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近況 2010年5月


慈雲尊者の生誕地 高松藩大坂蔵屋敷跡


高松藩大坂蔵屋敷跡に建てられた慈雲尊者生誕地の碑
 大阪市北区中之島5 2009.6.4 撮影:今駒清則

5月1日
 南河内の隠れ寺・高貴寺に起居した慈雲尊者は1718(享保3)年に大坂・中之島の讃岐高松藩の大坂蔵屋敷で生まれました。(高貴寺については次を参照下さい。「高貴寺 慈雲の寺」「高貴寺 慈雲の寺の臥龍桜」)

 中之島は水運が良くそれだけに各藩の蔵が立ち並んでいました。そのためかこの辺りは数十年前までも倉庫が多かったのですが、今はビジネス街となり蔵屋敷の面影はまったくありません。
 京阪中之島線の中之島駅を出るとリーガロイヤルホテルがあり、その東の高松藩大坂蔵屋敷跡には慈雲尊者の没後200年を記念した「慈雲尊者生誕の碑」が2004年に建てられています。
衛星写真地図

 

元禄年中「新板攝津大坂東西南北町嶋之圖」より中之島(常安裏町)付近
着色した川は北(上)から曽根崎川(蜆川)、堂島川、土佐堀川

 慈雲尊者が生まれる少し前、元禄年間(1688〜1703)の中之島絵圖を掲載します。絵圖は分りやすくするために川と高松藩「松平讃岐守」を着色しました。
 慈雲尊者が生まれた高松藩大坂蔵屋敷は堂島川に架かる玉江橋の南詰西、常安裏町にありました。その東隣りは久留米藩、さらに東は広島藩の大坂蔵屋敷です。西隣りは姫路藩、また徳島藩でした。高松藩大坂蔵屋敷は南の土佐堀川まであったようで、土佐堀川に架かる田邊屋橋(後に常安橋)と越中橋が南への橋でした。

 屋敷には金毘羅社を祀り、毎月の9日、10日の縁日には横を通る常安町筋に夜店が出るほどで、殊に10月10日の例祭には芝居、ニワカなどの芸能や造り物などもあって町人も多く参詣したとのことです。
 各藩の蔵屋敷にはいずれも鎮守社があり、長堀川の土佐藩大坂蔵屋敷にあった稲荷社は今も土佐稲荷神社
衛星写真地図として伝わっています。

 金毘羅祭のその賑わいは讃岐の金毘羅さまのご利益があらたかだったからなのでしょう。慈雲尊者も13歳で法楽寺へ出家するまでは蔵屋敷の内からこの祭を楽しみにしていたことでしょう。

 


  

中之島 大坂蔵屋敷

5月4日、みどりの日。暖かい好天の連休です。

 今回は1687(貞享4)年の大坂中之島付近の絵圖を掲載します。翌年の貞享5年(1688年)は元禄元年ですから「慈雲尊者の生誕地 高松藩大坂蔵屋敷跡」で掲載した元禄年間の大坂中之島付近絵圖よりも貞享絵圖の方がやや古いものです。
 比較すると、まずこの付近の堂島川には橋が見られません。元禄期に入ると堂島川と曽根崎川の間を開発する堂島開発が進み、それに伴って堂島川に架橋されました。田蓑橋
(たみのばし)は1693(元禄6)年、玉江橋は不明ですが別の1703(元禄16)年の絵圖にはあることからその頃に架橋されたのでしょう。

 その堂島は貞享絵圖では「新築地」となっていてまだ農地ですが、元禄期絵圖では田蓑橋の北に蔵屋敷などがあり、新茶屋町(遊里)や、玉江橋の北にも舟大工町ができて堂島が市街化された様子が伺えます。
 これは堂島に米市場(後に堂島米会所)が設けられると諸国から水運を利用して大坂へ米が集まるようになりました。それに伴い物産も運ばれて藩の蔵屋敷に収められ、大坂の商人によって盛大に取引されました。それは諸藩の財政運営には欠くことのできない重要な経済活動となり、これによって大坂は繁盛しました。
 堂島川、土佐堀川、江戸堀川、長堀川などには諸藩の大坂蔵屋敷が数多く設けられ、最も多い江戸末期には124もの蔵屋敷があり、特に淀屋常安が開拓した中之島には蔵屋敷がぎっしりと建ち並び、それは明治初期までその名残を留めていました。
 

