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近況 2011年9月


朝の虹


朝の虹 2011.9.1 撮影:今駒清則

9月1日
 早くも9月になりました。早朝、小雨が上がった西の空に日の出の光が大きな虹をつくっていて爽やかな朝でしたが台風12号の前ぶれで終日曇って雨も降ったり止んだり。ゆっくり進む大型台風が四国・近畿地方を直撃のようなので要注意です。そういえば今日は関東大震災88年、防災の日、それに二百十日です。大地震と台風への備えを再点検しました。


 

2011 台風12号


台風12号が接近 2011.9.3 撮影:今駒清則

3日
 大型の台風12号がやや西にそれて高知市から岡山市へ抜ける様子、大阪も終日雨、時々強い風が吹くものの雨の止む時もあり割に穏やかな台風日でした。


和泉葛城山方面に降る雨 2011.9.3 撮影:今駒清則

 あちこちに雨を降らせる雲が走り抜けていて、眺めていると雨が近づいてくるのが分ります。鳥取県や和歌山県方面では豪雨の様子。何事も無いように願うばかりです。


 

降り続く雨 台風12号


台風12号、降り続く雨 2011.9.4 撮影:今駒清則

4日、日曜日
 普通なら台風一過の快晴、という日なのですが、この台風12号は高気圧に行く手を阻まれて例に無いほどゆっくり北上。そのため大阪も終日雨降り、紀伊半島では台風周辺の雨雲が集中して記録的豪雨。洪水や山崩れで大きな被害がでているとの報道。こころ傷みます。このところどうも災害の続く日本列島です。


 

台風一過ですが


積雲がポッカリ浮いた朝の空 2011.9.6 撮影:今駒清則

6日
 台風12号が来て以来やっと今朝青空になりました。昨日まで断続的に雨が降り続いていて、三日後に青空になると言うのはめったにあることではありません。この台風のために奈良県、和歌山県の紀伊半島山間部では山崩れ、河川の氾濫などの災害の詳細が徐々に判明してきて、死者・不明者が100名を越えたとの悲しい報道が続いています。


巻雲の造形 2011.9.6 撮影:今駒清則

 先の大津波や豪雨による河川の氾濫などの大災害を受けてしまう街や村の成立ちは日本の地勢から止むを得ない姿なのですが、なんとか自然の猛威をかわせる智慧がもっと欲しいものです。


晴れた日


青空の生駒山(偏光フィルター) 2011.9.7 撮影:今駒清則

7日
 このところMacの一台を新OSにしていろいろと検証中です。AppleがPPCのシステムサポートをしなくなったのでいずれ全面的にIntel Macに移行せざるを得ませんが、現在では新OSのLionに対応しているアプリやユーティリティがほんの少しなのでオールマイティに使うところまでいきませんが、 Adobe CSは順調に動いているのでもっぱら写真処理に使っています。ただ現在のところLionにするメリットはあまり感じられないと言うのが正直なところです。

 今日は朝から雲一つ無い快晴。こういう空はまったく表情が無いので空の写真が撮りにくいのです。


真昼の月 2011.9.7 撮影:今駒清則

 青空に輝く月、今日の月の出は15時01分(大阪)なので真昼の月です。


大阪スカイライン 2011.9.7 撮影:今駒清則

 大阪のビル街もクリアに見えます。北の方には少しだけ雲が。それにしても気温が20度Cから25度Cで、あまりに急激に下ったのでちょっと戸惑います。


 

追悼の日 911


追悼の灯火 2011.9.11 撮影:今駒清則

11日、日曜日
 アメリカ同時多発 テロ NY911 から10年、東日本大震災から半年の今日、追悼の催しが各地で行われたことが報じられています。家でも仏壇に線香とロウソクをあげてNYの3千人、大震災の犠牲者1万人に心経で弔いました。


