に進みます。今は土佐堀通となって幹線になっていますが、かっては鯰江川と寝屋川(旧大和川)に挟まれた京街道です。
この付近にあったと思われる道標が近くの太閤園の庭にあります。「(右へ)さくらの宮/ぼおんじ」「(左へ)京はし/八けんや」「(右へ)京道/もり口/ひらかた」「安政四丁巳年/十一月造之」と四面に刻まれています。なお(
)内は浮彫の指先で方向を指し示しています。(安政4年は1857年。「ほおんじ」は法皇山母恩寺、「八けんや」は八軒家)
片町1丁目の東端、寝屋川沿いに1806(文化3)年の「攝州大阪地図」に「明和元年甲申(1764)新建家」と書かれた大きな屋敷があります。もちろん現在はビルが立ち並んでいるのですが、その跡地付近の駐車場から寝屋川の向こうの OBP にあるクリスタルタワーが見えました。時間の流れを感じた一瞬です。さて、ここから旧鯰江川を野田橋で渡ります。(続く)
12日。京街道の続きです。片町の土佐堀通から斜めに北へ向かうわずかな道が、かって鯰江川に架かっていた野田橋のあった所です。鯰江川はこの中央を横に流れていました。埋め立てた川の名残でしょうか、この間の道が窪んでいます。この道の北詰には1938(昭和13)年に建てられた「野田橋跡」の碑があります。
京阪本線南側の下の道と、土佐堀通の続きの道(旧鯰江川跡)に挟まれた真ん中の道を東に向かいます。都市の中に残る旧街道ですから往時の名残となるものはまったくありません。ただ道筋だけが残るだけです。それで少々退屈な写真が続きますがご辛抱下さい。でも歩いている私はわずかに曲る道に、鯰江川の川筋に沿った京街道の名残を見つけて感激しているのです。
その鯰江川の跡です。今は埋め立てられて道路になっています。この先の方は前の写真の道筋と同じに曲っています。またよく見るとこの道路の左右が高くなっていて、それが堤であったことがわかります(川の位置表示は厳密な考証でなくイメージです)。
京街道は京阪京橋駅に近づきました。かってはこのまま真っ直ぐに道はありました。今は真っ直ぐ行けば京阪京橋駅、京阪モールの建物に突き当たってしまいます。そしてこの道はそこで右に曲っていますが、この曲がり角が京街道と大和街道(古堤街道)の分岐点になります。
京阪京橋駅、京阪モールの中を抜けると京街道は北に続いていて、「京街道(その2)」で紹介した道標があり、国道1号線とJR環状線を越えると新京橋商店街、京橋中央商店街のアーケードが見えます。
京阪京橋駅の西にコムズガーデンがあります。大阪市地下鉄長堀鶴見緑地線の京橋駅に接続している地下の飲食街ですが、その地上の京橋公園内北西に延命子安地蔵尊が祀られています。
なかなか立派なお地蔵さまで、この京街道に沿った地域の信仰が篤いようです。由緒書きには文化年間(1804〜18年)のようで、ここに安置されるまでには幾度か移転した経緯が書かれていました。
アーケードのある商店街の道筋はそのまま京街道です。もちろん往時は田畑が広がり、すぐ側を榎並水道(榎並川)が流れていたのどかな風景であっただろうと思うのですが、今は榎並水道の跡形もなく、建込んだ家並の中の繁華街です。これも曲った道筋ぐらいしか名残は見られませんが、それでも商店街の中に「京かいどう」の碑がありました。大阪市が1988(昭和63)年に設置したものです。あちこちの街道に同様のものが見られますがこれは一段と立派です。良い企画なのですがどれも碑文の字体に品がなく、いつも辟易しているものです。
13日。この冬一番の寒い日でした。昼間でも気温1度。近年で最も寒い日だろうと思います。時々雪雲がやって来て雪を振り撒いて通りすぎて行きます。積もるほどは降らないので路面がちょっと濡れるだけです。金剛山は霞んだり雲の中だったりするのですが、時々見える山肌は白く霧氷になっているようです。ライブカメラで各地を見るとさすがに雪景色が多く、富士山は雲に隠れていましたが夕方から全容が見えるようになりました。裾野も白い富士山です。夜にも雪雲が来たのでカメラを高感度にして撮影。夜景が容易くなりました。 15日。ハイチの首都ポルトープランスで12日にM7.0の大地震があり多くの被害が出ています。すぐに飛んで行って助けてあげたいと思う。だがそれにしてもいつもより日本政府の動きが遅いのが気がかりです。何してるんだ、と怒ってみるが現地のさまざまな情勢が悪いためだとか。一刻も速い救援を願うのだけれどままならないようなのだ。世界中がいま失われてゆくいのちを悲しみの中で見守っているしかできないのだろうか。
