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葛城山上の雲間からの日の出でした。教育テレビの「翁」を時々見ながら新年の光に向けてまたたくまに1GBを撮影。1日1GBのノルマは消化しました。その後「関口知宏の中国鉄道大紀行・秋の旅・決定版・瀋陽-フフホト」を見ながら、以前に何度も同じ様に中国を旅したことを思い出しています。中国・内蒙古自治区のフフホト(呼和浩特)(衛星写真地図)へは北京から鉄道で1日、ハイラル(海拉爾)(衛星写真地図)までは旧満州から大興安嶺を越えて丸3日間特急に乗ります。テレビと同じように中国の人たちとの暖かい触れ合いは忘れられません。いずれこのホームページでその一端でも書こうかと考えています。 2日、連凧が空高く揚がっていました。少し風が強かったので勢いも良く久々に見た風景でした。 今年も年賀状を重い位いただきました。一年に一度の事ですが私にはこれが生きている証といえるほど大事なことでありがたく思っています。年賀状のさまざまなコメントはその人と為りをよく伝えてくれます。卒業生の中にはもう孫がいるようになって自分の写真でなく孫の写真が写っていたりします。時間はアッという間に過ぎて行くのですね。それに今年は世相を嘆いたものが多くありました。一口に言えばモラルの低下がもたらしたさまざまな出来事に対してです。そういえばそれらは大阪発が多い、ような気がします。 今日も一日デスクワーク。日中のテレビはまったく見るべきものが無く消灯、夕刻からのウイーンフィル・ニューイヤーコンサートの再放送を昨日に続いて楽しみました。ジョルジュ・プレートルの軽妙な指揮で小品ばかりをアップテンポで次々と演奏、ダンスなどの豪華な演出もあり、アンコール曲の「スポーツポルカ」ではプレートルがレッドカードで退場するもアンコールは続き、聴衆の手拍子も指揮するなど楽しいコンサートでした。
3日、今回も大阪から西名阪、名阪、東名阪、伊勢湾岸道と乗り継いで豊田市に向かうのですが、例年お正月は普段あまり運転されない方の遠乗りとか、酒帯び運転(さすがにこの頃は少ないと思うのですが)とかが走っているのでいつもより緊張します。で、やはり東名阪が事故で10数キロ渋滞とかで東名阪に入らず亀山から国道1号線と23号線で四日市まで走り、「みえ川越IC」から伊勢湾岸へ(地図)、それでも予定より30分ほどの遅れですみました。1号線がほとんどバイパスになっていて走りやすいためもあります。夕刻もまだ東名阪は渋滞していたようですから判断は良かったようです。途中の鈴鹿山脈、御在所岳は雪をいただいていました。豊田市では鎮守・挙母神社へ初詣、三日というのに長蛇の参拝者です。お札とお守りをいただいて新年会へ。
4日、豊田市に一泊して朝ご先祖様の墓参り。どこの墓地に行っても墓石を見て没年とかその他刻まれていることからいろいろと推測する変な趣味があります。ある家の墓地には文化年間に毎年のように墓石があるのはどうしたのだろうかとか、無縁になった墓石に明治・大正は止むを得ないとして、昭和40年代があるのはかわいそうだ、とか、歴史にさまざまな人生あり、と思いは尽きません。
5日、真っ青な空が広がったのでまた堺の大浜公園の南台場(砲台)跡へ行き細かく見てきました。南端の土塁、石垣、水濠(外堀)あたり(I-M)の続きです。
そのために水濠の土塁(N)間際まで道路が広げられています(上左の昭和初期の写真)。路面電車が走っていた当時の水濠の位置は1942年の航空写真と現在の地図とを重ねて確認すると現在の水濠の遊歩道の付近までとなり、遊歩道付近に往時の土塁(N)があったことになりますので現在では完全に失われています。そして現在の土塁は路面電車が走っていた時の道路の中ほど、レール付近の位置に相当します。