自動販売機の募金活動 2011.9.11 撮影:今駒清則

 駅へ行く途中にある飲料の自動販売機に「東日本大震災救援募金」の仕掛けがあります。外出で通るたびに募金していますが、自動販売機のウインドウにはペットボトルや缶の見本の代わりにプレートがあり、10円か100円を投入してボタンを押すだけです。普通ならガタンと音がして飲料が出てくるのですが、募金の時は何事もなくそのままで何となく頼りないのですが、義援金は届いていることでしょう。良く考えられた方法で感心しますが、音声で何かコメントでもあると張合いもあるし、内容によってはそれを聴きたくてさらに募金を続けることもあるかもしれません。もっといろいろ工夫してみたらいかがでしょうか。


出番を待つペットボトル 2011.9.11 撮影:今駒清則

 ベランダに備蓄している2Lのペットボトル。中身はタダの水道水です。ベランダは風当たりが強いので強風の時はこれを重石代わりに使っています。先日の台風12号でも活躍しました。水の備蓄は災害時に何か役に立つことでしょう。長時間置いてあるのでこれを飲料水にはできませんが、それでも順番にプランターの水やりに使って水を交換しています。


 

第二室戸台風から50年


アーカイブ 大阪・中之島 あみだ池筋の浸水 1961.9.17 撮影:今駒清則

16日
 50年前の今日、第二室戸台風が西日本を襲いました。写真は台風翌日の大阪・あみだ池筋の中之島、堂島大橋の南
衛星写真地図)で、まだ高潮で浸水しています。向こうにはかすかに堂島大橋の鉄橋が見えます。右はストライプデザインの大阪市営バス。高潮で中之島周辺のビル街は土佐堀川や堂島川から溢れ出た海水で地階はことごとく浸水していました。この時に少し撮影した写真は別サイト「今駒清則・写真アーカイブズ」に掲載しています。


大阪・中之島 現在のあみだ池筋 2007.10.1 撮影:今駒清則

 同じ場所の現在。建物はすっかり建て替わっていますが、向こうに見える堂島大橋は変わりません。右の高層ビルは「グランキューブ大阪」。よく見るとこの辺りは低くなっているので台風後も浸水が続いていたのでしょう。もうあれから半世紀が過ぎたのですね。

  第二室戸台風
 1961(昭和36)年の台風18号(196118号、第二室戸台風)は9月16日午前9時頃室戸岬付近に上陸。午後1時頃に西宮付近を通過して午後3時頃には若狭湾方面に抜けました。大阪では10時頃から風が強くなり、午後1時40分には中心気圧935mb、最大風速は南南東33.3m、瞬間最大風速50.6mという暴風が吹き荒れましたが午後4時頃には弱まりました。潮位では午後1時頃に高潮警報基準値を超え、午後2時頃の最高潮位は平常より4.12m上昇し、防潮堤から溢れ出て大阪市の1/7が浸水、市内の浸水戸数は床上浸水が59,198戸、床下浸水が67,782戸、全半壊と流失家屋は8,524戸、負傷者1,488名(全国では4,972名)、死者30名(全国では死者194名、不明8名)という大きな被害になりました。


 

繰返された学童の悲劇 (1) 石巻市立大川小学校


おかっぱ頭のお地蔵さま 堺市 十輪院 2011.8.20 撮影:今駒清則

18日、日曜日
 宮城県石巻市立大川小学校
衛星写真地図では避難中の児童74人、教職員10人が3月11日の東日本大震災の大津波に襲われて犠牲となってしまったと報道が伝えています。地震は午後2時46分に発生、津波は3時37分に到達したとされ、約50分間もの時間があったにもかかわらず避難が遅れたために悲しい被害を出してしまいました。二階建ての小学校は屋根まで飲み込まれたそうですが、小学校の裏には避難できる山がすぐ近くにあり、児童を管理していた学校の津波に対する認識には大きな問題があったとしか思えません。実にこころ傷むことでやりきれない気持ちです。

