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近況 2007年12月


堺の台場 5

蘇鉄山頂上

1日、お天気が良く、紅葉も良くなってきたので、また堺市の大浜公園航空写真地図の南台場(砲台)跡へ撮影に行ってきました、標高6.9mの蘇鉄山にも鮮やかな紅葉があります。

南台場・南土塁(K)の石垣  
堺浦海岸砲台築造図絵(写) 元治元年(1864)」石垣の位置図

 南台場の南端にある土塁(K)はちょうど草とりをしていてかなりきれいになっていました。以前は草ぼうぼうでがっかりしていたのですが、その雑草が無くなると二重の石垣が姿を現しました。台場の水濠に面した外側の石垣(B-D、I-M)はいずれも二段に築かれて、上段の石垣は土塁に、下段は水濠の石垣になっていてその間は犬走りになっています。ここは堺市立図書館・デジタル郷土資料展の「9.堺浦海岸砲台築造図絵(写)元治元年(1864)」にある通りです。そのほか北側の土塁も詳細に見て回り、いくつかの発見があったのですが、いつの間にか雨雲が来て天候が悪くなって充分な撮影ができそうもないのでまた後日にすることにしました。(続く)

 この7日から3日間、早稲田大学で興味深い研究集会があります。「散楽と仮面」という表題で日本、アジア、ヨーロッパにおける仮面と仮面芸能の研究発表です。ちょうど3日から能楽写真展も開催しますので3日間早稲田大学に通います。


堺の台場 6

2日、日曜日。今日も快晴。朝から昨日の続きで堺市の大浜公園に出かけました。日曜日とあって蘇鉄山は遠来も含めた登山者でいっぱいです。全景のパノラマ写真(約180度)を昨日も撮影したのですが、空が黒雲でしたから再撮影です。ここが戦前に賑わった当時の資料、堺市立図書館・デジタル郷土資料展の「27.堺水族館案内(市役所パンフレット)1937年頃」と同じ範囲を写しています。南から北を望んで、中央の広場が水族館跡、右端にサル山が当時の姿のままにあります。周囲の雑木が南台場の東(A)、北(B-D)、西(E-F)にある土塁です。こちらの方も石垣掃除をしていましたので、そのうち石垣を紹介します。

南台場・北西の土塁(E)の内側上部

 北側の土塁の外側は石垣も含めて大体往時の姿を留めていますが、内側はかなり崩落しています。土塁の高さもさまざまになっていて雑木も多く、土塁の上はちょうど良い散策の道になっています。北西(E)の部分は海に面して砲台を並べていたために厳重な土塁が築かれていたようで、現在でもここだけは高さを保っています。松の若木も海からの風で少し傾いて育っていますが、史跡として土塁本来の姿を考えればここに植樹をするのは考えものです。(続く)


レイクルイーズのwebカメラから 12月2日(現地時間)

3日、スキーシーズンになりました。いつも行くカナダ・レイクルイーズスキー場のホームページを覗いてみました。今年は少し暖かいのか雪が少ないようでコースもあまりオープンしていません。それでも毎年開催されるワールドカップの女子ダウンヒルとスーパーGが1日と2日に行われています。webカメラの中央にはゴールが写っています。コースはこの左上部から下りてくるのですが、普段はクローズされています。以前に偶然にオープンされていたことがあって試しに滑走してみましたが、レース用のコースですからバーンが超硬く、まったく(スキーの)刃(エッジ)がたちません。氷上のスキー、といったところでしょうか。カナダでは人が少なく雪質が良いのであまり疲れずにトップからこのカメラのあるベースまでのノンストップランができてとても楽しいのです。今年も行けますでしょうか。

 今日から能楽写真家協会の能楽写真展が早稲田大学・演劇博物館でオープンです。協会ホームページには会場風景写真を掲載しています。どうぞお出かけ下さい。


堺の台場 7

南台場・南西角の水濠跡

4日、堺の南台場の南西角(I-J)は水濠になっていましたが、現在は埋め立てられ土塁も撤去されて平地となり、水濠の北端は蘇鉄山の山裾の下になっています。現水濠付近は樹木が植えられて石垣に使われていた切石が無造作に置かれています。切石の形と大きさからここの台場のどこかに使われていたものに相違ないと思いますが、どの部分に使われていた切石かはわかりません。砲台を据えていた西側の土塁(F-H)は早くに撤去されていたようで、Fの土塁は少し痕跡が残っていますが石垣はありませんし、G-Hは土塁も石垣もまったく無く、場所の特定も困難です。したがってF-Jまでの間に築かれていた石垣のものなのでしょう。(続く)