この路面電車の走っていた道路際の新しい石垣の東端、公園南東入口(衛星写真地図)に至ると隅石に少し大きな石があります。絵図と現在の地形図、公園の現状とを比較してみると、おおよそのNの土塁とAの土塁の延長線とが交わる地点付近になり(ただし正確にはもう少し西になるのですが)、失われたAの土塁の位置を確認するには良い目印です。上左の写真ではこの隅石から画面右端に見える樹木の繁ったあたりまでが今は失われているAの土塁の南部になりますので、画面中央にある茶色のゲートの向こうが南東の水濠(L-M)があった位置になります。なおこの公園南東入口辺りは台場跡よりもわずかに東側へ公園地が広くなっていますので、Aの土塁の石垣が道路に沿ってずっとあるように見えますが、南部は新しく造られたものですから注意が必要です。(続く)(6日に文章と写真を追加、一部修正しました)
6日、日曜日。文章と写真だけではどうも実感がつかめないので、現在の地図上に1942(昭和17)年の航空写真にあった水濠の位置を落とし込んでみました。青色が現在残っている水濠の位置、水色が42年航空写真の水濠の位置、茶色が現在残っている土塁の位置です。衛星写真地図と比較して確認していただくと水濠の位置が良く解ります。現水濠が往時の一部であること、埋め立てられて公園の樹木に覆われ、入口の通路になってることなどです。 さらに南台場の南水濠(外堀)の往時を知るために写真合成で復元してみました。右(南)の土手を遊歩道付近まで幅寄せし、水面を合成してあります。5日に掲載した写真と比較してご覧下さい。元の水濠にすることにより、現在の庭園風の水濠よりはるかに堂々とした台場の景観になります。(本来ならば中央の樹木の部分も水濠や土塁になっているのですが、暫定作成のためそのままにしています)(続く)
7日、地図や衛星写真を見ていると周辺とは少し変わった部分を見つけることがあります。それがどうしてそうなったか、という謎解きが楽しみです。上のGoogle Map、この住宅地は曲線を描いて建並んでいます(画面左側の+ −で付近の状況をご覧下さい)。ここ数年この謎がなかなか解けなかったのですが、最近手に入れた地図でやっとわかりました。大体曲がりくねっているような所はかって川(旧河道)や溜池などがあったために道路や境界が曲がっていて、そこに建物が建てられるとこのように変わった景観を生み出します。古地図や地質図、古絵図を見る度に気をつけていたのですがなかなかわかりませんでした。これはどうも古いものだけにあたっていたのでそれが盲点だったようです。 1929(昭和4)年 堺市砂道町付近地形図
追記:この引込線軌道の跡地へ行ってみました。普通に住宅が建ち並んでいますが道路はかってあった軌道のカーブに沿ってきれいな曲線を描いています。写真は軌道跡南の道路で、西側から東にある南海高野線浅香山駅方面を望んだところです。かっては向こうの浅香山駅から手前へ専用鉄道の軌道が延びていたところで、左側の住宅は軌道上に建てられています。軌道のことですからその幅はちょうど家一軒分がぴったりで、家の両側が道路に面しています。そして軌道跡北の道路は曲線を描いて砂道町3丁と2丁の境界となっています。(なお堺市では「丁目」でなく伝統的な「丁」を使用しています)(2011.1.2追記) 8日、11月15日に昇天したMacintosh
iBook G4のハードディスクをやっと入れ替えしました。入れ替えは大変な手間がかかる、ということで、そのうち、そのうちで、ずっと置いてあったのですが、やっとその気になって取りかかりました。現在再インストール、バックアップデータのコピーも済み、前と同様に動いています。 10日、1月17日は阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)<総務省消防庁データ>の日です。震災時から現在まで、神戸と芦屋を定点観測で撮影記録している約1500ヶ所から、幾つかを選んで1月17日まで掲載します。またいろいろと思うことも書いてみたいと思います。 1995年1月17日の大震災からもう13年になろうとしています。地震の強さ、災害の大きさは言うまでもないことですが、都市災害への備えが無かったことがあれ程の被害を生じた大きな原因だったように思います。国も自治体も個人もすべてが盲点を突かれたような大事件でした。