1687(貞享4)年 「大坂大絵圖」から中之島付近
川は北(上)から曽根崎川(蜆川)、堂島川、土佐堀川、江戸堀川

 中之島に建並ぶ蔵屋敷ですが、貞享と元禄の絵圖では所有者が変わっているところがあります。大名の国替などがあったためなのでしょうか、先に話題にした高松藩(松平讃岐守)、久留米藩(有馬中務)、広島藩(松平安藝守)などは変わっていません。

 

1887(明治20)年仮製地形図から中之島付近 まだ船入が見られる。
曽根崎川(蜆川)は埋め立てられて狭い水路になった。

 1887(明治20)年の仮製地形図を見ると蔵屋敷があった所に船入が残っています。船入とは蔵屋敷の中に造られた池状の荷揚げ場で、荷を運ぶ船が川から蔵屋敷へ直接入れるようになっていました。

 

1929(昭和4)年中之島の地形図 玉江橋から堂島大橋の間に船入の跡が残っている。

 1929(昭和4)年の地形図でも船入の堀があります。堂島大橋南詰めの船入は三菱倉庫になっていますが、現在はグランキューブ大阪が建てられています。

 

「芸州大坂御屋敷全図」と広島藩大坂蔵屋敷発掘調査区
現地説明会資料(水面を着色) 大阪市教育委員会

 広島藩の大坂蔵屋敷の図が残されています。上の図はその屋敷図へ大阪市教育委員会が2001年に発掘した時の区域が重ねて書かれています。
 田蓑橋の南詰にある広島藩大坂蔵屋敷にも船入があり、蔵が周りを取巻き南には御殿や御用屋敷、役人の居住する長屋などが敷地内にあったことが分ります。船入の入口水路は川べりの道を横断するのでそこに小橋が架けられ、また水門も設けられていました。西の隣地は久留米藩大坂蔵屋敷で、発掘時に石垣と溝の敷地境がはっきりと確認できています。

 


広島藩大坂蔵屋敷1/50復元ジオラマ 大阪歴史博物館蔵・展示 2009.3.5 撮影:今駒清則

 大阪歴史博物館の常設展示にこの屋敷図を基にした広島藩大坂蔵屋敷船入の復元ジオラマがあり立体的に見ることができます。
 船入の水中に鳥居があるのは厳島神社を鎮守として祀っているためで、安藝国らしい風情です。また写真手前の木は「蛸の松」です。西隣り
(写真右端)の久留米藩大坂蔵屋敷の堂島川べりには枝を大きく広げた松の木があり、それが蛸の足のように見えたことから「蛸の松」として有名で、明治まであったことから写真も残っています。
 明治維新後、久留米藩大坂蔵屋敷跡には大阪師範学校が建てられ、その後身である大阪教育大学関係の同窓会が「蛸の松」を顕彰して川向こうに松を再現し、「蛸の松」ホームページを公開していますので蔵屋敷や船入が偲ばれる写真や絵などはそちらをご覧下さい。

 


中之島 再現・蛸の松 大阪市福島区福島1 2011.3.7 撮影:今駒清則 (追加掲載)

 堂島川の田簑橋を渡ると下手の川辺に再現された「蛸の松」があります。小振りですがしっかりと枝を張っています。元々は川向こう、写真の「蛸の松」の右手辺りでした。

 


久留米藩(左)、広島藩(右)の蔵屋敷跡 大阪市北区中之島4 2008.12.8 撮影:今駒清則

 久留米藩と広島藩の大坂蔵屋敷跡は中之島の国立国際美術館の北にあり、現在は空き地と駐車場になっていて大阪市立近代美術館の建設予定地です衛星写真地図
 広島藩大坂蔵屋敷は明治維新後に病院が建てられ、大阪の人には「大阪病院」「阪大病院」があった所と言えばすぐ分る所です。写真は国立国際美術館付近から北東を望んだ蔵屋敷跡の風景で、林立するビルもその多くが蔵屋敷の跡に建てられています。