5日、朝夕の撮影に寒さを感じるようになりました。このところ風も強いのでなおさらです。明日から3日ほど東京へ出かけますので、例によってその間の仕事をまとめてしておくのに大変です。夕方に厚い雲間から光がこぼれるのが素晴らしく随分撮影しました。


6日、浜松付近の新幹線車窓から富士の山頂が見えました。富士川を越えると眼前に雪を冠った富士山が裾野まできれいに見えます。富士山の素晴らしさはこの頂よりその裾野にあります。裾野のない富士山はその偉大さがわかりません。ただし富士市の煙突群を通り抜けた後、富士山は煙ってあまり見えなくなりました。まだ対策は十分ではないようです。

 恵比寿の東京都写真美術館で「東松照明:Tokyo曼陀羅」展と「昭和」写真の1945-1989 第4部 50年代以降「オイルショックからバブルへ」、「第8回上野彦馬賞」と「石黒コレクション」をゆっくり見て回りました。東松照明氏には2000年に長崎県立美術博物館で「長崎マンダラ」を開催されている時に、同行したゼミの学生たちに熱心に解説をしていただきました。体調の思わしくない頃でしたのにその熱意と写真活動には学生たちも心うたれたようでした。それらの活動の集大成が展示された凄いものでした。

 「昭和」は前回9月26日に「第3部『高度成長期』昭和30〜40年代 Part.2」を見ていますが、その後に続く年代の日本の写真を見せるものです。写真家が広範な社会への視点から自分へ向けての写真に変換した時期というコンセプトです。展示作品の前半はすばらしいのですが後半の「私写真」は私にとってはおよそつまらないものでした。それでもまだキュレーターの選択眼の高さがあるので写真の質は悪くないのですが、つまらないのはなぜだったでしょうか。それは社会問題へ向けた眼差の高さに比べて、作家の身辺日記の程度では比較にならないのは当然でしょう。これはホンモノの写真は依然として発表され続けていても、評論家やキュレーターがそれには無関心となり、新しい、珍しいという流れに飛びつき、それを増幅して写真をサブカルチャーにしてしまったことを如実に示している写真展でもありました。

 「第8回上野彦馬賞」は九州産業大学が主催している若者向けのコンペティションです。中高校生部門もあり、元気な写真がいっぱいありました。昨年のは5月26日に尼崎文化センターで見ています。展示された「石黒コレクション」は幕末から明治にかけて長崎の上野彦馬が撮影したオリジナルプリントとその拡大写真です。写真の解説は石黒敬章氏で風俗研究でも権威です。

早稲田大学・演劇博物館
能楽写真展会場

 3日から始まった能楽写真家協会写真展早稲田大学・演劇博物館で開催中です。会場は1928(昭和3)年に建てられた(戦災で半焼)クラシックな建物と能楽写真とがよく調和していました。会場には前島吉裕会員が詰めていて入場者も多く良い展覧会です。16日(日)まで開催しています。


JR山手線・大塚架道橋部分
大隈講堂のファサード部分(携帯カメラ撮)

7日、朝、早稲田大学に行くのに都電唯一の路面電車、荒川線に一度乗ってみようとわざわざJR山手線の大塚駅へ、都電大塚駅の隣にある山手線の跨線橋がレンガ造りなのに気がつきました。レンガの様子から明治のものと見当をつけて撮影(帰宅後調べると1903(明治36)年開業時からの跨線橋でした)。今の橋と違ってとても美しく造られていて、それによく保存されています。時間になって路面電車で早稲田へ。早稲田大学の構内は銀杏がとても美しく見ごろでした。国際研究集会「散楽と仮面」の会場は大隈小講堂で、大隈講堂の地下にあります。大隈講堂は東京都歴史的建造物の指定第1号で、1927(昭和2)年完成、戦災をくぐり抜け早稲田のランドマークになっています。最近に改装されて壁面が明るく映えていました。