大震災の時に迅速な対処ができなかった国や自治体は、多大な犠牲者と甚大な損害を教訓に、防災に対する意識は震災前と比べれば相当に変化してきたと思います。すべてが良くなったわけではありませんが一定の評価はできます。しかし個人の意識はどうでしょうか。私は被災地以外はまだまだ他人事として何らの意識改革も対策もされているようには思えません。前にも書いたことがありますが、個人住宅の耐震対策、防災対策は遅々として進んでいません。自治体がいくら警鐘を鳴らしてもです。人々が集まる公共施設に類する建物やライフラインはこの10年で相当に改修・改善されています。住宅も新規の建築はまず大丈夫でしょう。問題は古い住宅と賃貸住宅で、死傷者のほとんどがここに居住していました。特に賃貸住宅では家主がそこに居住していない古い賃貸住宅の耐震・防災対策は皆無に近いのです。これを公共施設に準じたものとして規制と強力な指導が必要なように思います。居住している住民は安全な賃貸住宅にできるだけ早く転居しましょう。入居者の減少した賃貸住宅は改修か建替えせざるを得なくなります。東海、東南海、南海地震<防災システム研究所ページ>をひかえて我が身と家族を守るためには断固とした防災に対する意識改革が必要です。一人ひとりの実行が社会全体を変えていく力になります。
11日、典型的な木造2階建アパートの被害とその後です。阪神・淡路大震災ではこのようなアパートや文化住宅など終戦後に建てられた集合住宅は耐震性が無かったため多大な被害を受けています。
12日、豊田市能楽堂の「新春能」で大阪から車で日帰り撮影でした。目的は「翁」(金剛永謹)に続く「挙母之風流」(野村小三郎ほか)です。これについては既に12月16日と1月3日に少し触れていますが、私が待ちかねていた舞台です。というのは私の故郷の氏神さま、「お子守さん」が現われるからです。豊田市能楽堂が狂言師・野村小三郎師に依頼して地元の神様をテーマにした風流(ふりゅう)を制作、本日が初演、この写真が初公開!です。 挙母(ころも)は豊田市の旧名ですが、その挙母の「お宮さん」は「お子守さん」です。明治4年から「挙母神社」(衛星写真地図)と言うようになりましたが、もともとは「子守大明神」で、吉野・水分神社から勧請した神様です。「お子守さん」のご祭神は高皇産靈神(タカミムスビノカミ)、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々藝尊(アメニギシクニニギシアマツヒダカヒコホノニニギノミコト)、天萬栲幡千幡比売命(アメヨロズタクハタチハタヒメノミコト)、天之水分神(アメノミクマリノカミ)、国之水分神(クニノミクマリノカミ)で、同所に秋葉社(火産霊命ホムスビノミコト)、御鍬社(豊受比賣命トヨウケヒメノミコト)、津島社(建速須佐之男命タケハヤスサノオノミコト・櫛稲田比賣命クシイナダヒメノミコト)・金刀比羅社(大物主命オオモノヌシノミコト、金山毘古命カナヤマヒコノミコト、金山毘売命カナヤマヒメノミコト)・天満社(菅原道真命スガワラノミチザネノミコト)がおられ、他に子守稲荷社(宇迦之御魂大神ウカノミタマノカミ・佐田彦大神サタヒコノオオカミ・大宮能売大神オオミヤノメノオオカミ)、子守薬師(浄土宗輝雲山瑞光院薬師寺)がいます。境内にはかって「匂い桜」があって和歌にも詠まれるほど有名だったようですが、今は歌碑があるだけです。「お子守さん」には何十本もの大楠が鬱蒼と繁っていました。これは私の子供時代の遊び場でして、よくこれに登って遊んだものでしたが、1959(昭和34)年の伊勢湾台風で殆どが倒されてしまい、今では広々となった境内に車が自由に乗り入れられ、自動車の街に相応しく車のお祓いも多いのだそうです。それでも何本かは市指定天然記念木があり、大きい楠は650年ほどの樹齢とのこと。それに秋祭りの「挙母まつり」では「試楽(宵宮)」に山車が境内を曳き廻る「七度詣り」や、「奏楽(本祭)」には8台の山車が華麗に並びます。 舞台の「挙母之風流」ではシテの子守大明神(写真右端)、子方の匂櫻之精(写真では柱の蔭で見えませんが)、子守天満宮、子守稲荷社、御鍬社、金刀比羅社、秋葉社、津島社の神々が立並んで出現、所繁盛・富貴・栄華・長寿・息災なれ、と舞い祝う祝言です。