 これにはすでに同様な前例があり、1934(昭和9)年9月21日の室戸台風で避難中の児童を高潮が襲い、多数の犠牲者を出した大阪府堺市の三宝小学校の悲劇を思い出します。このことを悼んで地元では慰霊碑をつくり、学童をお地蔵さまにして祀っています。繰返してはならないことがまた起きてしまいました。(続く)


 

繰返された学童の悲劇 (2) 堺市立三宝小学校


お地蔵さまになった学童たち 堺市 十輪院 2011.8.20 撮影:今駒清則

9月20日
 1934(昭和9)年9月21日、史上最大規模の台風は室戸岬から大阪湾へ向かっていました。堺市にある三宝小学校
(当時・三宝尋常小学校)の子どもたちは猛烈に吹きつける風雨の中にもかかわらず登校しました。当時警報が二度発令されていたのですが、今と違ってほとんどの人はそのことには無関心で、今のように警報で休校する措置もなく、また風雨をも厭わず登校するのが美徳だと思われていたからでしょう。

 


みんなで遊ぶ学童地蔵さま 堺市 十輪院 2011.8.20 撮影:今駒清則

 午前8時頃に阪神間に再上陸した台風は史上最大の暴風と、3〜4mの高潮で大阪市周辺を襲いました。高潮は海から、また大和川の堤防を乗越えて低地の埋立地にある三宝小学校にも押し寄せ、登校したばかりの約300人の学童たちは訓導(教師)に誘導されて東の微高地にある錦西小学校を目指して膝まで来た潮水の中を避難し始めました。

 


殉難学童たちの地蔵塚 堺市 十輪院 2011.8.20 撮影:今駒清則

 しかし911.6ミリバール(室戸岬時)という史上最低の中心気圧が海面を大きく吸い上げ、急速に高さを増した高潮が沿岸部を津波のように襲い、逃げる学童の足許をすくい、ついには大人の訓導をも飲み込む高さとなって逃げ切れなかった学童54名、訓導1名が犠牲となりました。
 それから一年、1935(昭和10)年9月21日に堺市の別院近くにある十輪院
衛星写真地図の境内に、この室戸台風によって堺市内で犠牲になった学童116名と訓導2名を悼むお地蔵さまの塚が造られ一周忌の法要が営まれました。

 


地蔵塚背面の碑 「昭和九年九月廿一日風水害遭難訓導学童名記」 堺市 十輪院
 2011.8.20 撮影:今駒清則

 その背面には全犠牲者名と世話人の氏名が印されています。大きなお地蔵さまは訓導を、おかっぱ頭や丸坊主頭の小さなお地蔵さまは学童たちでしょう。その子らはいまも仲良く勉強したり元気に友だちと遊んでいます。(続く)


 

繰返された学童の悲劇 (3) 慰霊の碑


室戸台風での被災学童を慰霊する「風水害殉職訓導遭難学童霊魂碑」 堺市 宝珠院
 2011.8.20 撮影:今駒清則

9月21日
 室戸台風(関西大風水害)から77年目の日です。台風の被害で堺市内では300人を超える犠牲者がありました。三宝小学校を始めとして市内の各小学校では風速60mを超えたという暴風により、木造校舎が倒壊して学童にも多大な犠牲者がでました。これを悼んで慰霊の碑が各所に建てられています。これは土佐十一烈士の墓所で知られる宝珠院
衛星写真地図の「風水害殉職訓導遭難学童霊魂碑」です。


室戸台風での被災学童を慰霊する「風水害殉職訓導遭難学童霊魂碑」部分 堺市 宝珠院
 2011.8.20 撮影:今駒清則

 その碑には三宝小学校を始めとして市内各小学校の被災学童と訓導の名前が刻まれています。先頭にあるのは三宝小学校で避難誘導にあたっていて殉職した栗山優訓導です。栗山訓導は学童の最後尾で学童を励まし続け、ついに学童と共に高潮にさらわれたとのことです。
 ここに記されているのは、三宝小学校で高潮により54名の学童と1名の訓導が、錦小学校では校舎倒壊の下敷きになって39名の学童と1名の訓導、湊小学校でも校舎倒壊で14名の学童が、その他にも校舎倒壊で少林寺小学校で3名、南旅篭小学校(後に英彰小学校に合併)が2名、錦西小学校で1名、同高等小学校で1名、錦綾小学校で1名と学童116名、訓導2名の犠牲者名があります。