 


久留米藩(左)、広島藩(右)の蔵屋敷跡 大阪市北区中之島4 2022.10.21 撮影:今駒清則

<追記> 広島潘蔵屋敷跡に中之島美術館が建てられ2022年2月2日に開館しました。外壁が黒い建物です。
 美術館の建物は御殿や蔵があった部分に建てられていて、最も重要な舟入の部分は駐車場にして一応保護された形になっています。また西隣の久留米潘蔵屋敷跡にもビルが建設中です。
 
(写真は2008年撮影と同位置・同方向ですが、少し広い範囲を撮影しています。追記:2022.10.21)



黒田藩大坂蔵屋敷の長屋門 天王寺公園内  2012.2.28 撮影:今駒清則

 蔵屋敷を偲ぶ建物としては黒田藩の長屋門を見ることができます。福岡黒田藩大坂蔵屋敷は今の中之島の阪神高速池田線中之島入口の東衛星写真地図にあって、蔵屋敷の長屋門が残されていましたが、中之島三井ビル建築に伴って天王寺公園に移築し公開されています。蔵屋敷の往時を偲ぶ建物はほとんど無く、それだけにこの長屋門は貴重な存在です。
 以前は大阪市立美術館へ行く時にこの門を通って行ったものですが、天王寺公園の改修によりフェンスで塞がれてしまい、前のように通り抜けはできなくなりました。
(2012.2.28 追記)


  

こいのぼり


こいのぼり  2010.4.24 (携帯電話カメラ)撮影:今駒清則

5月5日、こどもの日
 最近はこいのぼりもいろいろなあげ方が工夫されそれが報道されていますが、唱歌の「屋根より高い こいのぼ〜り 大きいマゴイはお父さん・・・」
(作詞・近藤宮子)のようにやはり庭で泳ぐこいのぼりが良いですね。この家のこいのぼりはマゴイが元気が無く、ヒゴイが上のマゴイを蹴飛ばすほど元気でした。
 と書いて次の歌詞「小さいヒゴイは こどもたち」で気がつきました。ヒゴイはお母さんでなく子どもなんですね。気になってちょっと調べてみました。端午の節句の由来はさておき、こいのぼりは江戸時代に揚げられるようになったのですが、当時は黒いコイしかいなかったので黒いこいのぼりを一匹(旒
りゅうと言うのが本式らしいのですが)あげていたのですが、明治頃にヒゴイが入ってきたので緋色のこいのぼりも追加、またその後青色や緑色のこいのぼりを追加してきたので、いつのまにか家族を表すとも考えるようになり、子どもが生まれると追加してあげる所もあるようです。つまりは決り事は無いので自由にあげれば良い、ということでしょう。川などにたくさんのこいのぼりをズラリと並べているのも、考え方によっては現代的な「平等」の概念に沿うものでこれも時代を表す現象とも言えます。なお旧暦の端午の節句は6月16日です。


  

三角の構成 郊外の風景


葛城山(左)と金剛山(右)  2010.5.6 撮影:今駒清則

5月6日
 大阪側から見る葛城山と金剛山です
衛星写真地図。南河内の緑豊かな地域ですが現在も宅地開発が盛んで、どんどん里山が失われています。手前の住宅地は河南町大宝に1960年代から「阪南ネオポリス」として造成した街です。
 山は三角形というのが基本形ですが、それだけで無く郊外の風景では空・山・樹・家などに三角形が無数に存在して構成されていることが良くわかります。


  

雨の日


雨 2010.5.7 撮影:今駒清則

5月7日
 低気圧が通って本降りの日でした。水面に落ちた雨粒、じっくり見るとなかなか面白いのです。


  

松野藝文館


四街道市 松野藝文館 外観 2010.5.8 撮影:今駒清則


四街道市 松野藝文館 内部 開館記念展 撮影:今駒清則

5月8日
 四街道市にこのほど開館した「松野藝文館」へ。松野奏風、秀世父子の画業の一部が数多く並べられていました。以前に拝見した懐かしい作品も多く、松野家のご親族の方に詳しく説明をいただき、つい長居をしました。この開館記念展は16日(日)までで、常設展ではないため次の展覧まで休館となります。また展覧のお知らせを頂きましたらここでお知らせします。