この日の催しは「翁」が特定しない神の象徴として現われ、三番叟(三番三)が「翁」を分かりやすく面白く表現し、風流でご当地の神さまを見せます。この日はその後「嵐山」(豊嶋三千春)が演じられ、京都嵐山に吉野の子守明神などが現われ桜の下で祝い舞うという神さま尽しのめでたい舞台でした。(関連: web Gallery の「能楽」から「大地の能」をご覧下さい) 13日、昔からの住宅地は道が狭く、それはそれなりに風情もあり住民のコミニュケーションも密で暮らしやすいのですが、防災上では問題があります。建築基準法では原則として前面道路の道路中心から2mのセットバックがないと建築できません。従って狭い道路に面していた住宅が建替える場合に家が小さくなります。阪神・淡路大震災ではこれを機にさまざまな復興のための区画整理や都市計画がなされ、セットバックや換地がなされ、道路が広がり公園が造られました。それで所によっては震災前の風景の名残もない所も随分できました。ただ一方で、現代都市に組み込まれてしまったかっての農村地区の伝統的、歴史的景観がこの建築基準法にはそぐわない部分があります。すべてが区画整理されて心癒される景観が失われていくことの兼ね合いも考えておかねばならないことだろうと思います。
14日、マンションの倒壊です。安全な建物、と思いがちですが実際はそうではない建物も多くありました。
15日、引続いて鉄骨造の集合住宅です。基本的な強度不足です。1階が店舗だったため壁が少なかったのが強度不足になった大きな原因だろうと推測しています。市中によくある1階が店舗、2階が居宅という木造2階建ての建物は阪神・淡路大震災では壊滅的被害を受けました。これも壁量の不足によるものと思われます。また多層階の集合住宅、ビルでは被害が低層階に集中していました。低層階の構造、基礎などの強度不足は激震で大きな被害をもたらします。
16日、阪神地区に多くあった木造2階建て住宅が倒壊していた状況の一部で、特別な状態だけを集めたものではありません。これらのような耐震性が無い住宅の1階に起居していた、と考えてご覧になってください。
17日、また阪神・淡路大震災の日がやってきました。各地で追悼の催しが行われています。多くの犠牲者の方々がいました。13年前に取材した時、聞くのもつらい状況を数多く知りました。その現場も撮影させていただきました。天災というだけではなく沢山の原因があって大災害になったのです。それをこの大震災から学ばなければならないと思います。もう繰り返してはなりません。
中国の友人が大阪に仕事で来られたので連絡があり出かけました。少数民族の物産商談会の仕事で、会場では少数民族のショーもあり、会場を飛び交う中国語、珍しい民族衣装や物産にしばし懐かしい中国の空気に触れた時間でした。モンゴル族の友人とは約20年前に北京から遥かの内蒙古の草原へ二人で20日ほど旅したことがあります。彼にとっては初めての祖先の地、その感激が良く伝わってきた旅でした。今は日本との貿易関係会社を経営されています。またの再会が楽しみです。 陶芸家、アフリカ研究のジュン(森淳)さんが12月20日に旅立たれたとご家族からお便りがありました。すべて内輪で済まされたとのこと。45年ものお付合いでした。悲しいことです。 18日、朝早くカモメたち(に見えるのですが)が群れて海辺からどこかへしきりに飛ぶようになりました。雁行して一団、また一団と飛んでいきます。カモメが雁行するとは知りませんでした。雁行は鳥たちの省エネルギーで飛ぶ方法で前の鳥が起こす上昇気流を利用するのだそうです。高速道路でも大型トラックの後ろについて行くとかなりの燃費向上になる、と聞いたことがあります。マラソンでも最前列は疲れるそうでベテランが前に出ないでついて行くのは良く知られたことです。 朝からJR六甲道駅の南側(地図)を撮影、阪神・淡路大震災の定点撮影です。密集した木造住宅が一面に倒壊して、道路の向こうに行くのに倒壊した住宅の屋根の上を伝い歩きした程の被害でしたが、今は芝生が一面に広がる広場に変わり、またビルになっています。