阪神・淡路大震災から15年目も間近。神戸の「こべっこランド」で展示する私の震災定点観測の写真展示を確認に出かけました。この小さな写真展は明日、明後日と展示します。もちろんこんなささやかなものだけでなく、神戸を中心に「阪神・淡路大震災15周年記念事業」がたくさん催されます。追悼の意を込めてどうぞ何かにご参加下さい。
JR神戸駅前地下街・デュオドームで「神戸新聞カメラマンの証言」展が始まりました(17日まで)。約1.000枚の震災時の記録です。やはり地元紙は強い、と思いました。震災直後のなまなましい状況が記録されています。ですが紙面に掲載されたのはこの中からほんの僅かでしょう。こういう写真を一度に見ることはないので貴重な機会です。できればしっかりとした写真展にして全国巡回をしてほしいものです。まずは東京都写真美術館さん、いかがでしょうか。
大阪・中之島の国立国際美術館で、万博公園からの移転5周年記念展「絵画の庭〜ゼロ年代に本の地平から」のプレビューにも行ってました。伝統的な絵画や前衛的な絵画でもない、あくまで私的な今の絵を30代を中心としている若い世代の作品群です。メモあり、落書きあり、キャラクターあり、と言うと作家に怒られるかもしれませんが、それでもいいよ、と言う作家も多いのではないかという感じのものです。私は「自分のための絵本」と思って楽しく見てきました。新しい流れを作る、というよりすでに若い世代に滔々と流れているアートです。このオープニングには25人の作家たちが参加しました。それを身内の方とおぼしき方々がカメラでビデオで撮影しまくります。学芸会や運動会、卒業式で見られる風景と同じです。ここへも「子離れ」ができない親たちがいました。これもこの時代の展覧会にふさわしい情景なのでしょう。
日没直前に部分日食がありました。今日は快晴なので期待していたのですが、地平付近では厚い雲が待っていて、欠けながら沈んで行く珍しい日食は残念なら撮影できませんでした。それでも約1分間、上のように欠けた太陽が雲間に見えて何とか撮影。上方に太陽柱の現象も出ています。上空は相当に冷え込んでいるのでしょう。 16日。明日、15年前の夜明けに大地震が起きました。阪神・淡路には言い知れない被害があり、それは今も続いています。私の定点観測のうち、神戸っ子の大好きな三宮センター街付近です。震災でアーケードが落下、商店街はしゃれた店構えでしたが木造家屋が多くて崩壊したり火災に遭い、多くの商業ビルも崩壊、ここも震災で一変しました。アーケードを失ったセンター街は1998年になって以前より高いアーケードで再建され明るい街並に復興しました。
フラワーロードから三宮センター街1丁目入口を撮影。左は三井住友銀行三宮支店、右はコクミン三宮センター店。
生田ロードから三宮センター街1丁目を撮影。左は三宮インフメーションギャラリー(三宮HATENA)、右は富士鞄店。センター街は二階建てのアーケードになっています。
左はビッグキッド、右はClefy三宮。向こうの京町筋角はユニクロ、右はZARAが入っているアーバンテラス三宮。
左はClefy三宮、右はZARA。
17日、日曜日。阪神・淡路大震災から15年の日を迎えました。追悼の日です。大震災の定点観測写真データの整理でこの日を過しました。この取材の中でこころに強く残ることが幾つかあります。 神戸市東灘区本庄町1丁目。芦屋市との市境近くは戦前からの住宅と建売り住宅が並ぶ住宅地です。その駐車場の一角にあった木造2階建ての文化住宅「S荘」が倒壊していました。この前を幾度か通っているのですが、この建物はあまりにも形を留めていないので記録はしないつもりでした。しかし向こうにある傾いた住宅が近々に解体されると聞いて地震から1か月目に初めてこの辺りを撮影しました。この付近の木造住宅はすべてと言ってよいほど被害を受け、神戸で最も被害の大きかった所です。
このバラバラになってしまった「S荘」の前に次のような掲示がありました。 それから1か月後、この「S荘」の解体中に一人で暮らしていた住人のAさん(59歳)が埋もれていたのが発見された、と新聞で報道されていました。地震から2か月経っての発見です。私は何度もこの前を通り、1か月前にも撮影したのに。誰も気がつかず、探してくる身内もいなかったのでしょうか。近所付き合いもされなかったのかもしれません。2か月もの間、人知れず瓦礫に埋もれていたためにこの地域の追悼供養にも間にあいませんでした。
さらにそれからか2か月後の5月に訪れた時、「S荘」は敷地の痕跡だけになり、周りも一面がすっかり更地となっていました。カメラバッグにいつも入れているロウソクと線香を供え心経をあげてささやかながらご供養をしました。