 その研究集会は今の芸能を考える上で、昔の芸能では仮面がどういう役割を果たしていたのか、というテーマで日・朝・中・欧の研究者が発表を行うものです。第1日目は日本が舞台になります。今日は能楽写真の吉越研会員と並んでの聴講で、この私のサイトにも「大地の能」(web Gallery 「能楽」を参照)として写真によるごく簡単な芸能史を掲載しています。それらにかかわるテーマばかりでしたので終日熱心に聴講しました。そのレポートもここにご報告したいのですが、何分膨大な内容でしたので割愛します。

 お昼の休憩と、17時の終了後に構内にある演劇博物館の能楽写真家協会・写真展会場へ。今日は金曜日なので閉館がいつもより遅く19時ですからまだ開館しています。会場には亀田邦平会員、辻井清一郎会員が詰めておられます。能楽写真家協会ができたおかげで東西の能楽写真家の交流も密になり、また多くの写真家ともいろいろな問題を共有する場ができました。この写真展を契機に能楽写真が一ジャンルを得られるようになればと願っています。余談ですがこの博物館の3階の「能楽」に部屋には私の写真、70年万博の観世寿夫「善知鳥」が常設展示してあります。


大隈庭園の秋

8日朝はゆっくりして早稲田大学へ。それでも構内の銀杏が鮮やかに色づいているのでつい撮影をしてしまいます。2日目の今日は中国、朝鮮の仮面芸能についてです。以前中国の京劇、地方劇、新劇などの舞台も撮影をしてきましたが仮面劇は見ませんでした。それだけにどのようなものがあるのか楽しみでした。

 お昼の休憩に演劇博物館の能楽写真展へ。今日は高橋新会員と渡辺国茂会員がおられ昼食もご一緒しました。その後大隈講堂に隣接する大隈庭園を写真散歩。説明には「井伊掃部頭・松平讃岐守の下屋敷にあった和様四条家風の名園を大隈重信侯が文人風に改造したもので 大正12年没後大学に寄贈。 昭和24年空襲で廃墟化した庭園がほぼ昔の景観通り復元、園内には800年前の民家を移築した「完之荘」もあります」。で、庭園のあちこちにある東京の秋を短時間でしたが激写。

 午後も研究発表は中国の研究者で貴重な話ばかりですが、熱が入って猛烈なスピードの講演で同時通訳も大変です。また聴講者もスクリーンに目が離せず聞き取りも大変でした。ただ気になるのは会場に学生や若い研究者が少なかったことです。これだけの質とボリュウムですから会場に入れるのかな、と事前に心配をしていたのですがそうでもなく、これをどのように理解したら良いのでしょうか。芸能関係に若い人の関心が薄れていないと良いのですが。

 明日はヨーロッパ文化圏の仮面がテーマですが今日で帰阪します。講演終了で東京駅に向い、22時過ぎに帰宅しました。


9日、日曜日。やはり少々の疲れで今日は休息日。この「近況」や、ほかのwebページの手入れで日が暮れました。


朝の生駒山

10日、昭和初期の一万分の一地形図と航空写真を入手。デジタル化して眺めています。明治20年の地形図は幕末とほぼ同じ、と前に書きましたが、都市近郷農村では昭和初期でもその明治の地形図とほとんど変わっていません。集落と集落の間が少しづつ住宅や工場、新しい道路ができて埋まってきますが、集落そのものは変わりないのです。地形図が正確になって詳細な情報になっていますので、細かく見ているとお陰で今まで謎だったことが氷解し、また新しい発見がイッパイあります。例えば市街地にあった神社と周辺地域が空襲ですべて焼失し、神社は復興できないので近くにある神社へ合祀されました。いまその神社の跡地には住宅が建ち並んでまったくその痕跡はありません。元はどのようになっていたのか調べて見たのですが小さな神社ですから記録を見つけることができませんでした。それがこの地形図にははっきりと書かれてあり、また航空写真で見ると鳥居まで判別できます。鳥居の前の道は現在単なる市街地の普通の道路になっているのですが、これでこの道路が参道であったことがわかりました。またこの神社を前景に入れた今は無いある施設の写真があるのですが、神社の場所と向きが確定したのでその施設の特定もできたのです。このように集落ごとに現在地図と比較しながら調べていると日が暮れてしまいます。


コンビニの駐車場
歩道に駐車中(携帯電話カメラ)