同じ場所から同じ角度で撮影する定点撮影で、今の状況から震災時の場所を特定するのは困難ですので、震災前の住宅地図と現在の住宅地図をデジタルにして重ねて前に撮影した場所を特定しています。新旧を2枚並べても同じ所、とはまったく信じられない変わりようで、いずれここに掲載します。 その後、兵庫県立美術館の「ムンク展」のオープニングへ、やはり人気の作家だけあって大盛況。有名な作品だけでなくムンクの作家生活の一面を紹介した展覧会で、内容はどうぞお出かけになってお確かめ下さい。それに「コレクション展」が入れ替えで、写真はナチに迫害されて日本に亡命したユダヤの人々を記録した椎原治と安井仲治の「流氓ユダヤ」と、中山岩太の「神戸風景」が展示され、「神戸風景」では神戸空襲の写真が印象的でした。 19日、朝8時位から1時間半位、南東の空、太陽の周りに「幻日環」がはっきり現われ、太陽の両脇に「幻日」、真上の天頂には「環天頂アーク」も現われ、さらにそのその外周にももう一つの虹が出ていました(以前に撮影した「幻日環」より良いものでした。詳しい説明はweb Galleryの「雑況」でご覧下さい)。冷たい気流が流れ込んで(この時の気温は4度C)雲の粒に太陽光が屈折したものです。 20日 日曜日。少し寒くなってきてきました。時々ここに登場する落羽松(ラクウショウ)です。葉を落として梢に実を付けたままで風に揺れています。午後から雪、の予報ですが、そこまで冷え込んでいないので雨になっています。
21日、夜中に外を見ましたが雪降りの様子はありません。寒そうですがさほど冷え込んではいないようです。今日は大寒なので寒いのは歓迎です。雪降りなら早朝から撮影に、と考えていましたが中止です。 22日、西からの雲が途切れなく続いて、お天気の悪い日が続きます。 写真は1月17日に撮影した大阪市街と生駒山で、晴れた日で太陽は右上の位置にあります。偏光フィルターの効果が良く利く状態です。偏光の原理については省略しますが、効果を簡単に言えば散乱している光を整頓して反射している光を減少させることができます。従って反射して光ったためにトーンや色が失われているものをある程度回復することができます。その効果を知るには偏光フィルターを眼鏡のように眼前におき、フィルターを回転させて偏光効果を確かめ、そのままの向きでレンズに装着します。一眼レフカメラであればレンズに着けたままフィルターを回転させればファインダーで効果が確認できます。偏光フィルターを回転させるのは被写体と光源との位置関係で偏光効果が変わるので、回転させてそれを確認するためです。 今回は遠景風景の使用についてで、風景写真では気象条件により、また都市部などでは大気の汚れで太陽からの光の散乱・反射が大きいので遠くになる程明るく、青っぽくなってしまいます。いわゆる霞んだ風景になるのですが、この大気中の光の反射を減少させれば遠くがはっきり見えるようになり、霞の青さも減らせて色が回復してきます。
Aの写真はごく普通に撮影して仕上げた写真ですが、Bは偏光フィルターを使用し、全体のトーンバランスはあえて無視して、街の部分をAと同じように調整した写真です。Bは一見すると暗く仕上げたように見えますが下の部分写真、E、Fのビルの部分をご覧になればほぼ同じ明るさにしてあることがお分かりになると思います。
また偏光フィルターを使用した写真は少し赤みが強いように見えますが、偏光フィルター自身に多少の色がついていることもありますが、もともと人間の目は偏光効果に馴染んでいなくて、遠くが薄青く霞んでいるのが普通と認識していますので色が回復している偏光効果写真に違和感を持つのです。部分写真のマンションの蔭の部分で比較してみると、普通の写真は薄青く色がカブっていますが、偏光効果写真の方は青さが無くなって自然な色になっています。それで相対的に補色の赤味が強いように見えるわけです。 このBの写真で最も効果があるのは山と空の描写です。説明は不要な位くっきりとした風景になっています。山は冬の山肌ですから少し赤味があるのですがそれが出ています。空は暗くなり雲のトーンも豊富です。これで偏光効果の写真を実際の作品に仕上げるには、Cのように建物のトーンが失われない程度に明るくして違和感を無くすか、逆にDのようにコントラストを強くして強調するのも一方法です。