  

写真展巡り


お昼寝 東京・品川インターシティ 2010.5.8 撮影:今駒清則

5月8日
 品川インターシティにあるキヤノンギャラリーS西宮正明「フィルム粒子とピクセルの共棲」展、銀粒子の美しさをデジタル技術で見せるというもの。昔からある技法ですが写真がすばらしいため効果的な写真展でした。
 東京都写真美術館森村泰昌展「なにものかへのレクイエム」−戦場の頂上の芸術−、ますますヒートアップする森村作品。デジタル技術も完成度が高くなり、映像でのパフォーマンスも加わって楽しい展覧会でした。同時に「ジャンルー・シーフ写真展」。キューレターの故倉持悟郎氏によって日本で紹介された作家、魅力的なモノクロプリントです。
 さらに新宿コニカミノルタプラザ野町和嘉写真展「サハラ、砂漠の画廊」。タッシリ・ナジェールの鮮明な先史壁画。感動しました。野町氏のカメラワークと今に生きる壁画の息遣いにです。


  

三角の構成 新宿パークタワー


東京・西新宿 新宿パークタワー 2010.5.9 撮影:今駒清則

5月9日、日曜日
 都心はビルがぎっしりなので四角形がほとんどです。そこに三角形があると強いアピールができます。必然性のある三角形ではないのですが効果的なアクセントになっています。中央の高層ビルは東京都庁の南にある新宿パークタワー、地上52階、塔屋2階、地下5階、最高部235m、上部はパークハイアット東京です。
衛星写真地図


  

奈良 薪御能 一日目


東京・西新宿 新宿パークタワー 2010.5.9 撮影:今駒清則

5月11日
 恒例の奈良・薪御能の一日目。あいにくの雨模様の日で「南大門の儀」は奈良県文化会館のホールでの公演。ここでは仮設能舞台の設定を見て頂きます。
 興福寺南大門で舞われる能ですから本来は能舞台は無いのですが、ここには柱の上部が無いとはいえ能舞台になっています。背景は黒幕に竹、野外の雰囲気を出すために能舞台の後に常にある鏡板は使っていません。またこういったステージでの仮設能舞台では、舞台で舞う能楽師にとっては舞台の位置関係、特に舞台の端の見切りが分りにくく、柱があると良い目標になります。そこで柱のある能舞台を設定したのでしょう。柱とか勾欄が無いともっと野外能の感じが出るのですがやむをえないことかもしれません。それでも興福寺の幔幕があるのは大変良い雰囲気を出しています。このように薪御能は野外でできない場合には当日に文化会館へ会場を移して公演するため、主催者は悪天候に備えて文化会館にも舞台設営をしておかなければなりません。主催者の蔭の苦労がしのばれます。
 なお本日の演目は春日大社舞殿で咒師走りの「翁」金春穂高他、「南大門の儀」は能「高砂」金剛永謹、狂言「薩摩守」茂山茂他、能「鉄輪」金春安明でした。


  

奈良 薪御能 二日目


奈良 薪御能の火入れ 2010.5.12 撮影:今駒清則

5月12日
 前日の雨も上がって野外での催しですが、本年は伝統の場である興福寺南大門跡・般若の芝が発掘調査中のため使用できなくて奈良県庁前の興福寺旧境内・登大路園地で行われました。広々とした芝の公園での催しは始めてのこと。珍しい状況です。
 夕闇が迫ると薪に興福寺の僧兵が火を入れます。本来はこうだったどうか分りませんが催し物としては楽しい演出です。


奈良 薪御能 狂言「鳴子遣子」 2010.5.12 撮影:今駒清則

 本日の演目は春日大社若宮の「御社上りの儀」で能「田村」金春欣三、「南大門の儀」で能「玉葛」観世喜之、狂言「鳴子遣子」茂山良暢他、能「舎利」辰巳満次郎。いつもは柱の無い芝舞台(実際には所作板が敷いてありますが)と違って、柱がある能舞台の設営になっています。場所が南大門跡ではないので能舞台を設えたということでしょうか。曇り空でとても寒い風が吹く一日でしたが多くの観客が熱心に鑑賞しておられました。
 薪御能は現在宗教行事と直接関係していませんが、それでもその名残を残す古都奈良の重要な行事です。この後、興福寺の南大門を再建するようなことがあれば、南大門跡での催しはできないので、その時はここでこのように催されることになるのでしょうか。なお来年から薪御能の期日が5月第3の金・土へ変更されます。