 


室戸台風で被災した錦小学校の学童を祀る供養塔 堺市 経王寺 2013.7.2  撮影:今駒清則

 校舎が倒壊して多数の死傷者があった錦小学校の西隣りにある経王寺の境内墓地には、錦小学校の学童と訓導を慰霊する供養塔があります。三周忌にあたって建てられたもので、背後には今の錦小学校の校舎が見えます。


室戸台風で被災した錦小学校の学童を祀る供養塔(部分) 堺市 経王寺 2013.7.2  撮影:今駒清則

 供養塔には亡くなった高塚武訓導を中心にして学童たちの俗名が刻まれ、裏面には錦小学校で死者40名、負傷者200余名もあった罹災状況と、その霊を祀るために建立された旨が記されています。また今でも9月21日には錦小学校の学童や学区の人たちがお参りされておられるとのことです。

 


室戸台風での犠牲者を供養する「大風水害惨死者供養塔」 堺市 月蔵寺
 2011.8.20 撮影:今駒清則

 


室戸台風での犠牲者を供養する「大風水害惨死者供養塔」部分 堺市 月蔵寺
 2011.8.20 撮影:今駒清則

 また近くの月蔵寺衛星写真地図の境内にも「大風水害惨死者供養塔」が1935(昭和10)年に建てられています。
 (なお月蔵寺では檀家以外の方の参拝をお断りされているそうですのでご注意下さい)

 


風水害の殉難者を慰霊する「関西風水害殉難者慰霊碑」 堺市海山町5
 2012.11.4 撮影:今駒清則

 三宝小学校の南250m程の三宝保育園の横衛星写真地図に、この風水害の被害に遭われた方々を慰霊する「関西大風水害殉難者慰霊碑」が建てられています。またその後には防潮堤などを整備した記念の碑もあります。堺市の管理のようですが入口の扉が施錠されているため、お参りしようにもこの一角へは立ち入れないのが残念です。(続く)


 

繰返された学童の悲劇 (4) 低地の学校


今は街中になった堺市立三宝小学校 2011.8.20 撮影:今駒清則

9月22日
 1934(昭和9)年9月21日の室戸台風(関西大風水害)で浸水し倒壊した三宝小学校
衛星写真地図)は当時田畑の中にポツンと建っていましたが、今はそれを偲ぶような建物は見当たりませんし、校舎は4階建になって住宅や工場に囲まれるようになりました。

  


堺市立三宝小学校に建つ訓導の顕彰碑 2012.11.4 撮影:今駒清則

 三宝小学校の正面には室戸台風で殉職した栗山優訓導らの顕彰碑があり、またその横には懐かしい二宮金次郎像が今も建てられています。そして時には十輪院のお地蔵さまへ三宝小学校の皆さんがお参りし供養をされています。

 


江戸時代後期の三宝付近。まだ海で遠くまで堆積した砂浜になっている。
1735(享保20)年 「堺大繪圖改正綱目」(部分) 河合幽閑 画 
早稲田大学図書館 古典籍総合データベース

 三宝小学校は堺市街の最北西にあります。そこは江戸時代中期までは海でした。1704(宝永元)年に大和川が付替えられると、絵図上部の河口になってしまった漁村の七堂浜辺りから、湊で賑わった下部の戎島にかけて附洲ができ砂が堆積するようになったので、それを利用して1728(享保13)年から新田開発が始まりました。

 


昭和初期の堺市三宝小学校付近 1929(昭和4)年地形図 (水面を着色、関係場所に丸印を加筆)