18日。大阪・本町の富士フイルムフォトサロン
大阪で開かれているJPS関西メンバーズ展「関西のプロ写真家100人の眼」です。すでに予告で書きましたが、なかなかの力作揃いです。21日(木)までで、その後京都での開催です。
会場の前は御堂筋、銀杏にライトを取り付けて「御堂筋イルミネーション」と名付けています。明るい光の帯となった御堂筋ですが、光の棒と少し品のない色使いでがっかりです。創作性が見られません。光の量で圧倒しようとでも考えたのでしょうか。エネルギーのむだ遣いでしかないでしょう。それに北御堂も赤色でライトアップ。朱塗りをイメージしたのでしょうか。変にぎらぎらしてこれもどうもいただけません。橋下府知事がこれに力を入れているとか。そんなことより文化・芸術にもっと理解と力をそそいで欲しいものです。
19日。どんな忙しい日でも空の写真は毎日撮り続けています。退屈するでしょうからここに毎日掲載するわけにはいかないのですが、それで膨大な量の写真になりました。気象的なもの、造形的なもの、心象的なものなどさまざまです。 今日の夕方、日没後にうっすらとした赤味がいつまでも残り少しずつ変化して行く空を暗くなるまで「きれいだなあ」と感動して眺めていました。これをう〜んと大きくプリントして見たいものです。写真は感動しないと撮影できません。でも何に感動するかはかなり気分次第の時があります。特に空のように普遍的なものは、です。
20日。マスコミでも大きな話題の今日の大寒、こよみに相応しくない暖かい日でした。そのせいか日中はモヤがかかり遠くが見えません。でもまた寒さは戻ってくるようです。 ここ数年気がかりになっていて、市史や古地図などでいろいろと調べていたのですが分からずにいた、ある100mほどの道が付け替えられた時代が分かりました。私は明治頃かと見当をつけていたのですが江戸後期で、その時の工事記録文書を紹介した資料があったのです。私が調べていたそのものずばりが簡単な解説と共に掲載されていました。改修前と改修後の図まであり、現況と比較ができてさらに調べたいことがそこから生まれてきました。それで古文書の写真と私が撮影した写真を比較しながらあれこれ考えて眺め過したことでした。先学はやはり偉いですね、ただそれだけのことなのですがうれしい一日でした。
21日。西からの雲が雨を運んできて午後遅くまで雨でした。北からの雲に変わると晴れてきましたが夜になってまた厚い雲が西から。それで今日はいろいろな雲の表情があって、そちらの撮影の方が忙しくてなかなか仕事に集中できません。で、今日も空の写真。それと幾つかの新しいアプリケーションをテスト。使いこなすにはまだ時間がかかりそうです。
22日。朝いつものように生駒山を見ると下から大きな煙が揚がっています。離れているので何だか分かりませんが、工場の排煙はあの辺りには今まで無かったので火事かもしれません。その後取材ヘリが数機飛ぶようになり、テレビで火災の中継をしていました。東大阪市花園西町の文化住宅で火事、お一人が亡くなられたのがその後の報道でした。冬は火災が多いので用心しましょう。 午後からエプソンのプリンタ関連でJPS技術研究会があり出席。インクジェット・プリンタのハード面はほぼ成熟しているので、後はプリントの保存性と、カラーマネージメントなどユーザーインタフェースの向上をどうしているか、という点を知るためです。会場で見た新製品ペーパーのサンプルプリントはさすがに向上していて、この夏の小品展の作品造りに役立つと思えるので一度テストしてみましょう。
24日、日曜日。終日一つの雲もないさわやかな青空の日でした。冬の低い太陽でくっきりと影を落としている桜の枝先は、はや春の支度を始めたようです。
26日。晴れた夕空に月がくっきり。明日は十三夜です。気象衛星画像では大きな雲が東へ去ったので明日からは冷え込みが厳しくなるのでしょう。 写真展の制作のためにプロフォトCDに入力してある写真を読み出しているのですが、Adobe Photoshop CS4がこのフォトCDの読み出しをサポートしなくなったのでCS3で読み出しています。KODAKはホームページで「フォトCD/イメージパックCDのご利用につきまして」として、以下のようにコメントしています。 「弊社では、フォトCD/イメージパックCD(拡張子:PCD)の画像をコンピュータで開ける代表的なソフトウェアとして、
Adobe社のPhotoshopをお勧めしてまいりました。しかしながら、『Photoshop CS4』、『Photoshop