11日、少し前に写したものですが駐車場に停めた自動車です。いずれもジコチュウ(事故中でなく自己中)のドライバーです。
左:今は空いているからといってもすぐに後から車が来るのですからそれに考えが及ばないのでしょうか。
右:駐車場に入れようとしているところではありません。ドライバーは乗っていませんから駐車場に入れたつもりで車から離れています。こんなことができる人がいるのですね。


12日、ある歓楽街のビルの壁にあった「注意」カンバンです。また以前に写真は撮影してあるのですが、それがすぐには見つからないので掲載できませんが、通りに面した民家の壁に「ここにあるものは当家のものではありませんのでご自由にお持ち帰り下さい」というカンバンもありました。立ち小便や不法駐輪駐車に困っているのでしょう。ほかにも駐車場で「無断駐車するとパンクします」というのも見たことがありますが、こうなるとどちらもどちらですね。この世相ではその気で探せばまだまだ沢山ありそうです。


13日、卒業して10年余になる台湾の卒業生から久しぶりに便りがありました。元気で活躍している様子でなによりです。また続いて中国・内蒙古自治区の大御所の写真家、ナムチル先生からも新年のご挨拶がちょうど日本に来ている内蒙古の写真家から届けられました。それには2000年にフホホトの内蒙古美術館で開催された50年回顧展のパンフレットが添えられていました。国家一級攝影師で中国の歴史的な場面や内蒙古の風光を喜寿になられた今もハッセルブラッドで撮影されておられます。私の内蒙古での取材にはいつでも全行程同行していただいたご恩があります。感謝と益々の活躍とご健康を祈念します。


16日、日曜日。今日は能楽写真家協会の能楽写真展の最終日です。早稲田大学・演劇博物館で開催していますのでどうぞお出かけ下さい。

金剛能楽堂の庭木(携帯電話カメラ撮影)

 時々パラパラと雨が降って日が射すと京都・金剛能楽堂の庭木の梢についた雨粒が光ってとてもきれいです。金剛定期能の最終日で撮影に出かけました。金剛宗家父子のそれぞれの舞台です。こうして能が伝承されて行きます。

 1月12日に豊田市能楽堂の新春能で金剛流の「翁」(金剛永謹)と「嵐山」(豊嶋三千春)が公演されますが、この「翁」に新作の「挙母の風流」(野村小三郎)が初演されます。挙母(ころも)は豊田市の旧地名で、私の出身地ですが、その鎮守の挙母神社の子守明神やその摂社・末社の神が現われて祝福する、といった内容です。ちなみに私はいつもこの挙母神社のお守りを身に付けていますのでこれはぜひ撮影に行こうと思っています。

風流(ふりゅう):「翁」の千歳、翁、三番三(三番叟)に付け加える祝言の狂言で動物や具体的な神などが現われる演出。あまり上演されないものです。


国立国際美術館・開館30周年記念式典  青木保文化庁長官の挨拶 (携帯電話カメラ撮影)

17日国立国際美術館が1970年の大阪万博の後、万博会場跡地に開館して30年経ったのを記念した催しがありました。これを記念した「30年分のコレクション」というわかりやすいタイトルの特別展が明日から開催されます。万博の時、万国博美術館であったものを1977年に国立国際美術館として開館、それまでのコレクションはおなじみのミロの陶板「無垢の笑い」の一点のみであったことから考えれば現在の美術館は文字通り隔世の感です。開館後からいろいろご縁があり、一時はここの膨大な美術作品の撮影を撮影したこともあったりしました、近年大阪の中心部・中之島へ移転したのでとても行きやすくなりました。中之島は江戸時代は諸藩の蔵屋敷が建ち並んでいて、ここに全国各地の物資が集まって大坂は「天下の台所」といわれていました。1700年(元禄)頃には95、1840年頃(天保)頃には125もの蔵屋敷がありました。現在は経済とともに文化のゾーンとして再開発されつつあります。国立国際美術館の隣は科学館、北隣に近代美術館(構想)、近くには国際会議場、最近に朝日放送が移転してくるなど変貌がめざましいところです。

 「30年分のコレクション」展は美術館の収蔵品、約5,700点から400点を選び、現代美術の流れを総見する企画です。写真はコレクションの中ではまだ薄いのですが、展示されていたのはマン・レイ、ベルント&ヒラ・ベッヒャー、ヴォルフガング・ティルマンス、ジャン=マルク・ビュスタモント、宮本隆司、杉本博司、畠山直哉、石内都、オノデラユキ、森村泰昌、やなぎみわといった作家たちです。2月11日まで開催しています。