G、Hの写真は左側に太陽があり、青空に浮かんでいる雲ですが、偏光フィルターの効果が良く利いていて、そのために全く表現が違います。どちらが良いかは写真の目的、好みで使い分けます。偏光効果も完全に利かすのでなく、中間で止めたり、僅かに利かすといった応用は内容によって臨機応変に工夫があっても良いでしょう。また偏光フィルターは被写体と太陽の位置関係で効果が無い場合がありますので、使用する場合はその点も考えた撮影計画が必要です。 23日、相変わらずお天気はぐずついています。東日本からは雪便りがとどきました。早朝にカモメの雁行、見ているとキッチリ付いて行くカモメ、道草をするカモメ、途中でエスケープするカモメなど人間模様にも見えます。 24日、厚い黒雲が往来し晴れたり曇ったりの不安定なお天気で、さほど気温は低くないのに風は冷たく寒い一日でした。 25日、朝、生駒山の山上に黒雲がわずかにかかり、そしてすぐに去った後には白くなった山上が見えました。小1時間で山上の雪も消えて自然のショートストーリーは終わりました。日中は小さな雪雲があちこちへ驟雨のように小雪を降らせて走り回っていた今日でした。 26日、朝7時半、残月が西の空に、まだ寒さが続いています。 明治の一村一社令と後の道路建設の為に消えてしまった由緒ある神社や、確証がないのに遺跡とされている古い墓地跡が気になっていて、取りあえずwebで調べているうちに日が暮れてしまいました。しかしその途中で素晴らしい発見というか、webならではの貢献をされておられるサイトに巡り合いました。例えば名著、吉田東伍「増補・大日本地名辞書・上方」をテキストにして掲載されています。これにより本と違って検索が可能で、素晴らしく迅速に目的の内容が引き出せるのです。またそれ以外にも多数の著作権の保護期間が過ぎた著作をテキスト化されておられて、この「私設万葉文庫」は個人のお仕事だと思いますが頭の下ることです。すでに図書館などでは歴史資料、絵図・写真などをデジタルアーカイブとして早くから公開を進めています(例えば国立国会図書館近代デジタルライブラリー、アジア歴史資料センター、国立公文書館など)。これらはこの「近況」でも時々利用させていただいています。また有志で文芸作品などのデジタルアーカイブを進めているサイトも幾つかありますし、さらに身体障害者のために音声化しているボランティア活動のサイトなどもあります。 これらは著作権の保護期間が終了した著作物を対象にしているもので、著作権は保護期間が過ぎれば社会の資産として利用されることは良く知られていることですが、現在では著作権の保護期間は延長される方向にあり、それは著作者の権利を尊重し財産的保護を保証するもので、著作にあたる立場としてはありがたいことですが、公益性とのからみでその保護期間についてはいろいろと論議のあるところです。ささやかな私の著作もいずれはその保護期間が終了するのですが、その時に少しは公益に利することができるような内容でありたいと考えています。 27日、日曜日。金剛山は雪化粧をしたままですが、大阪周辺の山々は谷間に雪が残る程度です。京都はさすがに寒いようで、比叡山、北山、西山は白く雪をいただいていました。時々チラチラと降る小雪の中で金剛定期能の初回に金剛能楽堂へ出かけました。 初番は金剛宗家永謹・龍謹父子の「神歌」、「翁」の詞章を謡います。12日に豊田市能楽堂新春能で同師の「翁」を撮影していますので今年二度目になります。能舞台正面と舞台周囲に注連縄がめぐらされて結界された能舞台の新春に神が訪れます。次は今井清隆「草紙洗」、宮中の歌合わせで小野小町の歌に古歌の疑いがかけられますが、加筆された万葉集の草紙を洗って疑いを晴らし、舞いを舞うというもの。華やかな舞台に人間の裏面性をドラマチックにからめた能です。狂言は「宝の槌」金剛会には珍しく善竹忠一郎家の狂言。 キリの能は宗家父子の「是我意(ぜがい)白頭」、白頭(はくとう)の小書(特殊演出)で、普段の黒頭でなく歳を経た白髪の大天狗が登場し華やかな演出になります。