Elements V5.0』以降 ではkodakフォトCD/イメージパックCDがサポートされなくなり、これらのCDを開く事ができなくなりました」 要はAdobeがサポートしなくなったのでデータは読み出せません、と簡単に切り捨てているコメントです。フォトCDは記録メディアの容量がまだ小さかった頃、高画質の大容量画像をコンパクトに収録できるようKODAKが開発し、鳴り物入りで普及させたフォーマットで、画像データベースなどを構築しだした博物館や美術館などが大量の写真をフォトCDに入力しました。現在では大容量の記録メディアが安価で簡単に手に入るようになり、そのメリットは失われてしまったのでフォトCDシステムを廃止するのは理解できますが、独自のアルゴリズムで作られたフォーマットなので、Adobeがサポートしなくなったのであれば、開発者のKODAKがフォトCDを読みだすオフィシャルなアプリケーションを提供するべきでしょう。かってKODAKはMac
OS9まではプロフォトCDの64Baseが読み出せる「KODAK Photo CD Access」を提供していましたから、これを以後のOSに対応させるか、プラグインを開発してAdobeに提供するとかして読み出しを継続するのが企業の責任でしょう。
27日。夕焼け雲の向こうに飛行機雲。飛行機雲がねじりん棒になっているのは旅客機が回転したわけではありません。気流が造ったものです。 家と仕事場のテレビやビデオモニタがこのところ相次いで壊れました。昨年からなんと4台もです。うち2台はブチッと煙を噴いてのお陀佛。長年の使用ですから部品の劣化で仕方ないのかもしれませんがちょっと危ない終わり方でした。地デジへの抗議自爆だったのかもしれません。
29日、昨日今日の夜空は火星が主役です。昨日の28日は火星が地球に大接近、しかし昨夜は雲が多く見えなかったのですが今夜は快晴なのでいつもより大きく赤い星(左下)が満月に負けず月の近くで輝いています。月とも大接近しているのです。今は「衝(しょう)」の位置にあり、太陽、地球、火星が一直線上に並んでいるために太陽が沈む正反対から火星が昇ってきます(ただし正確には1月31日です)。天体写真を撮るわけではないので今回は黒い紗をフィルターにしてレンズの前につけて撮影。あえて光芒を出してみました。次の地球への大接近は2012年3月6日、火星と月の接近は来月2月26日です。 30日。45年間撮影している能楽写真のデータベースを少しずつ作成しているのですが、多項目で量も多いのでなかなかできあがりません。写真は撮影しただけではだめで、後世に第三者が写真を見て、それが何時、何処で、何なのかが判らなければ何の役にもたたなくなるのです。撮影当初から撮影した能番組はすべてありますので、その内容を転記して入力するのですがこれが根気のいる仕事なのです。で終日デスクワークでした。
青く晴れわたった空なので雲が一つもありません。こうなると空の写真を撮りたくても何の変化もないので手も足も出ません。しかし幸いにも飛行機雲が残っていてくれました。
夕空に細い線の様な雲が幾筋か出てきました。日没時は撮影で忙しくなります。
今日は満月。見事な黄金色の月が生駒山から昇りました。しばらくして左上方に赤く輝く火星も見えてきました。昨夜より少し離れていますがそれでも近接しています。撮影しましたが昨夜と重複するので掲載は満月だけにします。ただしその後に薄雲がかかって火星は見えなくなってしまいました。
31日、日曜日。日中は静かな雨。ベランダの手すりに水滴が並んでました。それでも夕方から雨は上がって居待月が薄雲の向こうにぼんやりと見えるようになりました。
先の京街道に続いて、今の京橋駅付近で京街道から分岐して生駒山を越え、奈良の生駒市へ向かう大和街道(古堤街道)の京橋駅付近を見てみます。
この1929(昭和4)年の地形図に番号をふっていますので以後にそれぞれの説明をします(1
〜 3、6 〜 11 は1929年地形図にあるもの。 4 〜5、12 〜14 は現在の建物などで、それぞれに彩色加筆しました)。(衛星写真地図も参照ください) 先の「京街道」の説明と重複しますが、京街道は大坂から(1)の寝屋川(古大和川)に架かる京橋を渡り、片町を経て(2)の鯰江川に架かる野田橋を渡り、鯰江川(2)沿いの京街道(3)を北東へ、坂口(現在の京阪京橋駅付近)で京街道は榎並水道(8)に沿って北上、大和街道(6)は分れて鯰江川の土手で東へ向かいます、 |
12月 | 2010年1月 | 2月 |