大阪市立科学館付近(携帯電話カメラ撮影)

18日、昨日、中之島・国立国際美術館を出て向い側の科学館への途中地図の風景です。手前は中之島を流れる堂島川でも土佐堀川でもありません。ライトアップされた川?、何でしょうか。お出かけのついでに立寄って謎解きをなさって下さい。


19日、このところ時間を見つけて今まで撮影してきた写真の内容をキーワードで探せるように制作しています。アーカイブの一環ですが断片的に少しずつ書き留めたりテキストにしていたものをまとめているのですが大変な作業です。しかしやらねばならないことなので、写真の整理とデジタル化、キーワード作成と並行して進めています。整い次第ここに掲載したいと思っています。


20日、久しぶりに快晴。写真整理とキーワードの確認で資料調べに忙殺されています。

 8月30日と10月18日にここへ書いた大阪地裁で公判中の大阪経法大学懲戒解雇事件は、今日の判決で解雇された職員の勝訴となりました。当然の判決ですが、大学側が行った解雇とその理由については社会常識に照らして理解し難く首を傾げざるを得ません。近年一部の大学には労働問題が多発していますが、それらは社会常識が欠如した独善的な大学経営者によるものが多く、当事者は勿論のことですが、結果的に学生にも迷惑を及ぼすものであり、食品偽装問題だけでなくこういった大学問題についても社会的に何らかの歯止めが必要であろうと思います。

 今日訃報が届きました。京都の重鎮、写真家・山本建三氏が14日に亡くなられ16日に近親者のみで葬儀を済まされたとのことです。氏のご遺徳を偲び、謹みまして哀悼の意を表します。


21日、このところ夜明けにはカモメの鳥柱が見られます。昼間は近くの川の中洲が真っ白になるほど集まっています。港や海辺では普通に見ることができますのでさほど写欲は沸きません、時々川辺でカラスと縄張り争い?の空中戦をしているのを見ます。


22日、今日は冬至ですね。太陽の南中高度が最も低くなる日ですから影が最も長くなる日です。したがって昼の時間が最も短くなる日でもあります。ただし今日は終日雨でしたので、こういうこともあるかもしれないと思って昨日の正午に携帯電話カメラで撮影しておいた写真を掲載します。


23日、日曜日。大阪府堺市と高石市にあるコンビナート航空写真付近からは膨大な熱エネルギーが放出されているようです。晴れていたり暖かい時はよくわからないのですが、気温や湿度の加減で今朝のようにはっきり見える時があります。これだけでなく煙も西からの風ですと数キロにわたって堺市の西区や高石市に流れて行くのが見えます。単に公害の問題だけでなく地球環境の観点からさまざまに規制を見直すことがあるように思えます。

 昨日、日本写真芸術学会の学会誌が届きました。平成19年度・第16巻・第2号の創作編です。創作編としては2回目の発行で、論文掲載でなく学会員による写真作品を発表しているもので、写真集といったものです。私は東大寺二月堂のお水取りに取材した写真集「南無観」から作品を発表しています。


奥山を背景にした高畑の柿の木

24日、祝日。風が強く冷たいものの寒さはさほどではありません。今年も暖冬になるのでしょうか。お昼前に堺の大浜公園の砲台跡で気にかかっていた所を検分し撮影、その後奈良に向かいます。奈良ではいつものコース、高畑の入江泰吉記念奈良市写真美術館を見た後、入江先生夫妻墓へ墓参、掃除をしてお花を供え、その後東大寺へ、講堂跡はすっかり冬景色で大仏さまを遥拝して帰る、という奈良詣です。入江泰吉記念奈良市写真美術館は「入江泰吉と奈良を愛した文士たち」展の最終日。この展覧会へはこれでもう3回目になります。今まで公開していなかった作品の新プリントも含めていて、なかなか良い展覧会でした。展示には写真以外に志賀直哉らの書簡や、水門町の先生のお宅にかけてあった軸などもあり懐かしいものばかりです。