前場は能面を着けない直面(ひためん)で、山伏姿の中国の大天狗・是我意坊(永謹)が愛宕山の太郎坊(龍謹)と謀って日本の仏法を妨げようとします。 後場は比叡山の僧(ワキ)に白頭・悪尉べし見面(「べし」は「やまいだれ」に「悪」)、白装束の是我意坊が襲いかかりますが、僧の祈りに不動明王や都の神々が現われて是我意坊を追い返してしまいます。能の中の天狗や鬼のほとんどが調伏され逃げ帰るのは宗教と芸能の原点を踏まえているからで、現代人が忘れかけている絶対的なものに対する恐れを思い起こさせてくれる芸能です。 29日、お天気のくずれが続いていて終日小雨が降っていました。今日から上野の森美術館で井上博道氏の写真展が始まりましたが行ってみたいものです。そのかわりに(?)本日は大阪市内の写真展などへの行脚をいたしました。中でも渡部まなぶ氏の「都市再生・千フィート今昔」は実に写真の記録性を見せてくれるものでした。30-40年前に撮影された大都市とその現在とを定点観測で見せます。それが彼の仕事である航空写真でやってのけているのです。私も以前には多少なりと空から撮影することもあって、例えば終戦直後に米軍が撮影した焼け野原の大阪駅付近の航空写真を同じ所からヘリで撮影するということもしましたが、専門の彼はすべてを自分の写真で、東京、横浜、名古屋、大阪などの都市景観を定点観測の空撮で見せています。さすがです。また阪神・淡路大震災の時は直後に被災地を空撮、発表されました。個人的なことになりますが、ちょうど私が震災の記録をしている場所の写真もありましたのでお願いしてそのフィルムをお借りし、そこに写し出された被災住宅などの情報を収集させていただいたことがあります。まだ自衛隊が被災住宅で救助活動をしている姿があるほどの写真で、私が発表したCD-ROM「今駒清則阪神大震災写真記録集」の諸データの作成に大いに役立ちました。彼には感謝、感謝です。富士フィルムフォトサロン・大阪で31日までです。ぜひご覧下さい。
それと必見なのは大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室でされている「写真の美術/美術の写真 『浪華』『丹平』から森村泰昌まで」です。大阪の写真が燃えていた戦前を中心とした作品群と、写真を媒体にした美術作品(区別するのはおかしいと思うのですが)の展示で、同準備室のコレクションからです。内容はリンクを開いてご覧になっていただきたいのですが、写真の芸術性を追及した先人たちを一望できる優れた写真展で、2月28日からは8作品が入替えになります。中之島に建設計画だけはあるのですが、なかなかできない大阪市立近代美術館です。しかしその間にかなりのコレクションをしていますので時々は覗いて見て下さい。長堀筋・心斎橋・東急ハンズの隣のビル13階で、大阪市民で65歳以上なら入場無料です。 ついでにヨドバシカメラに立寄ってデジタル関連、写真関連の情報収集、ついMac OS X Leopard対応のポータブルハードディスク、DVDドライブなど購入してしまいました。 30日、やっと良いお天気になり、さほど寒さはないので外出には良いのですが、いろいろな書類などの作成が溜っていてデスクワークに専念です。 31日、曇ったり雪雲が来たり晴れ渡ったりと目まぐるしく変化した一日でした。相変わらず好きでもない書類作成をしています。 webブラウザーに新人が登場しました。英文版の「Flock」です。軽くテストをしただけですがなかなか良い出来です。それに比べてNetscapeが開発中止になりました。3月にはダウンロードできなくなるそうです。前身のMosaicから13年も使い続けてきたブラウザーが消えようとしているのは残念ですが、Safari、Firefox、Mozilla、Opera、Caminoと優秀なブラウザーがありますからこれも時代でしょう。それにしても開発が遅れているInternet Explorerも早く消えてくれるとホームページ作成も楽になるのですが。 |
12月 | 08年1月 | 2月 |