 なお「薪御能」の写真・ビデオ撮影には主催者と演者の許可が必要です。掲載の写真は許可を得て撮影しています。


  

田水張る


近江路 水が入れられた田(新幹線車窓) 2010.5.15 撮影:今駒清則

5月15日
 学会で上京。車窓の近江路には耕された田に水が入れられて鏡のように輝く風景が続いています。もうしばらくすると田にいろいろな小動物が帰ってきて賑やかになることでしょう。


  

池袋の夕


東京・池袋西口公園 JAZZ FESTIVAL 2010.5.15 撮影:今駒清則

5月15日
 夕方、池袋の街角のあちこちから音楽が聞こえてきます。街角ライブだけでなく、ちょうど「2010 IKEBUKURO JAZZ FESTIVAL」が開催されていて、芸術劇場のある西口公園では本格的な会場で演奏する市民のジャズをひととき楽しみました。


  

剥製になる旧東京中央郵便局


東京・丸の内 旧東京中央郵便局の時計 2008.9.16 撮影:今駒清則

 


東京・丸の内 旧東京中央郵便局の時計 2010.5.15 撮影:今駒清則

5月17日
 丸の内の東京駅の前にある東京中央郵便局
衛星写真地図は再開発をして高層ビルに建替える計画があり、これに2009年2月、当時の鳩山邦夫総務相は建物に文化財価値があるので取壊しは「トキを焼き鳥にするもの」として見直しを求めました。また建築関係を始めとする諸団体から多数の反対意見がありましたが、結局鳩山総務相も「トキも剥製で残るような設計変更で再開発をする」ということに決着、その後も文化財として保存するよう要望が続きましたが取壊しは始められました。(バックナンバーの2009年3月4日の項も参照下さい。また衛星写真地図の衛星写真ではまだ建物全体が写っています。)


東京・丸の内 旧東京中央郵便局 (2枚合成写真) 2008.9.8 撮影:今駒清則

 


東京・丸の内 旧東京中央郵便局 (3枚合成写真) 2010.5.15 撮影:今駒清則

 建築は1933(昭和8)年竣工、逓信省営繕課・吉田鉄郎の設計、地下1階・地上5階建・鉄骨鉄筋コンクリート造です。15日現在、建物は東京駅方面の前面2ブロック程度を残してほとんどを解体し、高層ビルの建築準備中です。


東京・丸の内 旧東京中央郵便局の南側 2010.5.15 撮影:今駒清則

 建物南側の解体された跡は現在は空き地となり、残された部分は剥き出しになって断面が見えています。


東京・丸の内 旧東京中央郵便局の階段 2010.5.15 撮影:今駒清則

 不思議な空間となった階段部分が見えました。


  

こちらも剥製になる? 旧大阪中央郵便局


大阪駅前 旧大阪中央郵便局 2009.6.4 撮影:今駒清則

5月19日
 こちらは大阪駅前に建つ大阪中央郵便局です。1939年(昭和14)年に竣工、鉄筋コンクリート造6階建てで設計は東京中央郵便局と同じ逓信省営繕課の吉田鉄郎。上層になるほど高さを減じて高さ感とリズムを与える名建築です。ここも建替計画で現在は閉鎖中。やはり保存の声があったことと、景気の低迷でオフイス需要が減少しているため、高層複合ビル化の計画は延期されています(YOMIURI ONLINE NEWS)。


  

晴れた日


飛行機雲 2010.5.21 撮影:今駒清則

5月21日
 雨、晴れ、雨、晴れと変化する毎日です。朝は霧、昼から黄砂、それでも空には幾筋もの飛行機雲が残っていました。また明日から下り坂のお天気のようです。


  