 帰りがけにふと思いついて数十年ぶりに大和郡山市稗田の環濠集落航空写真地図に立寄って見ました。村の周囲の環濠はすごく立派に整備されて遊歩道もついています。ちょっと気恥ずかしくなるほどのきれいさで、なんとなくよそよそしい村になってしまった気がしますが、環濠の村が少なくなった現在では往時を知る貴重な村なのです。


25日、昨日来曇天が続いています。大変気になるのです。というのは夕刻18時過ぎに生駒山山上に建ち並んでいる送信鉄塔の背後から十六夜月が昇るはずなのですが、これだけ雲が多いとまず難しいだろうと思うからです。それでも30分前にはカメラをセットして待っていますと山の端の雲が徐々に薄赤くなってきました。やはり雲がかかっているので月が姿を見せることなく薄ぼんやりとした明るさだけに終わるのかな、と思っていますとなんとか月が見えてきました。鉄塔よりわずかに左(北)側から昇ってきたのですが、昇るにつれて右に行きますので丁度良さそうです。山の端は薄雲になっていたのでしょう。昇ってきて鉄塔から離れたころ十六夜月は厚い雲に隠れてしまいました。その間約10分あまり。天から賜ったうれしいプレゼントです。次回は同様に暗くなってから鉄塔の背後に昇るのは来年の10月17日になります。1年に1回のチャンス、また晴れてくれるでしょうか。


堺の台場 8

南台場の南土塁と水濠の東端の現状

27日、堺市大浜公園の南台場(砲台)跡の続きです。台場南側の水濠(外堀)と土塁、二重の石垣(K)は前に書きました。またこの南西の水濠(I-J)は埋め立てられていることも12月4日にお知らせしました。では東端(L-M)はどうなっているのでしょうか。やはりここも埋め立てられ、さらに土盛りをされて水濠の痕跡はまったくありませんでした。上の写真の左側にあるKの石垣の端の先、写真右半分の部分も水濠が続いていて、公園の南西入口付近が鍵型に回り込んだ水濠(L-M)にあたります。

 南西の水濠(I-J)はかなり早い時期に埋め立てられたとみえて明治のどの時期の地形図にも存在しません。また東端の水濠(L-M)も同様に地形図には見あたらなかったのですが、1942(昭和17)年の航空写真にははっきりと水濠が写されていました。従って終戦前までは存在していたようです。また1948(昭和23)年の米空軍撮影の航空写真ではK-L-Mは埋め立てられているように見えますので堺大空襲の瓦礫投棄で埋め立てたのではないかと推測しています。このあたりについてはまだよくわかっていないので今後も調べて見ます。

1942(昭和17)年の航空写真 外堀 K-L-M の部分
堺浦海岸砲台築造図絵(写) 元治元年(1864)

 いずれにしても現状航空写真地図では公園地として樹木などがあるだけで、建物なども建てられていませんので発掘すれば往時の状況に復元できる可能性は十分にあります。しかもこの台場はフランス水兵への発砲により土佐藩士11名が切腹した「堺事件」とも関わりの深い所ですから、壊滅的な空襲によって歴史的な遺跡が少なくなった堺においては幕末の遺産とはいえ貴重なものなのです。(続く)


29日、訃報です。写真家の坂本樹勇氏がご逝去されたとの知らせがありました。30日12時から葬儀とのことです。謹みまして哀悼の意を表します。


30日、日曜日。神戸の坂本樹勇氏葬儀に参列、冷たい強風の中でお見送りをしました。坂本氏は広告、肖像などスタジオワークの大先輩であり大阪芸術大学写真学科の学科長を勤められました。

 午後遅くになって時々みぞれが吹きつけてきます。金剛山や和泉葛城山に雪雲が来ていました。


31日、大晦日。昨夜は夜通し台風のような強風が吹きつけていました。寒さに弱い鉢植えのコリウスは越冬のために室内に入れています。朝、霞んでよく見えなかったのですが金剛山に霧氷ができているようで山上付近が白く見えています。西側に続く和泉葛城山系も所どころが白くなっています。この金剛山から北へ約30Kmにある生駒山にはほとんど積雪は無いようで、雪雲が大阪の南寄りに通ったのでしょう。なお、金剛山は12月16日に初降雪、昨日から降りだした雪で20cmの積雪だそうです。山上付近の樹木が枝先まで真っ白に輝く光景は見事なものです。

 あと僅かで新しい年を迎えます。良いお正月をお迎え下さい。


11月 07年12月 1月