 三宝小学校の校区はほとんどがその新田開発で造られた地域です。1751(宝暦元)年に南島新田、以後に松屋新田、山本新田が造られ、その3つの地域をまとめて三宝と呼びました。三宝小学校(地図中央丸印)はその新田の中央に位置します。室戸台風当時、西側にある海と北の大和川からの距離は各800m、海抜は1.1mでした。室戸台風の高潮に追われて避難した学童は約1km東の市街地にある錦西小学校(地図右下丸印)を目指していました。しかし錦西小学校でも海抜2.7mしかありません。ほとんど平坦な田畑の中の道を逃げましたが3〜4mの高潮にはひとたまりもなく多くの学童が高潮に呑まれてしまいました。やや近い南海鐵道本線七道駅(地図右丸印)へたどり着いて助かった学童もいたそうです。


堺市鳥瞰図」から三宝地区付近 1935年 吉田初三郎筆 堺市立図書館蔵 (三宝小学校に丸印)

 室戸台風の翌年に吉田初三郎によって描かれた「堺市鳥瞰図」堺市立図書館デジタル郷土資料展/堺と酒造からこの三宝地区を見ると人家の少ない中に三宝小学校があります。左上が大和川、手前が海、右端が戎島です。


堺市 南海地震津波ハザードマップ2011年(部分)で見ると 三宝小学校付近

 現在の堺市津波ハザードマップで同地を見るとほぼその時の状況が想像できます。ハザードマップでは浸水深さが水色(〜0.5m)、緑色(0.5〜1.0m)、黄色(1.0〜1.5m)と区分しており、かって新田であった地域はほとんどが浸水する予想になっています。また室戸台風当時の海岸線は現在阪神高速4号湾岸線沿い、海は埋め立てられて新日本製鐵堺の工場になっています。なお三宝小学校、錦西小学校の位置が多少違っていますが、その後に近隣に移転したものと思われます。

 三宝小学校の悲劇は、この度の東日本大震災の巨大津波による宮城県石巻市立大川小学校の遭難とは時代背景が異なるので単純には比較できませんが、就学中に高潮や津波、地震や暴風の大災害に遭った点では共通しています。東南海・南海地震が予想されている現在、これらからいかに安全な避難ができるのか、さらに低地にある学校の立地条件や通学の問題など早急に災害対策を再考しなければならないのではないかと思います。(続く)


 

ライブカメラ 富士山が初冠雪


初冠雪の富士山 山中湖村ライブカメラ 2011.9.24 07:10

9月24日
 山中湖のライブカメラが富士山の初冠雪を写していました。平年より6日早く、昨年より1日早い初冠雪です。今冬は少し寒い冬になるのでしょうか。早くスキーに行きたいですね。


シンポジウム「デジタル写真時代のファインプリント」のお知らせ

9月26日
 写真シンポジウムのお知らせです。関心のある方のご参加、学会加入をお勧めします。

 

日本写真芸術学会 第14回関西シンポジウム
デジタル写真時代のファインプリント

 
近年、急速に普及したデジタル写真の時代において、ファインプリントはどうあるべきか。
二名の写真家と、写真印刷に携わる専門家一名から、それぞれの経験をもとにお話をいただきます。
現在の、そしてこれからのファインプリントを考える機会になればと思います。

 
第1部 講演
1.ファインプリントとしてのモノクロ・インクジェットプリント

   北 義昭
(写真家、宝塚大学 造形芸術学部 非常勤講師)

2.シルバー・ゼラチン・プリントのこれからに思うこと
   林 直
(写真家、京都国立近代美術館 客員研究員、同志社女子大学 嘱託講師)

3.「印刷」から「プリント」へ 〜 作品としての写真集
   八田 次郎
(株式会社アスカネット フォトパブリッシングラボ部長)