今年も咲きました


胡蝶蘭 2010.5.21 撮影:今駒清則

5月22日
 ほとんど手をかけていないのに一鉢が今年も元気に咲きました。昨年より一月遅れです。寒い日が続いたからでしょうか。蘭の開花時期というのはあまり決っていないようで、個々の素質と環境で決るようで、他の鉢はまだ蕾をつけて伸びている最中です。


  

雨の二上山


雨の二上山 大阪側から望む 2010.5.24 撮影:今駒清則

5月24日
 昨日から激しい雨が降り続いていて、各地で土砂崩れによる通行止めがでたとのニュースも伝えられています。その雨の少しの止み間に二上山が見えました。大阪側から見ると左が雄岳、右が雌岳です。あまり高くない山ですが見るたびに愛着の湧くやさしい山です。


  

大和の農村歩き 13


水辺の花 2010.5.25 撮影:今駒清則

5月25日
 しばらく歩いていない大和の農村の水辺の花を求めて出かけました。


アカミミガメたち 2010.5.25 撮影:今駒清則

 整備された水辺に亀がひなたぼっこしていたので休憩がてら亀を撮影してみました。


アカミミガメ 2010.5.25 撮影:今駒清則

 目の後が赤いのでミシシッピアカミミガメ(幼名ミドリガメ)です。写真の亀は威張っているわけではありません。こちらを注意深く見ていて、何かあれば水に飛び込んで逃げようと身構えているのです。ですから目はこちらに向けたままです。


水中のアカミミガメ 2010.5.25 撮影:今駒清則

 水の中でもこちらを見たままです。ちょっとでも動くとすぐに水中へ潜って姿を隠します。


アカミミガメのまばたき (マウスでポインタを乗せてみて下さい) 2010.5.25 撮影:今駒清則

 ペットで飼われていたミドリガメを捨てた結果、日本にいる亀はそのほとんどがこのアカミミガメになってしまい、在来のイシガメやクサガメをほとんど見ることができなくなっています。特に害は無いようなのですが、水辺の生態系のバランスを崩している代表例です。


  

反映する風景


反映 2010.5.25 撮影:今駒清則

5月26日
 メタリックなタンクローリーの後を走っていると反映するワイドな視界の中に自分の車も見えます。なんとなく楽しい世界なのですが運転中は見とれてばかりはいられません。


  

web 白川郷にも田水が


ひだ白川郷ライブカメラ映像から 2010.5.27 07:18

5月27日
 飛騨・白川郷も田に水が張られました。「ひだ白川郷」のライブカメラも動画なので道行く人もリアルタイムに見られます
(ただしブラウザーによっては映らないことがありますが)。この31日に「田植え祭り」があり、田植をする早乙女を村が公募していましたから当日はきっと賑わうことでしょう。


  

テントウムシに大接近


テントウムシ 2010.5.28 撮影:今駒清則

5月28日
 テントウムシが飛んできました。動かないので大接近。撮影途中でまた飛んで行ってしまいました。もうちょっと撮影したかったのですが。


満月 2010.5.28 撮影:今駒清則

 満月ですが雲が多くマルマルは見えません。でも雲は美しい光彩を見せていました。


  

ブラシの木


ブラシの木 2010.5.29 撮影:今駒清則

5月29日
 ビンを洗うときに使うブラシのような花が咲く木です。ちょっとだけ撮影時期が遅かったかもしれません。


  

亀山サンシャインパークで


亀山サンシャインパーク 2010.5.30 撮影:今駒清則

5月30日、日曜日
 日帰りで名古屋方面へ。土日1,000円高速料金のおかげで平常の半額程度で利用できました。それで東名阪自動車道の渋滞を懸念したのですがそれは無く、途中亀山パーキングエリアとつながっている亀山サンシャインパーク
衛星写真地図で休憩。公園の中心に池があり暑い陽射しに水辺を求めて散策する家族づれで賑わっていました。


亀山サンシャインパーク 2010.5.30 撮影:今駒清則

 池の水面に小魚の群れが。遠くて魚の種類は分らないのですが元気に飛び跳ねていました。
 亀山の先、鈴鹿あたりで24日の大雨で土砂崩れした所付近は50Km規制になっていましたがどの車もまったく規制無視。しかし車は順調に流れていました。


4月 2010年5月 6月