第2部 パネル ディスカッション・質疑応答
   北 義昭、林 直、八田 次郎、原 直久
(日本大学藝術学部教授・日本写真芸術学会会長)
   吉川 直哉
(コーディネーター/宝塚大学造形芸術学部教授・日本写真芸術学会理事)

日時:10月29日(土曜日) 13時30分〜17時00分
会場:宝塚大学 造形芸術学部(宝塚キャンパス)
    円形棟1F アートヒルホール
     兵庫県宝塚市花屋敷つつじガ丘7番27号
交通アクセス
 
会費:学会会員・学生は無料 一般は1,000円
 

●申し込み・問い合わせ
 日本写真芸術学会
  〒176-0005東京都練馬区旭丘2-42-1
  日本大学 芸術学部写真学科内
  電話03-5995-8858 FAX 03-5995-4721

 


 

繰返された学童の悲劇 (5) 水難の地


波切不動尊と水難供養碑 堺市神南辺町4 2011.8.20 撮影:今駒清則

9月28日
 堺の浜の新田開発で生まれた三宝地区山本町付近の一角
(衛星写真地図)に波切不動明王をお祀りしたお堂(石龕)があります。この不動尊は「唐からから帰る弘法大師を守ったと伝えられて、海難除け、航海安全、「波切」と「難切り」を掛けて地域の篤い信仰を集めています。」(現地説明看板による)

 そのお堂の脇に1791(寛政3)年8月20日に起きた海嘯(かいしょう 津波)によってこの地域で犠牲になった人々を供養した石碑が建てられています。


寛政三年海嘯水難供養碑 堺市神南辺町4 2011.8.20 撮影:今駒清則

 新田開発の後、この地は何回かの津波や高潮に襲われていますが、その一つの「寛政3年の海嘯」による犠牲者を1840(天保11)年に「南嶋の光得法師が願主となり、来迎寺の蘭○(山カンムリに品)上人が導師を勤めた」(現地説明看板)50回忌の法要が石碑に記されています。
 「寛政3年の海嘯」とは「中濱筋一帯に及び、材木破船町中に吹上げられ、湊村方面では田畑多く汐入して溺死者を出し、當時恰も着手せられつつあった吉川俵右衛門の石堤工事をも破壊した。この變事は、記録上には全国中僅かに京都に於て微震を感じた丈けしか見えて居らぬから、(輝良公記)堺近海中に振動した部分的なものであっただろう。」
(堺市史第3巻)という記録が少ない地震による津波と思われますが、後世のことながらその地に石標として存在するのは貴重な災害史跡であろうと思われます。全国各地には歴史的災害を記録した石碑があり、多大な犠牲者に代わって後世の人々へ警鐘を鳴らしているのですからこのことに関心を持って大切にしたいものです。(続く)


 

南河内 下赤坂の棚田 秋


千早赤阪村 下赤坂の棚田 稲穂 2011.9.29 撮影:今駒清則

9月29日
 実りの秋、千早赤阪村の下赤坂の棚田も収穫時期です。お百姓さんにお聞きすると、今年は夏の暑さが続いたので稲の実の皮が厚くなってあまり良くないとのことでした。


千早赤阪村 赤い屋根と棚田 2011.9.29 撮影:今駒清則

 美しい曲線を描く棚田の風景。赤い屋根は農小屋でしょうか。彼岸花も咲いていました。


千早赤阪村 棚田と蕎麦の花 2011.9.29 撮影:今駒清則

 黄金色の棚田の中に蕎麦の花が満開。


千早赤阪村 下赤坂の棚田のトノサマガエル 2011.9.29 撮影:今駒清則

 6月にオタマジャクシだったのが棚田で飛び跳ねていました。


千早赤阪村 棚田の彼岸花 2011.9.29 撮影:今駒清則

 棚田のあちこちに咲く彼岸花にはアゲハチョウが。


千早赤阪村 下赤坂の棚田 収穫 2011.9.29 撮影:今駒清則

 刈り取ったらすぐにハサ掛けです。うれしくも忙しい日です。


8月 2011年9月 10月